今日の「ほぼ日」ニュースまとめ

村上春樹さんの小説
『ノルウェイの森』が映画化されます。
糸井重里が出演しています。
観てから読むコーナー、あります。

news!
映画『ノルウェイの森』
出ました、観ました。

ほぼにちわ、「ほぼ日」のです。
2010年12月11日、
映画『ノルウェイの森』
日本で公開されます。

『青いパパイヤの香り』『シクロ』などで知られる
トラン・アン・ユン監督が、
村上春樹さんが1987年に発表した
同名の長編小説『ノルウェイの森』を、
自ら脚本を執筆して映画化した作品です。
主演は松山ケンイチさんです。


(c)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、
   フジテレビジョン

この映画のはじめのあたりの数秒間のシーンに
糸井重里が出演させていただきました。
大学教授の役です。

じつは、糸井は
「演じること」に興味がありつつも
(ありすぎるせいで、といったほうが正確かもしれません)
とても苦手に思っています。
ですから、ドラマや映画に「出演」は
ほとんどしないようです。

‥‥なのですが、
我々「ほぼ日」乗組員のなかに
村上春樹さんの『ノルウェイの森』を
愛読した者が少なからずいて、
「ちょっとだけですから」
「きっと台詞はありませんよ」
と短く口説いた結果、
「じゃ、いいよ」
ということになりました。

そして、後日、台本が送られてきました。


これが台本です。


台本を前にした糸井です。


「‥‥‥‥‥‥」


自分の登場シーンを確認したあとの糸井です。

その、「期待していなかった台詞」が
思いのほか、ありまして、
さらにその内容が
思いのほか、むずかしかったのです。
その「大学教授」の専門分野は
ギリシア悲劇でした。

台本を見ると、そこには
ギリシア悲劇「アンドロマケ」についての
授業のシーンが必要とされていました。
ややこしいカタカナのオン・バレードです。
トロイア、ヘクトル、アンドロマケ、アカイア、
ネオプトレモス、ヘルミオネ‥‥。

いやあ、わたしら素人には
こんなことをカメラの前で言うのはムリです。

「俺もムリだよ」


「こんなこと言ってるけど、どうする?」
「どうもこうも」

頭をかかえ、
吉本隆明さんに相談しに行ったりして、
はたして、糸井はみごとに
この撮影を乗り切りました。


教卓の前の白いワイシャツの教授が糸井です。


トラン監督です。


我々は、現場の小さなモニターで
社長の勇姿を見守りました。

このシーンの撮影は、
原作者、村上春樹さんの母校である
早稲田大学で行われました。

舞台は、1960年代後半。
あちこちの大学で
学生運動が盛んなときでした。
村上春樹さんと糸井重里はほぼ同年代で、
その「学園紛争時代」に
東京の大学に身を置いていました。

そして、この映画に
同じように「少しだけ出演」された
細野晴臣さん、高橋幸宏さんも
(高橋さんは4年ほど下ですが)
ほとんど同世代です。
そして、小説『ノルウェイの森』が発表された
1980年代から大活躍を
つづけている人たちです。

「ある時代を知っていて、
 ある時代に移行していった人、つまり、
 細野さんや幸宏さんやぼくが
 アイコンとして映画に登場するのは、
 おもしろかったですね。
 学生時代に自分が触れてきたような
 “あのときの教授”を
 将来演じるなんてことは
 当時は思いもよりませんでした。
 学生の側にいたはずの、
 “恋愛をしていたか、デモをしていたか”
 という人間を、ギリシャ悲劇を語る人にさせる。
 ちょっとした入れ子構造になっています」
と、糸井は言っていました。
そういう意味で、糸井にとっては
おもしろい撮影となったようです。


