宮沢 |
(プロフィールの写真を見て)
それ、すごくいい写真ですね。 |
真司 |
中の写真もすごい好きなんです。
座って、ギター持ってる写真です。 |
宮沢 |
これだね。 |
|
真司 |
そうそうそうそう。 |
宮沢 |
これね。いいね。 |
真司 |
これがね、スターウォーズの
ジャバ・ザ・ハットみたいで
ちょっと親玉っぽい感じがするんです。
「そこから動かない」みたいな(笑)、
親玉感が、すごい好きなんです。 |
宮沢 |
親玉感ね(笑)。 |
真司 |
やっぱ貫録があるっていうのかな。 |
宮沢 |
反抗して「オヤジィ!」
みたいなときって、なかったの? |
真司 |
怒って「クッソ〜! なんだよ!」
っていう? もちろんありましたよ。 |
宮沢 |
いつですか? |
真司 |
それはもう、常にでしたね。
オヤジがそういうのを
誘発する人だったんですよ。 |
宮沢 |
ほぉ。 |
真司 |
息子と父親の葛藤を描いた映画とか
あるじゃないですか。
たぶん、そういうのに憧れるタイプの
人だったと思うんです。 |
宮沢 |
自分の持っている
父親像みたいなのがあるのかなぁ。 |
真司 |
だから、よく、ケンカとかしてましたね。 |
|
宮沢 |
偉大なミュージシャンも、
家では「オヤジ」なんですよね。
チャーさんとか、清志郎さんとか、
そのくらいの年代のミュージシャンの
お子さんにしても、
父親が、日本の音楽に
影響を与えた人だということが、
わからない時期があったみたいです。
友だちから
「お前の親父、すげぇよ」
って言われて、
「そうなのかなぁ?」
と思ったって言うんですよね。
真司くんはどうなのかな? |
真司 |
俺もたぶん、
いなくなってから意識したほうです。
「へぇー!」って思いました。 |
宮沢 |
そうなんだ。 |
真司 |
生前は、俺としては、認め‥‥
認めてるんだけど、なんか、そんなに
チヤホヤしたくないみたいな気持ちでした。
オヤジの音楽、聴かなかったし。
だけど、いなくなってから、
ちょっと考える時間とか、
あるじゃないですか。
もう何も言わないわけだから。
そこで、そう、思いました。
たぶん、これからのほうが、
年取ってきたほうが、
今よりももっと、わかるんじゃないのかな、
と思います。 |
宮沢 |
とくに同じエレキギタリストだもんね。 |
真司 |
そうですね。でも、俺としては、
なんかたまたま
そうなってしまったみたいな
ところがあるんです。
同じ楽器をやって
どうこうっていう意識は、
あんまり、ないんですよ。
どっちかっていうと、
「遺志は継いでやるけどさ!」
みたいな(笑)。
方向性的には違うし。 |
宮沢 |
うん。 |
真司 |
2年くらい前までは、
オヤジのやってることに
近づかなきゃいけない、
みたいな意識がありましたけど。
でも、自分で満足できなくなってきて、
「なんなんだよ、音楽って!」
みたいになってきたんですよ。
それで、やっぱり、
「ああ、親父と同じ道を歩くのは違う。
自分のやりたいことをやろう」
と思ったんです。そういう感じです。 |
宮沢 |
教えてもらったこと、ある? |
真司 |
ものごころついてから、
直接、手を取って
教えてもらったってことはないんですよ。
ライブを見に来い、
というのはありました。
それを通して、
教えるみたいなところがありました。
親父とケンカした次の日、
ちょうどチャーさんなんかが出る
ステージがあったりすると、
「すごいミュージシャンが集まるから
見に来いよっ」みたいなふうに。 |
宮沢 |
真司くんが練習してるのを、
オヤジさんが覗きに来たりとかは? |
真司 |
あ、そういうのはありましたよ!
