【放映と前後して届いた、ほぼ日読者からのメール】
KENJI SHOCK レコードで持ってますよ。
CDは発売と同時に買って、
トリビュートも2日とも行きましたよ。
確かに、本当に大村憲司は、いなかった。
そして、かつていたのは、幻じゃなかった。
死んじゃったんだな。ほんとに、って感じです。
矢野顕子さんのコンサートで、
彼女のMCで憲司さんが亡くなった事を聞いた時、
翌日ギターマガジン編集部に電話して確認して、
仕事中だったのに泣いた。もし可能なら、
今でも、それが神戸でも、お墓に線香あげに行きたいです。
最後にもうひとつ。
「春がいっぱい」「外人天国」の再発に1票を投じます。
(谷藤 祐一)
ほぼ日編集部のみなさま こんばんわ
大村憲司さんの特集を楽しんでおります。
私は、Beautiful Songsで
矢野顕子さんのファンになったりしたのですが
それだけでなく、どういうわけか、
なぜか自分の中で70年代の日本の音楽がブームというか、
いまではもう血となったり肉となったりして
あの頃の音楽が聞きたくてしょーがないって感じの
音楽的傾向です。
私、ちなみに30歳です。
多分、このくらいの年でYMOなんかをけっこう好きな人も
いるのかもしれませんが、
はっきりいって私中学生くらいから、洋楽が好きで
ワムとか、ZZトップとか
ベストヒットUSAとかで育ちました。
大学生くらいの時には、ビートルズやストーンズの
コピーバンドをやっていました。
なんとなく、どこかに「日本の音楽=洋楽のコピー」って
いう考え方があって日本人のやってる音楽には、
ほぼ、まるで興味なかったっす。
少しでも、アメリカやイギリスの連中の音楽を
聞いていたかったんですよ。
原因は不明ですが、最近はほぼ逆になっちゃいました。
もう、日本の音楽が聞きたくてしょーがないって感じっす。
自分でも解析不可能ですが、要するに多分、
食わず嫌いだったのが「はっぴいえんど」とか
「サディスティックミカバンド」とか
「矢野顕子」とか「ムーンライダーズ」とか
たまたま、そんな上質な音楽にあたっちゃった
せいなのかもしれないす。
そんな私にとって、「大村憲司トリビュート」の
出演メンバーを見たとき
「なんじゃこりゃーーー!!」ってくらい、
ヨダレどばどばでちゃいましたよ。
ごめんなさいですが、
「大村憲司」って誰だかよくわかんなかったけど
とりあえずチケット買わなきゃって思って、
すぐ先行予約しました。
(ほんとうに、「ごめんなさい」なきっかけでした。)
そんなこんなで、コンサートに行きました。
はっきりいって、ほんとうに感動的なコンサートでした。
簡単に言うと。
だって、「誰かに捧げる」音楽って
聴いたことなかったんですもん。
いくらエアロスミスがかっこよかったり、
ガンズがすごかったり、ボブディランがすごくても
あんな風に、「誰かの為に」を感じられるコンサートは
一度もありませんでした。
これからも、ないかも、、って思うくらい、
いいコンサートでした。
私てきには、チャーさんの演奏(多分リトルウイング?)が、
めちゃめちゃよかったっす。
あと、矢野さんと高橋さんのMCですな。
ありゃー、なんかよかったなあ。
くっだらない思い出話だったと記憶してますが、
ほんとうになかのいい友達って感じだった気がします。
えー、これから番組を録画して今日は寝ます。
明日、仕事だし。
いつ見れるかわからないけど、はっきりいって、
いい番組にきまってるじゃんって気がします。
だって、あのコンサートの音だけでも、
なにも知らなかった私に「大村憲司」さんが
どんなに、みんなにとって大切な人だったのか、
愛される人だったのかって伝わっちゃったくらいですから、
ぎゅーっと「憲司」さんの特集したら、、、
どんなになるんだろう?