1960年代後半の大学教授って、
こういう髪型と服装をしていたんですね。


撮影を終えてホッとひと息。

わたくしは、
映画『ノルウェイの森』の仮編集の段階で
試写に向かい、
ドキドキしながら全編を観ました。

そして、映画を観終えて、
糸井の台詞になっていた
ギリシア悲劇「アンドロマケ」は、
この『ノルウェイの森』の物語にとって、
とても象徴的だった気がしました。

一方通行の愛、
あちこちで悲しみに向かう運命の
直線的で抗えない力、
そして、それをさえぎる学生たちの叫び。
ほんの数秒のシーンが、
映画全体にひろがっていくような仕掛け、
そのことひとつでも
すごい映画だなぁ、と感じました。

みなさま、映画『ノルウェイの森』を
ごらんになったら、
ぜひ糸井の「入れ子構造」の教授姿にも
ご注目いただければと思います。

それから数か月後、糸井本人と、
数名の「ほぼ日」乗組員といっしょに
ふたたび試写に向かいました。
今度は仮編集ではなく、
できあがった映画、完成バージョンです。

映画を観終えた直後、
感想を言い合うように
糸井と雑談しました。
あまりまとまったものではないのですが、
ここに掲載したいと思います。

みなさま、できましたら
映画『ノルウェイの森』を
ごらんになったあとで、
ここから先をお読みください。

(ここから、映画の内容について触れている話となります。
 お話の内容がわかってしまいますので、ご注意ください)

(準備はいいですか‥‥)

3‥‥

2‥‥

1‥‥

(ブブー:ブザーの音)

 

── はああ、また3日間くらい、
考え込んでしまいます。
糸井 ところで、
この物語も、そうでしたね。
また、女性です。
── というと?
糸井 いちど『色即ぜねれいしょん』のときに
話しましたけど、
今回も、女性が鍵ですよ。
落とし穴を掘ったのは、
いつも女性です。
主人公が自分からすすんで行ったことは
ひとつもありません。
碁石を置いてるのは、女の人です。
── そういえば‥‥そうでしたね。
糸井 女性のテリトリーの中に
組み込まれることが恋愛の成立、
ということなんでしょう。
女性たちのお宮の中に男が
さまよい込み、紛れ込んでいく。
お宮のなかに、
直子は「いればいいのよね」と言うし、
緑(ミドリ)はちがうアプローチをする。
そして、その
入口や真ん中や出口に
性があります。

主人公が自分から動くときは、
まったくの他人に向かって、
「性」という価値のあるものを
ハンティングしに行くときだけでした。
── そうですね。
男性のほうから動いたのは、
知らない女性に対してでした。
主人公の
「やりに行きますか」
というような台詞がありましたね。
糸井 あの「やりに行く」という台詞、
玉山鉄二さんが演じた永沢先輩は
言わないようにしてたんですよね。
先輩は「女でもひっかけに行くか」という
中途半端な表現にしてるのに、
主人公は、まじめでストレートだから
「やりに行く」というふうになります。

‥‥あのですね、
性というものは、
相手が他人であると、
交渉がはじまるんです。
── 他人との交渉ですか。
糸井 直子とキズキは、仲のよすぎる
信じ合ったカップルでした。
もう、他人じゃないんです。
だから、そういう関係がありません。
直子と「ぼく」も
なかよくなったらダメになった。

「もっと他人でなくなればいいのに」
と思ってすることは、
他人とすることなんですよ。
── ‥‥‥なるほど。

(c)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、
   フジテレビジョン
糸井 ですから、恋愛や青春というものは、
他者との遭遇の物語なのです。

小説の『ノルウェイの森』が出たのは
1987年です。
そのころには、村上さんは
こういう作品にするくらいに、
そのことをまず
よくわかってたんですね。

ぼくにもそういうことが
だんだんとわかって、何年か前に、
「性」という言葉に
「ちがい」という
ふりがなをつけてみました。
── はい、そのときのこと、覚えています。
「差異」「different」「ちがい」
でした。
糸井 そうなんです。
性はdifferentなんですよ。
緑は、とてもめんどうな子ですけれども、
あの子の中に主人公は
「新different」を見つけたんでしょう。

