岩手県(イーハトーブ)・花巻市に行ってまいりました、
ほぼ日刊イトイ新聞の
&わたくし でございます。
北上川のほとりを歩いている際に、
「宮沢賢治なりきりセット、試してみませんか」
と声をかけられたので、
「はいはい〜(即答)」
と応じてしまい、マント姿で失礼いたします。
誘いに乗ったが、実は不安。
こちら、。
このポーズでなりきり屋さんに褒められる。
そしてこちらが、宮沢賢治さん。
(このクリアファイルは、
宮沢賢治記念館で買いました)
イギリス海岸の出現。
さて、訪れているのは花巻の北上川です。
この日はいつもより
水位が下がっていたのです。
ほら、これがいつもの北上川。
(『黄昏』取材写真より)
これが今日の北上川。
なぜ、このように水位を下げる必要があるのか。
それは、かつて、宮沢賢治さんが命名した
ここ北上川の河畔の風景「イギリス海岸」を
再現しようしているからです。
イギリス海岸。
そして、なぜ「イギリス海岸」という名前に
なったのかというと、
それは、この河畔に露出する泥岩が、
イギリスのドーバー海峡のように
白く見えたから、ということだそうです。
賢治は(いきなり呼び捨てになりました)、
学校の先生をしていたとき、生徒さんと
よくこの河原を散歩していたのです。
ここで、くるみの化石を見つけたこともあります。
ここは、三世紀頃、
じっさい、海の渚だったと言われてもいます。
川のほとりのパネル展に
掲示されていた説明文によると、
『銀河鉄道の夜』に登場する
あのカムパネルラの川も
この北上川がモデルのひとつになっているそうです。
ジョバンニが見た水素の銀河と、
カムパネルラが烏瓜を浮かべる川。
銀河を行く鉄道に、我々は思いを馳せました。
ほとりのパネル展。
賢治が当時見たイギリス海岸の風景は、
水流の変化や上流にダムができた影響で
川の水量が高位安定したため、底に沈んでいます。
しかし、賢治の76回目の命日のこの日(9月21日)、
北上川につながるダムの放水を減らして
イギリス海岸を出現させようということになったのです。
5つのダムががんばって水量をしぼり、
イギリス海岸の姿が、少しだけあらわになりました。
いつもとは違う川の姿を見に、
たくさんの人びとが訪れていました。
河畔でおべんとう。
お花も咲き乱れ、たくさんの見物客。
ロープをつたってめざすは、
ふだんは川底の岩。
G
上から眺める人。
下から手を振る人。
みんな、めずらしい風景を
カメラにおさめます。
凝灰岩という泥質の岩だそうです。
くるみの化石をさがしたり、
突然水かさが減って驚いた川の虫たちを眺めたり、
ひとしきり賢治ふうにたたずんだりなどしたあと、
我々はイギリス海岸の近くにある休憩所で
ひと息つかせていただくことにしました。
休憩所のテーブルの上には、
イギリス海岸の凝灰岩の見本が置いてありました。
凝灰岩(泥)。
テーブルには、ほかにも、
出してくださったお茶、宮沢賢治の資料、川藻の見本、
かぼちゃ、周辺の植物の見本、ハサミ、楊枝などが
ずらっと並んでいて、
そこに「どうぞつまんでくださいね」と
ゆでた枝豆の載ったお皿も置かれていました。
いろんなものが並んでいました。
このように、さまざまなものが
こまかくテーブルに載っていたので
しかたがないのですが、
我々の前に座ったおじさん(同じく旅人)が、
「ぱくっ!」と、ひじょうにすばやく
凝灰岩の見本の、小ぶりなひとかたまりを
口に入れてしまうというハプニングがありました。
★
岩のいれものが菓子折りに
見えなくもない。
我々は思わず、目を見開いて、
「そ‥‥それは、食べ物じゃ‥‥な‥‥!!」
と叫んでしまいました。
その方は、あきらかに
口が泥でいっぱいになっているのに
「だよね〜(ジャーリ、ジャーリ)」
と、あかるくおっしゃって、
ゆっくりと、しかし渇望するようにお茶を飲んで、
泥をそのまま胃の中に収めておられました。
涙目になりながら
「昔はね、泥もよく食べたもんだよ」
と、笑って立ち去ろうとされましたので、
「写真を撮ってくださますか?」と声をかけ、
我々の写真を撮っていただきました。
(おじさんの写真を撮る勇気はありませんでした)
これがその写真です。
宮沢賢治さん、イギリス海岸の泥は
噛めるくらいやわらかいんですね。
おじさんのおなか、お大事に‥‥。
一所懸命やってきた。
さて、前置きがかなり長くなってしまったのですが、
今回、我々が花巻を訪れた理由は、
このイギリス海岸を見ることに加え、
たいせつなイベントがあったからです。
それは、吉本隆明さんの宮沢賢治賞授賞式です。
我々も、取材席につきます。
宮沢賢治賞は
「宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい
研究・評論・創作など」
に贈られる賞。
今回で第19回を迎えます。
主催は花巻市、選考は
宮沢賢治学会イーハトーブセンターが行います。
中央には、宮沢賢治の写真。
開会前。時間は9時半ごろです。
今回、吉本さんが選ばれた理由について、
宮沢賢治賞選考委員長の斉藤征義さんは
ごあいさつのなかで
このようにおっしゃっていました。
斉藤征義さん
「吉本隆明さんが、戦後最大の思想家として評価され、
その思想が多くの人々に影響を与えていることは
いまさら申すまでもないことです。
吉本さんは、1942年に花巻を訪れ、1943年1月に
はじめて宮沢賢治について文章を書かれました。
1989年には『宮沢賢治』を刊行されました。
その後も吉本さんの、賢治への関心と洞察は深く、
多くの評論でも言及され、
賢治について、長いあいだ研究を続けてこられました。
本賞の表彰につきましては、
遅きに失した感もございます。
このたび、吉本隆明さんの数多い講演が
『吉本隆明 五十度の講演』として、まとめて刊行され、
賢治についての貴重な講演も収録されていることから、
これを機会に、吉本さんの活動について
再検証させていただくことになりました」
そして、吉本隆明さんは、
式典に少し遅刻して入場し、
花巻市長から、表彰状を受け取られました。
表彰の言葉を聞く吉本さん。
おめでとうございます。
そして、吉本さんはマイクを取って。
吉本さんの受賞記念講演が
はじまりました。
「あのー、列車の中で、
わりあいに近くなってからですけど、
ビールを飲みましたもんで、
顔が少し赤いかもなぁ‥‥と。
お許し願います」
(会場:拍手)
ビールをちょっと飲んだので。
「今日は宮沢先生の賞をいただくということで、
一所懸命やってまいりました。
家内が病気入院中で、ぼくは足腰が立たないし
てんやわんやでありまして、
それで時間も、いろいろ贅沢なことを申しまして
たいへん申し訳ありません。
おわびをいたします」
頭を下げる吉本さん。
「宮沢さんについて、ぼくが考えていることを、
うまく話せたらと思うんですが、
ぼくは話が苦手で、書くことに比べたら、
全然お話にならないんですけど、
それはご勘弁を願います」
こうして3べん頭を下げて、
吉本さんの講演は、はじまりました。
つづきは、明日にお伝えします。 |