俺が家で、ジミヘンのビデオ買ってきて
練習してたら、
仕事から帰ってきたんですよ。
「ただいま」って言ったら、
俺が弾いてるじゃないですか。
そしたらいきなり
ガチャって部屋に入ってきて、
「そうじゃねぇんだよおまえ、
こうなんだよ!」
みたいなのは、ありましたよ(笑)。
でも、子どもだったから、
理解できなかった。その凄さを。
「べつにいっしょじゃん?」って、
その時は思ってました。 |
宮沢 |
こわかったでしょう。 |
真司 |
うん、めっちゃ。 |
90年代の憲司さん。 |
宮沢 |
僕は、1回、
憲司さんを怒らせたことがあったんです。
僕が憲司さんと一緒にやったっていうのは、
僕のソロでの、東京・大阪のコンサート。
それしかないんですよ、接点が。 |
真司 |
そうだったんですか! |
宮沢 |
うん。レコーディングもないし。
俺はね、中学生の頃に
イエローマジックオーケストラ
(YMO)にはまって、
ツアーのギタリストが渡辺香津美さんから
大村憲司さんに変わったときに、
初めて憲司さんに触れたんです。
だから、普通の憲司さんのファンとは
違うのかもしれないですよね。
憲司さんのストラトの
世界っていうんじゃない、
YMOのデジタルな感じの中で
化粧をしてる憲司さんだったから。
後から、土臭い世界を知ったんです。 |
真司 |
じゃあ、一緒にやったのは‥‥ |
宮沢 |
やっと自分がプロになって、
10年ぐらいたって
初めてのソロツアーのギタリストに、
憲司さんっていう声が上がって。
「まさかやってくれないだろう」
って思ったら、引き受けてくださって。
何本かライブをご一緒したんですが、
それから少し経って、
お亡くなりになったんです。
実はその時に、1回だけ
怒らせたことがあった‥‥。 |
真司 |
どんな時にでしたか。 |
宮沢 |
リハーサルで、
「こういうふうに
弾いて欲しいんですけど」
ってお願いしたんです。
憲司さんは、フィンガリングっていうよりは、
ピックで弾かれる方なんですね。
その時は、アコースティックギターで、
こういうふうに弾いてくれって
お願いしたんです。
でも、最初、俺が作ったフレーズだから、
俺の手癖があるわけです。
それがなかなかできなくって。
それを憲司さんなりに
昇華してくださってたんですね。
もちろん俺は納得したんだけど、
憲司さんはすごく怒って。
でも、俺に怒るわけにいかなくって、
思いっきりローディの方をですね(笑)、
怒鳴り散らして‥‥。
リハーサル室がシーンとなりました。
「てめぇ、なんとかなんとかじゃねぇよっ!
ガーン!(蹴飛ばす音)」みたいな。 |
真司 |
俺、なんか、そういうとこだけ
似てるからイヤなんですよ。 |
宮沢 |
はははは! |
真司 |
そうなんですよ。
音楽自体にムカついてるわけじゃないんです。
でも、そういうふうに当っちゃうんです。
で、そういう自分に、
やっぱりムカついてくるんですよ。
いいものが出せないっていうか、
やっぱ完璧にしたいっていうのが、
すごいあったから。 |
宮沢 |
そうなんですね。 |
真司 |
きっとその時に、宮沢さんの音を、
完璧に出したいって
いうのがあったんでしょう。
でも、自分ができないっていうのがあって、
ローディに当たってしまったんでしょう。 |
宮沢 |
うん、でも、本番、
その曲がすごくいい演奏で。
嬉しかったですね〜!
すごく、こだわってくれてるなー、
って思って。 |
真司 |
うん。 |
宮沢 |
僕にしてみたら大先輩だし、
憧れている人だし、リハーサルでは、
そんなに話すわけでもなく、
お互いにボーカルとギタリストっていう、
距離感は保ちながら、いたわけです。
でも、全部が終わって、
新宿で打ち上げをやってはじめて、
飲みながら、朝までずーっと
いろいろ話をしたんです。
すごく上機嫌で、憲司さん。 |
真司 |
わりと、そういうときは気さくに、
ね、なるんですね。 |
宮沢 |
ずーっと笑ってて。楽しそうに。
みんなが帰っても、
最後まで憲司さん残ってくださって。
でね、いろいろ言ってくれたんだけど、
「自分がやってきた道を、
はいよ、と、バトンを渡すような感じが、
今回、して、嬉しかった」
みたいなことを言ってくれたんですよ。
「俺らが切り開いてきた道を、
歩んでくれよ」みたいな。
それがすんごい嬉しくて。
よしっ! 頑張るぞ!
っていった矢先に、
憲司さんの訃報が入ってきたんです。
‥‥すごいショックで。
でも、なんか、最後に、
そういう話をもらえて、
すごい励みになった。うん。 |
|
真司 |
そっか‥‥。
俺も、一応ね、
ちゃんと死ぬ前に話したんです。
そのとき、俺も、だいぶ、
楽になったっていうか‥‥。
そういうパワーって、
親父、やっぱりありました。 |
宮沢 |
うん‥‥。 |
真司 |
俺ね、親父には、
ちゃんと音楽をやりたいっていうことを、
ちゃんと伝えたかったんです。
伝われば、すごい力をくれる存在で
あるかもしれないなと思って。
で、そう言ったんです。そしたらね、
‥‥こういうふうに言われたんです。
「おまえは俺で、俺はおまえだ」
って。
ちょっと意味、
わかんないかもしれないけど。
そう言われたんですよ。 |
宮沢 |
‥‥。 |
真司 |
で、それが、どういうことなのか、
その時は、ぜんぜんわかんなくて。
だけどやっぱ、最近、
‥‥なんか、なんていうのかな、
自分が‥‥あー、
なんて言えばいいのかなぁ‥‥
んーと、俺が‥‥
ちょっとわかんなくなってきたな‥‥。 |
── |
それって、憲司さんが、
まだ健康でいらっしゃったときですか? |
真司 |
いや、もうそれはね、
死ぬ、ほんとに2時間くらい前かな?
