大村憲司を知ってるかい?
2年前の冬、短い生涯を閉じた、
あるギタリストの話。

【ドラマー・沼澤尚さんの話】


沼澤尚 ぬまざわ・たかし

[ドラマー]
ほぼ日でもお馴染み、
八面六臂の活躍を続けるドラマー。
アメリカにいた20代半ばから音楽を始め、
90年代半ば、大村と出会う。  
数少ない「ミュージシャン・シップ
(=たかが/されど)」
を持った人。



<大村憲司を聴くならこのCD>
「春がいっぱい」
僕がL.A.に住んでいる時に
いつも聴いていたアルバムです。


中学高校の時に大村憲司さんの大ファンだったんです。
学ラン着て、次郎吉やPIT−INN、
下北のLOFT、新宿のLOFTとか、
大村憲司セッションって言うと、
いっつも見にいってたんです。大好きで。
まだ楽器なんて全然やってない頃だったけど、
大村憲司っいうギタリストは、
なんてかっこいいんだろ、って思ってた。
洋楽ばっかり聞いてたくせに、
この人だけなんかかっこいいなって。
音楽のこと、よくわかってなかったんですよ、たぶん。
でもね、「かっこいい」ってことはすっごい思ってた。
そこに必ず小原礼がいて、村上秀一がいて、
みたいなそういうシーンを、おっかけてるのが、
ぼくはとても好きだったんです。

自分で音楽をやるようになったのは、
アメリカ行ってからなんですけれど、
日本に帰ってきていたときに、
ポンタさん(村上秀一さん)と知りあって、
まだアメリカにいたんだけれども、
日本でも、少しづつ仕事するようになった。
そうなってからも、機会があれば、
「あ、大村憲司セッションまたやってる!」
とかって、見に行きました。
考えてみたら、高校生のぼくから、20年後ですよね。
でも、行くと、おんなじ感じ、がそこにあって。
俺、学ラン着て見に来てたんだっけ……
みたいなのあるわけですよ。
メンツも一緒なわけです。
「あ、ポンタさんまたいる!」みたいな。

        

そこでポンタさんが大村憲司さんを紹介してくれた。
「こいつタカって言って、なかなかやるんだよー」
って。でも憲司さんって、
あんま人懐っこいとかそういうタイプの人じゃないんです。
すごい芸術家肌な人な感じの人だってことを
ぼくはファンの時から見て知ってるから、
すごい恐縮して……。
でも会ってみたら、
「お前ルックスいいじゃん! バンドやろうよ」
って言われて!
それが、憲司さんと、初めて会ったとき。
すごくよく覚えてるんですよ。
でも、僕はその頃、日本にほとんどいなかったから、
だれかの仕事で来たときとかにセッション、って感じで。
ポンタさんが、俺が見に来てると必ず
「お前やれ」って飛び入りをさせてくれるんですよ。
その時に弾いてる憲司さんと、
一緒に演奏させてもらう機会が、一年に一回か二回くらい。
それで、「お前いいじゃん」みたいなことになって……。
そういう事が数回あったんですよ。
「タカはさ、日本人と違って
 下から作っていくよねー。
 おれそういうの好きなんだよ」
っていうのを、すごい一度しゃべってくれたんですよ。
すごくよく覚えてる。

それが94、95年あたりで、
そこから一緒に演奏するようになりました。
自分でセッションを組んだり、
僕が頼まれたプロデュースの仕事でのレコーディングに
憲司さんに来てもらったり、
宮沢和史くんのツアーで一緒に旅したり、
憲司さんのプロデュースしていた
柳ジョージさんのレコーディングに呼んでくれたり。

ちょうどその時に、ギターバンドやろうって
憲司さんと話してて。
憲司さんと、僕と、NYにいるウィル・リーっていうのと
トリオでやろうって。
で、2人でテープ交換したりもしてたし。
「こういうのやりたいよねー」って。

        

自分がファンだった人と演奏するのって、
やっぱり「やった!」みたいな感じがあるんです。
僕はね、自分がミュージシャンを目指して
やってきた人ではなかったから、
特に、そのへんの感じっていうのは、
自分がファンだった時と何も変わらないんです。
そういう意味で、自分が音楽なんかやってなかった、
ドラムももちろんやってないときに、
なんでそんなギタリストなんか好きになったんだろ?
っていうのもよくわかんない。
大村憲司っていう名前がかっこいいなとか……
憲司さんってすごいおしゃれだったんですよ。
僕が憲司さんに会うときは、絶対古着だったし、
もうかっこよかったですよ、とにかく。
そういう気持ちは、今も一緒。
もちろん演奏してるときは、もちろん、
一緒にやるっていう感覚ですけど、
その人に対する思いっていうのは、
変わるわけもないんです。
自分がドラムうまくなったからって。
そういう気持ちは、あっこさん(矢野顕子さん)に
対しても、同じです。