楽しみにして寝ます。いつ見れるんだろ、私。
とか、思いつつ。
最後に、息子さんのインタビューが
「ほぼ日」で読めてすごくよかったです。
コンサートにおいて、少なくとも私には
ノビノビとギターを弾いて自分の音を出そうという意思を
感じられてましたが、はっきりいってまわりが、
あんな一流の音出す人ばっかりだったでしょう、
かなり「真司」さんをみなさんが大事にしているという
雰囲気もありましたが、「音」という意味では、
やっぱり「真剣勝負の場(ライブ)」において
出し惜しみしてなかったというかなんというか、
まあ、ちょっと「真司」さんの音はうすかったかなあと、
思ってました。
でも、インタビュー読んで、なんか、
「ああ、そうだよ。まだ、これから、ずっと
がんばってく人だし、
そういう、いい音を目指す意思のある人なんだ」
って、なんか、わかって、「未来」に受け継がれていく
意思というか、なんというか、ほっとしたというか、
私もがんばんなきゃみたいな。
あ、もう番組はじまってる時間だ。
でも、眠いので寝ます。
だって、明日がんばんなきゃいけないしさ。
今日は「KENJI SHOCK」BGMにして寝ます。
では
(松林 拓磨)
泣きながら、テレビ、今見ています。
このページでこの番組知りました。
友達から聞いてほほ日刊みました。
すごく詳しく今まで知らなかった大村憲司さんを知りました。
ますます好きになりました。
私は憲司さんの「春がいっぱい」を聞いてから
ファンになりました。
なんとも言えないギターの音と
弾いているときの姿が大好きです。
ありがとう。憲司さん。ご冥福をおいのりいたします。
ご子息の真司さんの
これからのご活躍をたのしみにまっています。
BS放送の製作の皆さんビック番組ありがとうございました。
永久保存で私の宝物です。
ありがとうございました。
(野田 光子)
1972年に大村さんが赤い鳥に参加して
僕の人生が変わったのかも知れない。
赤い鳥に大村憲司、村上秀一両氏が参加して
ツアーを行っていた時に、僕はニッポン放送で
アルバイトをしていて、デビューしたての五輪真弓と
赤い鳥のジョイントコンサートに
PAオペレーターとして加わった。
僕は五輪真弓のPAオペレーターとして参加していたので
(赤い鳥はマネージャーがオペしていた)
赤い鳥の演奏は客席で聞いていた。
演奏が始まると大村、村上両氏の音量に
当時の某社の音響システムでは対抗するすべもなく、
また客もPAなど全く関心が無い時代でもあったので、
ただ呆然とするほかはなかった。
赤い鳥のメンバーは全国ツアー(年間240ステージ!)で
公演場所により音が変わるのでは
お客さんに失礼であるとの判断で
当時で最高水準の音響機材を導入し、
僕もこのツアーに参加することになる。
当時は会場に最初に入るのは照明さんで
楽器やPAなどはその後にセットする。
しかし、赤い鳥ツアーでは会場に着くと
すぐ楽屋にギターアンプとドラムセットが用意され、
大村、村上両氏は全員のリハーサル開始まで
毎日数時間練習していた。
その当時から大村さんは
オールドのストラトキャスターを使っていて
ツインリバーブから流れ出るサウンドは今も忘れない。
赤い鳥脱退後のエントランスの最初のライブ
(渋谷ジァン・ジァン)で大村さんとの仕事は最後だったが、
外タレを見に行くとよくお会いして声をかけてくれた。
赤い鳥の曲の中でも[みちくさ]が一番好きだ。
この曲でのギターサウンドは最高。
仕事とはいえライブで毎日聞いても飽きなかった。
hi-fi Setのコンサートでも[みちくさ]を演奏していたが、
大村さんの以外のギタープレーヤーの[みちくさ]は
何かが抜けていた。大村憲司の最高傑作だと今も思っている。
赤い鳥に大村さんが参加していなかったら、
一緒にやろうと言ってくれなかったら、
僕は違う人生を歩んでいたかも知れない。
50近くなって、やっと、みちくさでもしながらと
考えられるようになった。
(keisuke sotodate)
大村さんが亡くなられたとは夢にも思ってませんでした・・・
もう2年になるのですね。
学生の頃、課題の制作をしながらウォークマンで
「春がいっぱい」を何度も何度も聞きました。
気持ちのよい作品が出来る気がしました。
聞いていたテープは、レンタルしてきたレコードを
テープに録音したものだったので、
「大人になってお金ができたらレコードを買おう」
とよく思いました。日本では27日の午前7時前、
番組も逃してしまったけれど、
今度こそがんばって「春がいっぱい」のレコードを
手に入れたいです。
(YouB)
いやーー、めっちゃえがったっす。
起きてたかいあった!
ほぼ日さん、メルシーありがとう!
風呂入って気分良く寝まっす。ほんなら!