そのときにそういう言葉くれて。
結局、こうかな、
「俺が、生きてくうえで、
音楽やってくうえで、
親父の意見がほしいって思うような、
わかんないことに出くわしたら、
素直に俺が感じることが、
きっと、親父が感じたことと
同じだろう」っていう、
そういうことじゃないかな‥‥。 |
── |
その言葉は、わかんないときもあるし、
フッとわかったような気になる瞬間も
あるって感じですか? |
真司 |
そうっすね、いろんなことが、
感覚的に、わかんなくなったり
するじゃないですか。
そういうときに、
ああ、オヤジがあの時に
こうしてたな、みたいなふうに
思うときって、あるじゃないですか。
そのときに、その言葉を
思い出すんですよ。
それで「あ、なるほどな」
って思ったんですよ。
それまでは、何言ってんのか
わかんなかったんだけど。 |
宮沢 |
‥‥。 |
真司 |
「おまえは俺で、俺はおまえだ」。
それが一番、ほんと、
心に残ってる言葉です。
でも、やっぱりミュージシャンの方々、
みんなたぶん、ひとりひとりね、
親父と仲良かった人とか、
認めあってた人っていうのは、
きっとそういうのが、
あるんじゃないかなって思う。
俺は、ぜんぜん、ミュージシャンなんて
言えない時期だったから、
最後の最後に、あれを、
言葉を貰わなかったまま、
親父がいなくなってたら、
どうなってたかな、って思って。
そういうことを、
言える人だったなって、
いま、思いますね。
俺もそういう言葉を貰って、
だいぶ自信がついたんです。 |
宮沢 |
俺も息子が2人いて、
まだ小っちゃいんですけど、
どういうふうに接していいのか、
時々わからないんだよね。
いいことばっかり言ってたって、
自分がそんな人間かっていうと、
完璧に違うわけだから。
とはいえ、自分がやって
うまくいかなかったこととか、
そっちいくとヤバイぞみたいなことは、
先に言いたい気持ちがやっぱりあるし。
いいとこばっか見せる
っていうのも無理だしね。
どっかでやっぱり、汚いとことか、
半分ぐらい、人間、あるわけだから、
そっちもやっぱり見せなきゃ
いかんなって思うけど、
見せたくない部分もあるし。
すごく、どう接していいのかって、
まだ小っちゃいのに、何回かあるんです。
だから、まあ、無心に歌ってるときとか、
回数をなるべく見てもらうっていう
ことでしかないんだけどね。 |
真司 |
うん。でも、そういうとこが、
親父と、宮沢さん、
けっこう共通だったんじゃないかなと
思いますね。
この話、こないだも
タカさんにしたんですけど
俺、2歳ぐらいのときに、
1回教えてもらってるんですよ、ギター。
親父が、小っちゃいギター、買ってきて、
部屋に来い、みたいなこと言われたんです。
ギターを弾かせようとしたんだそうです。
でも俺が「いやだ」みたいな
感じだったらしいんですよ。
そしたらもう、ウチの母さんに、
「あいつは才能ねぇよ」みたいに言って、
パタリとその行為が
終わったみたいな(笑)。 |
── |
2歳で(笑)。 |
2歳の誕生日、ミニギターがプレゼントだった。
弾いているのは憲司さん。ひざの上が真司くん。
|
真司 |
そう、2歳で
才能ないって言われちゃって。
だから、そっからたぶん、
教えようとしてもだめなんだったら
自分でやってることを見せよう、
みたいな感じで、
ライブにたぶん呼んでたんでしょうね。
でも、やっぱ、それが、
いちばん俺の中での、
音楽の糧になってるんです。
俺の中でも、オヤジのライブを
いっぱい見てきたっていうのが、
デカイんですね。
やっぱりいいもんだったと思うし。
今、考えても、やっぱ、
オヤジがいたライブっていうのは、
今、見る、どんなライブよりも、
しっかりしてるライブだったんだって
いうのがあって。だから、そういうものを、
俺も目指してやればいいのかな、
っていうのもあるし。
でも、いいことだと思いますね、
息子にね、自分のライブを
見せるっていうのは。 |
── |
宮沢さんも見せてるんですね。 |
宮沢 |
東京で、だけですけどもね。 |
── |
真司さん、何年か前にお会いして、
そのときはまだ、憲司さんが、
亡くなられてちょっとは経ってたけど、
真司さんはミュージシャンとして
活動を始めたばかりでしたよね。 |
真司 |
そうっすね。 |
── |
その頃と比べて、何年か経って、
お父さんの存在、
大村憲司の存在っていうのは、
どんな感じがするようになりましたか?