        

でも、一緒に演奏するようになると、
「会話」が出来るようになるんですよ。
客でいるときっていうのは、
しゃべってる事が何言ってるかわかんないし、
演奏してるものを聴いて拍手するだけだったのが、
一緒に演奏しだすと、
自分がものを言ってるのが返ってくるんですよ。
演奏して。それは演奏してる人にしかわからないことです。

そういう「会話」は、たぶん優れたミュージシャンなら
たぶんみんな一緒だと思います。
特に憲司さんがそういうところにだけ
特別ってことはないと思うんで。
もちろん、あっこさんもそうだし、
ポンタさんもそうだと思うし。
そういういわゆる歴史に残るような
ミュージシャンのひとたちって、
そういう才能というのはみんなあるんじゃないですか?
特に憲司さんだけがっていうのじゃなくて。

        

今回のコンサート、ものすごく僕が感じたのは、
これは僕が、この中で、
いわゆる憲司さんたちの同世代、
70年代のロックを作ってきた人たちとは
違う世代なんですね。
だから、すごく客観的に見れるわけです。逆に。
出演したみなさんの楽屋を訪ねてみると、
「憲司さんは死んじゃったけど
 このコンサートがあったおかげで、
 ここにこんなに人が集まってるんだな」
っていう感覚にあふれてた。
憲司さんの話をサカナにして
酒を飲んでるわけですよ。
だから、憲司さんのしわざなんですよね。
そういう人じゃなかったらあり得ないし、
ただ有名な人っていうときには
ああいう集まり方しないですもん。

でも、逆に、
大村憲司っていう人が死んじゃったっていうのは、
そういう意味ですごい悲劇的な悲しい感じもします。
ああ、なんでここで今憲司さんなんだろ……って。
この人がいなくなったら、代わりがきかないっていうのも
もちろんわかってたことだし、
この人が死んじゃたら、すごく困る。なのにね。
だからでも、この人のおかげで、
みんなこう集まってきた。
何年ぶりじゃん! みたいな。
それはやっぱり憲司さんが
日本の音楽シーンを作ってきた人だからじゃないですか?

もちろん、あの日、もっといい演奏が出来たとか、
もっとリハーサルしてとけばよかったとか
思いはそれぞれあります。
でも、それがそうでもいいよっていうような形もある。
見た人がどう思うかわかんないですけど、
ただそこにはそういう想いで、
憲司さんのために集まった人がいるんだってこと。

        

それで、実現しなかったトリオの話は、
無念、ということはなくて
「今できないだけで、いつでもできる」
って思ってるんです。
残念だな、とは、あまり思わないです。
あのね、僕は、このコンサートやったとき
絶対に、自分が、こういうトリビュートを
やってもらえるようになろうって思ったんです。
こんなふうにみんなに集まって貰えるようにって。
僕、アメリカにいるときから
ドラムをずっと買い続けてて、
演奏中に破いちゃったドラムヘッドとか
ぜんぶとってあるんですよ。
いつ、どんなステージで破いたって記録つけて。
僕の番がきたら、憲司さんのときみたいに、
アンコールで全部飾ってもらおう! って。
それで、それやったあとに、例のトリオ、
また憲司さんとやればいいや、って。
そう思っているんですよ。


【キーボード/バンマス・中村哲さんの話】


中村哲 なかむら・さとし

[キーボード&サックス奏者、
 アレンジャー、プロデューサー]

「四人囃子」「安全バンド」
「ホーン・スペクトラム」「プリズム」等、
音楽通をドキッとさせる経歴の持ち主。
トリビュート・コンサートでは
大村の作品を演奏した
セッションのバンマスを務めた。



<大村憲司を聴くならこのCD>
彼のソロだったら、
やっぱり「KENJI SHOCK」だし、でも、
「外人天国」も変わり種で聴いてもらいたい。
日本人として、日本人がよく考えてる行動を、
インストゥルメンタルで作ると、
こうなってしまう、っていうのが「外人天国」。
で、アバウトなんだけど、緊張してて、
ものすごくギターが生きてるのが、
やっぱり「KENJI SHOCK」。
ウエーブが、いい。
練った考え方で出来上がってるもんでないからね。
今の若者とか、やりたがってる音楽と、
ものすごく感性が合うと思うんだよね。
あ、でも、中森明菜のね、
「タンゴ・ノアール」とかね、
「ブロンド」とかもいいよ。
憲司が神戸から帰ってきてすぐの仕事なの。
けっこう、ギター、カッティングとか、
アバンギャルドなカッティング
してたりするんだよね。かっこいいですよ。