(c)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、
   フジテレビジョン
── しかし、緑とワタナベは、
うまくいくのでしょうか。
もしかしたら、やっぱり
恋愛じゃないところに
行くしかないのかもしれませんね。
糸井 そうですね、
もうあの人たちの「恋愛時代」は
終わるのかもしれないですね。
恋愛って、大事業で、大儀式でしょう。
しかも、あのころの恋愛というものには、
もうひとつの大きな特徴があって‥‥。
── はい。
糸井 ぼくは1948年生まれで、
村上春樹さんとほとんど同じ歳なんです。
あのころのぼくらは、
本読んでるふりしたり、
バイトとかしてたけど、
人生の目的のほとんどが、
恋愛だったんですよ。
── ほとんどが。
糸井 ええ。
あんなに恋愛がいちばんだと
思ってた時代があったなんて、
いまからじゃちょっと考えられないですよ。
それは、背景に
学生運動があったからだと
ぼくは思っています。
── 危機感のようなもののせいですか?
糸井 というより、なんというんだろうな‥‥
寺山修司さんの歌のなかに
「身を捨つるほどの
 祖国はありや」

という言葉があります。

寺山さんはそういう歌を詠んだけど、
では、自分にとって
命を懸けられるものなんだろう?
と、ぼくらは考えました。

背景に「反対!」というような
先輩や同級生たちの声が聞こえてくるけど、
自分にとって命を懸けることは
それじゃないとしたら?
── やっぱり、
人との関係でしょうか。
糸井 そうです。
しかも、おもに恋愛関係にすべてがある。
そういう雰囲気は、
あのブロックの世代だったぼくには
ちょっとわかります。
『ノルウェイの森』の主人公のワタナベ君も
「責任を持つ」とか
恋愛にまるまる
命をかけてると思います。

それに比較するように、
永沢先輩が
社会のひとつの代表のようになってましたね。
── のちに外務省に行く方ですね。
糸井 あの永沢先輩の言ったことで
おもしろいなぁ、と感心したのは
「先に寮を出るのは、ぼくだと思った」
とかいう台詞です。
あれは、すっごくおもしろいよ。
── ワタナベが先に寮を出たことについて、
先輩がしみじみ言うシーンですね。
糸井 つまり、寮というのは、
学生の社会です。
そこを出るのは、
永沢先輩は当然自分だと思ったし、
外務省という社会参加も決まっていた。
外国に行くという約束もありました。
だけど、彼は映画が終わるまでずっと
社会と接しないままでした。
── エンディングまで、
先輩は学生寮のまま。
糸井 先に出たのは、いつも旅する
「ぼく」のほうだったんです。
あそこはね、村上さんも、
トラン・アン・ユン監督も
「よくもまぁ、いろんなことを
 表現してきた人たちなんだな」
と思いました。
── 永沢先輩のセリフは、
「見逃しストライク」してしまうような
示唆に富んだものが
多かったですね。
糸井 全体的に、性の生々しさはあるのに、
台詞は「書き言葉」っぽい。
── 村上春樹さんの作品を読んだときの感じが、
映画でも同じように感じました。
言葉づかい、独特の感じ。
糸井 主人公の言葉、ナレーション、
その村上さんの書く世界は、
映画でも同じだったと思います。
女の子たちも、長々と、
「何々で何々で何々で何々で」って語る。
不自然と言う人も、いるのかもしれない。
だけど、あの台詞は、
もしそうじゃないんだったら
どういうふうにすればいい?
── そうじゃないんだったら
どういうふうにすればいいかというと‥‥。
糸井 そう考えると、
ほかにない。
あれでしかないんです。
どうでもいいことではないんです、
あれは、村上さんの手法です。
── そこを、トラン監督は、
みごとにあらわしていたんですね。
糸井 そのせいもあって、
言葉も映像も、
日本の景色の枠にはおさまらない、
世界に通じるところにまで
広げられていたと思います。
アジアや、ヨーロッパや
北欧の風景にも見えたし、
まるで、風景というものの
全部のようにも見えました。