(ヨシダ)
はじめまして・・・taka-Gといいます。ギター弾きです。
大村憲司さんは特別なんですよ。
会って話したことないのにすごい身近で・・・
LIVEは1回だけしか見てません。
松岡直也さんのグループで高中さんとツイン・ギターでした。
ドラムはカーリーヘアのポンタさんでした。
高中さんがやっぱ亜熱帯みたいな音を出してたんですが、
ケンジさんは愁いのあるくぐもった音で・・・・
ブルーズなんです。
なんか泣きそうになったのを覚えています。
このあいだ、ケンジさんの告別式が行われた吉祥寺・
安養寺にも行きました。
住職の奥さんに聞いたら、
はっきり覚えていらっしゃいました。
本堂にそっと手をあわせてきました。
気骨のギター・・・ですね。
夢に出てきたんですよ。ケンジさんが・・・
やさしい笑みを浮かべていましたが、
眼が厳しかった・・・『ハンパすんなよ』そんな眼でした。
愛の貧乏脱出作戦の達人のようでもありました。
(taka-G)
見ました。大村憲司さんのトリビュート。
タイマー録画かけてたくせに、
結局AM3:30まで起きて見ちゃいました。
20年以上現役やってる職人肌のバンドマンが集まって、
せーので音を出すのを見たらやっぱり凄かった。
ちなみに私が、大村憲司というギタリストを初めて見たのは、
五輪真弓さんのバックバンドでツアーを回っていた頃です。
なんといってもソロアルバム「春がいっぱい」と、
全曲アレンジ&プロデュースの山下久美子のアルバム
「抱きしめてオンリーユー」の
ポップな憲司さんがで好きでした。
そして、トップクラスのギタリストは皆、
唯一無二の存在なのだということが、
今回つくづく分かりました。
“大村憲司のギター”が聴けないのは寂しいけど
同じ曲が、こんなに違っちゃうのかというほど
弾く人によって変わるのも、また面白かったですね。
そして、息子の真司くんが、
父親縁のミュージシャンをバックに伸び伸び、
堂々と弾いていて、
やのさんちの娘、美雨ちゃんがナレーションをやってて、
ついに彼らの時代が来るんだなぁ・・・とも思いました。
(ゆ〜みん・ごとう)
私にとっての大村憲司氏は
今もなお世界一のギターリストであり、
現在の仕事に於ける基礎を教えて下さった人です。
あの日の夜は深夜3時半頃、
偶々屋上で流星群を見ておりました。
翌日の午後友人からもらった連絡は
到底信じられるようなものではありませんでした。
心の中から何かが抜けてしまう感じというのは
あれが初めてでした。
あれからもう2年たったのですね。
今を遡る18年前に私は大村氏のローディーを
約1年半に渡ってつとめさせていただいたき、
後年非常に大きな影響を私に残して下さいました。
それは正にプロフェッショナルとは何かというモノでした。
初めて見たレコーディングセッションの衝撃は
今でも忘れることができません。
プロのミュージシャンの演奏を
それまで間近で見たことがなかったこともありましたが、
あまりにも違う実力に
正直しばらく自分のギターを触る気にもなりませんでした。
大村さんは当時、現在はもうないのですが、
六本木にあった六本木ソニースタジオを
ホームスタジオのようにして仕事をなさっており、
そこで今も尚F1クラスのミュージシャンである
村上秀一氏や青山純氏、中村哲氏、大仏さんなどと
様々なプログラムで毎日セッションを繰り広げていました。
次第に私にとっても彼らの演奏が
プロのスタンダードという認識でになってしまったので、
後年そうでないプロの人を見ると
心のどこかで受け入れる事が出来なかったりしました。
それは1音で心を揺さぶるようなギターリストが
そうざらにはいないということでしょう。
仕事上では非常に厳しく
神経質なまでにギターのコンディションに気を遣う方でした。
ギターといえばセッション時には
必ず携帯しているギターが当時何本かありましたが、
クリーム色のテレキャスターは
最後までお持ちになっていたようですね。
ストラトもよくお似合いでしたが、
テレキャスターを持った憲司さんも好きでした。
昨年のトリビュートライブの時に
真ん中に鎮座していたテレキャスターを見て
思わす涙が出てきました。
一般的なイメージと違い
大村さんは仕事を離れると人を笑わせたり
細かい気遣いをなさる方でした。
また当時はプラモを作るのが好きだったいうのも
ちょっと意外な一面として記憶に残ってます。
そんな憲司さんにはやはり今新たに
ありがとうございました、と言いたいです。
願わくば“外人天国”が
CD盤としてまた世に出て欲しいです。
(M・S)
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