あいつはね、気難しいよねー。
難しいんだよー、ほんと。
俺は、憲司がいちばん異次元のときに、
ずっと付き合ってたんだよ。
異次元っていうのは、
YMOツアー終わって、
アレンジとかプロデュースとか始めて、
一回神戸に帰るまでの3年間。
それはどういうことかっていうと、
あいつ、そのとき、日本を見切ったっつうかね、
「俺はどういうポジションでやったらいいのか
 分かった」って言い始めた時なんだ。

で、今までの友だちはいらない、と。
ポンタですらいらない、と。
同年代なんだけど、違うスタンスでやってきた
ミュージシャンが僕は欲しい、っつって。
僕は、なんつうんだろう、いつも左ッ側にいて、
憲司さん、何が欲しいですか? そうですか、
ジュースですか、煙草ですか、あっ、わかった、
飲みに行きますか? はいはい、って(笑)。
お友達なんだけど、兄弟なの、弟なの。
ミュージシャン同士っていうよりも、
そういう感じの方が強かった。
で、仕事は、「赤道小町」が大ヒットして、
人を手伝いながら、現場のチーフとか色々やりながら
有名になっちゃった感じ、だったよ。

        

それから、4年後に、突然帰っちゃったの。
何も言わずに。みんなにも。
サトシ、俺、明日から神戸へ帰るから、って、
実家に帰っちゃった。
ほんとに帰っちゃった。
理由聞きに行っても、何も言ってくれないんだよ。
家族は、先に帰らせといて、
1人だけアパートに残ってるわけよ。
で、何で憲司いきなり帰っちゃうんだよ?
いやあ、まあ、座れよ、なんて、お酒出してくるんだよ。
で、呑んで、何にも話さない。
いいじゃん、何がどうなんだか、俺には分かんないよ、
っつったら、
いいじゃん、それで、って。
何にも言ってくれない(笑)。
昨日まで一緒に仕事してたのに、みんなキャンセル。
ひどいよー。
いや、彼の中ではね、ずっと、こう、
根づいたものがあったんだろうけどね。
周りからしてみると、ぜんぜん分かんない。
そういうやつだったんだよー(笑)。

音楽的にも、だから、いちばん偏屈だった時だよね。
自分の素直さで、ギターを弾いてなかった時だと
思うけどね、俺。
素直じゃないっていうのは、
たとえば、「春がいっぱい」っていうさ、
ユキヒロ(高橋幸宏さん)のプロデュースのアルバム。
ユキヒロは、あいつになかったものを出してくれたんだ。
実は、ベンチャーズは、高校、中学のときやってたんだよ、
みたいな話で、あ、じゃあ、できるじゃん?
っていうようなことで始まったプロジェクトなんだよ。
で、それが、一応終わって、で、憲司の中でも、
んー、あそこまでポップにしたくないんだよね、
みたいなことがあって。
で、その、日本を見切った、っていうところで、
日本に足んないもんとか、ヤバイもんとか、
僕でしか分かんないもん、ちょっと出して行こう、
っちゅうことで、
「外人天国」っていうアルバムをつくった。

なぜ「外人天国」っつうかっつうと、
六本木周辺が、お姉ちゃんが黒人にゴロニャーンっていう、
初期の時代ですよ。
サトシ、見てろ、これ、全国に蔓延するから、
って言ってたんだ。そういう歴史でしかない、っていうの、
日本は。ずーっと。平安時代から、今までね。
も、これ以上でも以下でもないんだよ、って言い始めてね。
んで、あいつ、だから、悲しかったし、
俺は、この国に必要のない人間だ、
っていうことが分かった、っていう時代だったんだよね。

で、それの裏返しで、じゃ、このレベルで、
世の中が動いてるんだったら、
ここで仕事をすれば、家族も食えるし、
自分も潤うだろう、って結論が、一個、出たんだよね。
だから、本気のセッションはしてないの。ほんとに。
ビジネスの、も、商品になれる音しか作ってない。
メーカーが喜ぶ。メディアも喜ぶ。
そういう音しか作ってない。
だから、4年で切っちゃったのは当然で、
耐えられなかったんだろうね。