インターナショナルって
こういうことだと思いました。
あれはトラン監督の
目玉が景色を作ってるんですよね。
おもいしろいもんです。
世界に見せるための村上春樹の作品って
こういうふうになるんだ、と感心しました。
── 村上さんの言葉の表現も、
そういう感じですよね。
糸井 そうですね。
村上さんの小説をはじめて読んだとき、
あのような目玉の表現で
日本を描けるんだということについて
みんなはびっくりしたんですよ。

あの映画は、
絵コンテでカッチンカッチン作る感じじゃ
ないでしょうね。
それがトラン・アン・ユン監督の作り方の
おもしろいところだと思います。
おそらく、かなりムダなこと、
感心するくらいにいっぱいやってると思う。
みごとに、文学作品だったと思いますし、
ちゃんと「映画」になってましたね。
── そうですね。こういう映画、
久しぶりにたのしみました。
‥‥と、まとめたところで、
もういちど話を蒸し返すようで
申し訳ないんですが。
糸井 はい。
── 性というものは、
いったい恋愛にとって
何なんでしょう?
つまり、できたとか、できなかったとか、
そういうことが
ちょっともやもやしています。
糸井 そこは、映画の中で
ものすごく複雑な話をしてるわけですよ。
肉体的に交接したかしないか、
両方に「する意思」があったのに
物理としてはしなかった。
そこにものすごくこだわってるでしょう?
── はい。そこが、悲劇に向かう
かなり太い線になっているわけで、
見逃すことはできなかったのかな? と思うんです。
糸井 それは、自然と文明との戦いなんですよ。
愛し合うことって何でしょうか、
ということです。

愛し合ってるといえば、
あのふたりは愛し合ってるし、
体もどうぞと言っている。
「あなたの所有になります」という
決意をしている人間同士が
試みたということは、
定義されているような「愛」というものは
すべて、かなってるんですよ。

なのに物理として、
かなってなかったことを
あんなにも言うということが
ぼくは青春だと思うんです。
── 青春の‥‥それは、大問題ですか。
糸井 そう、大問題なんです。
ぼく個人の意見としては、
どちらかというと男の子の側の
「大問題」のような気がします。
女性はあんまりそういうことは
言わないかもしれない。
「おんなじじゃない?」と言いたいところが
ちょっとあるのかもね。
── そうですね‥‥。
でも、相手のことを考えたとき、
それは女性にとっても
大問題になるというのは
やっぱりわかります。
糸井 特に、若いときには、
「相手がガッカリするんじゃないか」
ということを中心に考えるでしょう。
それを愛というならばそうだし。
── あの時代の男女だとさらに
そうだったんでしょうね。
糸井 そういう直接的な台詞も多かったですね。

「精神はどこまでもあなたとひとつよ」
という意思があって、
その意思と意思が結晶化することを
愛というならば、
「すでに愛はここにあるのに、
 自然としては結ばれてない」
状態になります。
それはとても不満です。
だけど、そこで寄り添うということも
愛の表現ではないかとぼくは思います。
── 最後に、レイコ先生とだけは
自然に結ばれるんですけれども。
糸井 ひとつの儀式として
結ばれることもあるわけですよねぇ。
ね、こうやって話してても、
すごく言えないし、
表現しにくいことが
あの映画には入っています。
── そういうことを、村上春樹さんは
本の中でやろうとなさってきたんですね。
糸井 村上さんは、いろんなことと
格闘しているんですよね。
村上さんの文体ひとつを見ても、
自分の考えについて
普遍的なものであるかどうかを、
いつでも考えている人なんだと
ぼくは思います。