言い方悪いですけど、
音楽をやればやるほど、
重くなったとか? |
真司 |
うーん、そう、なんか、
そう感じるときもあれば、
ないときもあるっていうか。
やっぱ、自分の活動
してるときっていうのは、
いちばん関係ない、ほんともう
関係がないぐらいなんですけど、
親父の息のかかったところに行くと、
ものすごいなんかこう、
何か、を、感じるっていうか。 |
── |
どこに行っても? |
真司 |
そうですね。
やっぱりオヤジのことを知ってる人は、
どこに行っても、いらっしゃるんです。
親父と年代が近かったりする人には、
俺、ちゃんとやんなきゃいけないんだな、
みたいなことを感じさせる人が、
やっぱ、いますね。
プレッシャーを感じます。
けど、普段ずっと
感じてるかっていったら、
重いということじゃなくて、
力になってるところもやっぱあるから、 |
宮沢 |
父親がそういう存在だっていうこと、
すごく人々に影響を与えて、
名プレーヤーだったってこと、
‥‥想像できないですよね。
くどいようだけど同じ楽器だし。 |
真司 |
まあ、でも、逆に言ったら、
こういう言い方したら、なんだけれど、
ある意味、もう、その時点で、
俺が大村憲司の
息子であるっていう時点で、
終わってるっていうか、俺の存在。
そっから、逆に新しく始められるっていうか。
そういう気は、やっぱ、ありますよね。
なんかもう、越えるとか越えないとかいう、
次元じゃないじゃないっすか。
越えられないし、逆に言ったら、
越えてる部分もあるし、
なんかそういう、自分の中に自信があって、
でも自信がない部分もあって、っていう。 |
宮沢 |
やっぱり親父さんがやらなかったこと、
やれなかったことみたいなところを
俺はやるぞ、みたいなの、あるでしょ? |
真司 |
そうですね、それはやっぱありますね。
ひとつは、自分のバンドを
持つっていうことですよね。
親父は、そういうバンドは、なかったから。
パーマネント(永久)に持続するような
バンドを持つっていうことは‥‥。 |
宮沢 |
ん‥‥。 |
真司 |
だから何年かかっても、結局、
そういう戦いだと思うんですよ。
やっぱり自分の人生っていうのは。
‥‥結局、最初は、
俺は親父の息子だから、
すぐデビューして、
何かをしなきゃいけないとかっていう、
そういう気持ちがすごいあったんですよ。
自分的にはそれで
いっぱいいっぱいのとこもあったりして。
でも結局、今は、何年かかっても、
オヤジに恥じないというか、
俺が死ぬときに、
「あー、親父、ゴメン」
みたいなふうになんないように、
それをもうとにかく、
何年かかっても探したい。
大変なんですよね、ほんと。
だけど、それを探して、見つけて。
もう見つけたらそれを極めてって。
うん。
だからやっぱ恥じないという意味では、
そういうレールっていうのは、
ありますよね、親父のレール。
ギターをやってかなきゃ
いけないっていうことも、
自分がギタリストとして
一生やってくんだっていう気持ちよりも、
親父に対するそういう気持ちが、
やっぱ、デカイっていうか、
親父の名に恥じないというか。うん。 |
宮沢 |
名に恥じない、か。 |
真司 |
というの、あります。 |
宮沢 |
そうか。
背負うっていう言い方は
良くないのかもしれないけど、
それも、一応背負わないと
いけないわけですよね。 |
真司 |
いや、そうっすね。
そういうことですね。
ほんとこう、家元、じゃないけど、
どんな不良な家元なんだよ、
と思いますけど(笑)。
でもやっぱり、ちゃんとしてるんですよ、
暖簾が。大村憲司の暖簾が。
音楽の大村家のものというのは。
やっぱり俺は、やっぱり男で、
長男でっていうのは、
ひしひしと感じるし。
家族からも、それは感じるからね(笑)。
逆に言うと、妹いるんですけど、
妹の方が、まだ、
自由にできてるかなっていうの、
感じますよね。 |
宮沢 |
父親であり、師匠であり、
ライバルであり、
そんなものも
同居してますよね、きっと。 |
真司 |
そうっすね。 |
宮沢 |
憲司さんのお通夜、
参列者は、そうそうたる
ミュージシャンの人たちだったんです。
ポンタさんが、
「ここにいる人間が
みんないなくなったら、
日本の音楽は、寂しくなるな」
みたいなことを言ったのが、
すごく象徴的で。
憲司さんの存在っていうのを言い表す、
ひとつの言い方だなって思って。 |
真司 |
そうっすね。
そういうものを継いでるんであれば、
やっぱり、頑張んなきゃいけないだろうし。
|
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