大村憲司を知ってるかい?
2年前の冬、短い生涯を閉じた、
あるギタリストの話。
ギタリスト・ 大村憲司 さんのことは、
よく知っている人よりも、よく知らない人のほうが
たくさんいるんだと思う。
彼はたしかに、
スーパースターじゃなかったけど
Musician's Musicianといわれるほど
たくさんの音楽家たちから敬愛されていたし、
いまも、それは、かわらない。
98年冬、しし座流星群の夜に永眠した、
この、ひとりのギター弾きを想って、
たくさんのミュージシャンが集まり開いた
トリビュート・コンサートが、
NHK−BS2でもうじき放映されます。
その、直前4日間の、緊急特集です。
大村憲司 を、もっと知ってもらうために。

【コンサート実行委員・永田純さんの話】

こんにちは、永田と申します。
ほぼ日初登場なので、少し自己紹介させてください。
ぼくは、主に音楽家をクライアントとするマネージメント、
コンサルティング、それからCDやコンサートの企画制作を
主な仕事にする有限会社をやっています。
現在、僕にマネージメントを任せてくれているのは、
矢野顕子、野宮真貴、サンディー、など。
20才の時、ひょんなきっかけから細野晴臣さんと出会い
そのままYMOのワールドツアーにスタッフとして参加、
以来、気が付いたら、かれこれ20年近く
こういう仕事を続けてきました。

去年の夏、ふとしたことから、
2年前に亡くなったあるギタリストを
トリビュートするコンサートの、
実行委員を任せてもらうことになりました。

トリビュートされるギタリストの名前は、大村憲司。

多数の、すばらしいミュージシャンが名を連ねて
チケットは即日完売。ステージは、
“馴れ”が一切ない、りんとした、淡々とした、
けれども大村憲司への愛情があふれる、
力強いものになりました。ぼくは、そんな
ミュージシャンたちの姿にただただ驚き、
仕事の現場ではほとんどないことなんですが、
何度も涙しました。

みなさん、「大村憲司」の名前を聞いたことがありますか?

        

1949年神戸生まれ。小学校時代からギターを始める。
70年単身渡米、ロックの殿堂フィルモア・ウエストの
ステージにたった唯一の日本人となる。
帰国後、70年代には赤い鳥、オフコース、
80年代にはYMO等、常にその時代を担う
アーティスト達を支え、
その後はプロデューサー/アレンジャーとしても活発に活動。
音色、フレージング、テクニックにとどまらず、
音楽に対する意志・姿勢まで、
その「品格」あるギターは多くのプロデューサー
/ミュージシャンから高い評価を受け、
まさにナンバー1の「ミュージシャンズ・ミュージシャン」
「ギターを持ったサムライ」だった。98年冬急逝。

(CD「KENJI SHOCK」帯から)

        

ここで、大村憲司がどんな音楽家だったのか、
どんな人だったのかをぼくがすっきり説明できれば
いいのですけれど、
経歴というのは実はまったくその人のことを語りません。
特に音楽家の場合は。それに、
“ぼくにとっての”大村さんの存在を言葉にするのも、
本当にむずかしいことです。

初めて彼の名前を聞いたのは
1972、3年のことだったと思います。
「翼をください」や「竹田の子守唄」で知られた
5人組のコーラスグループだった“赤い鳥”に、
エレキギターとドラムが正式メンバーとして加入したという
ニュースを聞きました。
そのギタリストが、大村憲司。
当時はギターっていう楽器も、音楽雑誌も、
ましてやテレビで軽音楽やっていることも
全然一般的ではない時代。
情報に飢えていた中学生の僕は、
ただその名前だけを記憶にやきつけました。

そして、初めてきちんと彼の存在を意識したのは
楽器運びで参加していた79年暮れの
矢野顕子「ごはんができたよ」のレコーディング現場です。
ギターを弾きにやってきた彼が、
「このセッションのために、直前の数週間、
 ほかのすべての仕事を断ってきた」
ことを人づてに聞きます。
(もちろん、本人はそんなことを
 自ら口にする人ではありません)
「えっ、なに、それ!?」
という感じで、とっさに、
どういうことだかわかりませんでした。

        

大村憲司を語るのに、
「ギタリスト」以外の言葉は見つかりません。
決して「アーティスト(ひと昔前の「タレント」?)」
でなければ、
「エンターティナー」でもない。
ギタリストというのは、つまり、
「ギターを弾いて、音楽を奏でる人」です。
結果として、そう見えた部分はあったかもしれませんが、
「バンドマン」でもないし、
「ギターを弾いて生計を立てる人」でもありません。


        

昨年の下半期、本当に幸せなことに、
大村憲司のソロアルバムとして最高傑作と名高い
「KENJI SHOCK」CDの再発や
トリビュートコンサートの実行委員会の仕事、
そして今回放送になる初めてのドキュメントの
制作に関わることができました。

コンサートの企画段階で決まった
NHKBSでの番組化ですが、
コンサート当日の収録、その後の資料検証、編集とも、
順調に進み、いろんな人の力で、
「単なるライブ番組に留まらず、
 大村憲司を初めて世に問う立派なドキュメント」
をつくることができました。
そして3/26の放送を目前にして、
少しでも多くの人にこの番組を見てもらうために、
最後にできることはないか、と考えた結果、
ほぼ日のことを思い出しました。

(編集部から:ほぼ日では、Beautiful Songsの
 コンテンツづくりのさいに、
 やはりスタッフのひとりだった永田さんと
 いっしょに仕事をしてきました)


そうして、急ぎながらも、
このトリビュートライブにもかかわった6人に
話を聞くことができました。
その話を、明日から、二人ずつ、紹介します。

どうしても想いがこぼれてしまうぼくではなく、
彼らの言葉を通じて、
大村憲司のことを少しでも紹介できれば、と思います。

そして、願わくば、最終日の深夜に、
そのままチャンネルを合わせてみてください。
録画でもよいから。

        

この企画をほぼ日に持ち込んだ時には
予想もしていなかったことですが、
取材に立ち会い、また、今、これを書くことで、
なぜか、ものすごくいろんなことを考えさせられています。
彼が僕にとってどういう存在だったのか、とか、
音楽って何だろう、とか
ひと一人にできることってなんだろう、とか。
彼と時間/場所を共有したころよりも、
トリビュートコンサートを舞台袖から見ていた時よりも。

2001-03-23-FRI

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