例えば、
流行がふと変わってしまったら
すぐに変化してしまうようなことを
自分は言っていないかどうかについて、
つまりは「永遠」ということについて、
とことん考えてる人なんだと思います。
── 吉本隆明さんからも、
そういう「永遠」についての話を
伺った記憶があります。
糸井 そうだよね。
やっぱり、そうだと思います。
「永遠にもつ考え」というのは、
たいしたことなんです、ほんとうにね。
‥‥おそらく、村上さんは
「なあなあ」が嫌なんじゃないかな?
── 「なあなあ」ですか?
糸井 うん。
あの映画の登場人物たちが
好きなことと嫌いなことって、
「なあなあ」で分類するとわかる気がします。

緑がバーで
「そんなふうに言われると思わなかった」
と言うシーンがありますよね。
主人公が「なあなあ」で言った発言は
緑にとっては「なあなあ」ではなかった。

肉体的に結ばれたかどうかということに
こだわっている人がひとりでもいれば、
「それでいいんじゃない?」で
済ませるのは「なあなあ」になるんです。

あのふたりは
「そういうものだから」ということで
終わらせたり通りすぎたりしてないでしょう。

人と人とのコミュニケーションには、
「なあなあ」と
「なあなあ」じゃない部分とが
いつもあります。
あの永沢先輩は、ものすごく
「なあなあ」が上手なんだよね。
「なあなあの様式」というのもあるわけですからね。

先輩の彼女は「なあなあの様式」の中に
いたはずなのに、
主人公の話になると「許せない」と言いました。
自分の「なあなあ」の様式が壊れるからです。
人間ってそういうもんでしょ、
というようなところで
許してたはずなのにね。
── もう少し下の世代の恋愛観には、
「なあなあ」がうまく入り込んだ感じがします。
糸井 そうですね。
あの先輩の彼女が、ユーミンの
『ルージュの伝言』になるわけですよ。
── 彼の浮気を
彼のママに言いつける人ですか。
糸井 ほかの女と寝ようが、かまわないんです。
あのね、もうね、
幸せになろうと思ったら
恋愛をしちゃいけないんだよ(机につっぷす)。
── 泣かないでください。
糸井 「恋愛をしちゃった」というつかまれ方、
ほんっとに、むごいよね。
仕掛けたのは女の人ですよ?
── このお話の中では、そうでした。
だけどそれは、
村上さんがモテたからだと
思うんですが、ちがいますか?
糸井 いや「モテたから」ではないと思います。

あのね‥‥男が口説くことって、
「私はおまえを所有したい」ということの
権力の表現になりがちなんです。
「それはいやだな」と
ちょっとでも思ってると、
口説くことって、ほんとうにむずかしいんですよ。
── はぁあ、なるほど。
糸井 村上さんにも、その気持ちはあると思います。
「そっちで行くわ」と言って
街に繰り出すことはできます。
だけど、人として
つき合いながら口説くのは、
やっぱりパワーの行使になりますから、
ものすごくむずかしいんですよ。
ですから、
「できるならば、あなたが過剰に同意してください」
というふうになるんですよね。
そういうこともあって、
誘われるように落とし穴を掘ることも
するんです。
── 女の人だって、そういうことはしますね。
糸井 それはもう、
魚心あれば水心です。
── いずれにせよ。
糸井 うん。それを仕組んでるのはもう、
神様だよね。
遺伝子だよね‥‥。
── ‥‥‥‥はい。
この話の結論のようなものは
どう転んでも出そうにありません。
また、恋愛については
別の機会に、コンテンツなどで
おいおい教えていただくとして、
今日はこのへんで終わりにいたしましょう。
糸井 『ノルウェイの森』、
菅野は2回観たの?
── はい。
糸井 観る気持ちは、わかる。
そのくらい、
てんこ盛りの映画でした。

以上で、感想のような雑談は
おしまいです。

わたくしは、
小説の『ノルウェイの森』も
この冬、読み返してみたいと思います。

それでは、また!

2010-10-19-TUE
 
友だちにこのページを知らせる
©HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN All rights reserved.