        

神戸へ帰って、僕も何かで仕事で行ったときに、
越した家に遊びに行ったのね。
そしたら、むちゃくちゃ、こう、なんつうの?
塵が取れた、っていうか、ゴミが取れたっていうか、
垢が取れたっつうか、つるんとした憲司がいたよ。
ホテルまで自分で運転して、迎えに来てくれたりして。
そんないい奴じゃなかったんだよ。
何か相談するとね、東京にいるときは、
何でお前のことで俺が相談乗ってやんなきゃ
いけねえんだよ、とかね、そういう奴だったのに。
迎え来たよ〜〜、なんつって。
じゃ、僕んち行くから、とか言って、連れてってくれてね。

その頃はギター全く弾いてなかった。
憲司が親父の会社、継ぐか継がないか、
っていうぐらいだったから。
で、とりあえず親父が、帰って来い、っつって、
じゃ、俺もそういう気分だから、帰るよ、って。
経理とか、会計のことやってて。
親父さんは、神戸で自分で鉄工所やってたんだよ。
新幹線のボディー造ってた。ひかり号とか。
その鉄工所で帳簿書いてたんだよ!
でも、1年後には、出て来ちゃったんだよね。

で、いない間にね、石川セリさんのLPをね、
僕、頼まれてやったんだけど、
セリさんが、ぜんぜん違う、って言い出して。
で、憲司を呼んじゃったんだよ。
自分で電話掛けて。
で、それがきっかけで、
んー、やっぱ東京戻ろっかなー、とか言い出して。
俺の失敗が憲司を呼び戻したもんなのかな。

        

こないだのトリビュート・ライブは、
こういう死んでからの企画だったけど、
生きてるときにね、なんか、もっとね、
生きてる奴でやりたかったな、って思うよ。
や、実は俺なんか、まあ、日本に何人かしか、
好きなギタリストいないんですけど、
そん中の、もう、頂点だったから。
だから、自分の音楽もやる気が無くなっちゃったりしてね。
最初ね、死んじゃったときね、
なんか、もう、やる気無くなっちゃったりして。
あいつがいるから、見えてた部分があったんですよ。
やっぱりね。うるさいおじいちゃんみたいな、感じでね。
おじいちゃん、うるさいー、文句ばっか言って、みたいな。
でも、その、文句言われてて、分かったことって、
たくさんあるんですよ。
でも、すごく俺には優しかったんだけどね。
死ぬね、半年かな、1年ぐらい前に電話があってね。
なんかね、僕と憲司の性格上ね、あいつが波いいときは、
俺は悪いんですよ。ずーっと昔からぜんぶ逆なの。
俺が落ち込んでるときに掛けてくれたりね。
おう、サトシ、調子悪いだろう?
お前、ライブハウスやろう、な。
ライブハウスやろう、二人で。
で、俺なんか、もう、自分の音楽なんか出来る
精神状態じゃなかったから、ダメだよ、もう、って。
・・・やっとけば良かったよね・・・。
若いときは、その逆だったのね。
憲司、ぜったいライブやだやだ、って言ってるけど、
ライブハウス、やっといた方がいいって。
バカ野郎、お前、ここまできて、なにがライブハウスだっ、
またあんな、豚小屋みたいなところで、出来るかっ、
なんつって。なんてね、言われちゃったりしてね。
まったく逆なんだよね。
・・・何の話してたんだっけ?
あ、ライブの話だ。コンサートね。
だから、生きてるときに、ぜったいやっときたかったけど。

        

あのコンサートがね、なんでみんなにとって、
すごく良く映ったかっていうとね、
あれはやっぱ、憲司がね、みんな憲司の、ほら、ね?
埃をかぶってるわけでしょ?
ミュージシャンはね。
で、そいつらが、まあ、集められちゃって。
で、そうすると、もう、そこは、ほら、
いつもやってるビジネスの世界ではないわけ。
そうすっと、そこだけポッカリと
空洞になってたはずなのね。
で、そこで、ガキンチョが、なんか、こう、
遊びだしたっつうか。
今日は、いいんだよ、俺で、って、ね。
オハラ(小原礼さん)とか、特にね。
あんなオハラ見たの、久しぶりだもん。

だから、そのぐらいのとこで、みんな、
ビクビクして、自分が食うためにビジネスすんなよ、って、
いうね、メッセージが、こう、憲司からドカンと。
年寄り達に。ねえ? 落っこってたからね。
あんときは。ねえ……?

2001-03-25-SUN

BACK
戻る