続・大村憲司を知ってるかい?
大村真司が聞く、父親のすがた。

松下久(松下工房*代表)
×大村真司
その1
憲司さんには、
たくさんのことを教わりました。

*松下工房‥‥東京・原宿にある
ギターのリペア/メンテナンス・ショップ。



自宅で憲司さんが撮影した、愛用ギターのポラロイド。
── 真司くんが、ちょっと遅れるそうです。
先にお話、聞かせていただきますね。
松下さんと憲司さんとの出会いから
教えてくださいますか。
松下 僕が憲司さんに出会ってから
もう27、8年ほどになりますね。
憲司さんが、まだ東京に出て来てないころ‥‥
演奏には出て来てるけども、
まだ自宅は神戸にあった時代からです。
僕も、ちょうどその頃、渋谷のYAMAHAが
まだ、いまよりもプロフェッショナルな
店だった頃、リペアルームという、
20畳ほどのガラス張りのコーナーをつくって
そこで楽器のリペアやメンテナンスをする、
というので、僕に来ないかという話があって、
関西から、東京に出てきた時期でした。
何をするのかっていうと、
プロの人の対処と、お店に来るお客さんの、
楽器の修理なりアドバイスをするんです。
アフターケアと、今持ってる楽器のケア、
というふうな感じで。
僕がそこに勤め始めたとき、
50本ぐらいのギターが、ケースに入って
修理を待っていたんですが、
その中に1本、憲司さんのギターがありました。
それは、いちばん大事にされていた
オールドのテレキャスターでした。
のちに憲司さんは、細かな改造を重ねて
自分のオリジナルのテレキャスターを
つくられていくのですけれど、
それはまだ、なにも加工されていない
オールドのテレキャスターのままでした。
しかも、誰も手をつけずに置かれていて。
聞くと
「いやー、大村憲司っていう人に
 頼まれてるんだけど、
 なんかちょっと難しそうで、
 手がなかなか付けらんないんだ」って。
── ほって置いてあったんですか(笑)。
松下 で、僕も大村憲司って聞いて、
えっ? あの「赤い鳥」の
大村憲司かな? って訊いたら、
そうだっていう。
だけど、東京にいるんですか?
いや、ときたま来るんだよ、
っていう話で。それで、
「だったら僕がやりましょうか?」
っていって、僕がいちばん最初に
YAMAHAでした仕事が、
憲司さんのギターの
メンテナンスだったんです。
憲司さんの、今も大事にされている
テレキャスターの仕事が
初めての対面だったんです。
── なるほど。
松下 27、8年前のことですから、
僕もまだ関西弁が抜けてなくて、
憲司さんもぜんぜん抜けてなくて。
えっ? 関西かい?
っていう話になって。
僕が和歌山なんですが、
大阪を中心にして
憲司さんの育った神戸、
僕の育った和歌山というかたちの、
大阪からちょっと離れた感覚、
生活圏が似てる感じがあって、
年代も、ほぼ僕に近い感じだったもので、
いろんな話をしていくほどに、
親しくなっていったんです。

憲司さんの地元・神戸で、
憲司さんがアマチュアバンド・フェスティバルに
出場した時の写真。右から2番目が憲司さん。
松下 手先が器用なんです、憲司さんは。
基本的にはギターのメンテナンスも
自分でやりたいみたいなんです。
自分でやれないところは、
誰か自分より長けてる人に任せるけれど、
自分のやれるところは自分でやる、
という人なんですね。
そのために、自分で楽器自体の
理論を勉強していました。
深いんですよ。
そして、著名なギタリストにもかかわらず
ギターは自分で運んでらっしゃいました。
前もって、かならず電話をくださってからね。
そして、必ず、向かい合って
いろんな話をするんです。
ここをこうしたい、ああしたい、という、
ディスカッションを必ずするんです。
楽器に対する情熱はもちろん、
人としての礼儀みたいなものも
すごくきちんとしていたかたでした。

やっぱり、育ちの良さを感じました。
ロックギタリスト、っていうと
ガンガンでイケイケみたいな感じが、
ありますけれど、
憲司さんはものすごく繊細で、
気遣いをされる方でしたね。
僕が今でも真司くんと付きあえるのは、
それがあるからです。

当時は僕、22ぐらいだったんです。
髪の毛はロン・ウッドみたいに
立ってて、赤くて、
ロンドンブーツ履いてた時代です。
そういう人間にも、憲司さんは、
ちゃんとした大人としての
対応をしてくれてました。
僕が病気をしたときも気遣ってくれましたし
僕がそれで休みがちだった時期も
僕の予定の方に合わせてくださったり。

そんなふうに、人と人のつきあいですから、
たんなる「ビジネス」以上に
憲司さんにも、憲司さんのギターにも
いまでも、無下にはできないです。
もちろん奥さんにも、息子さんにも。

僕の中でのミュージシャンの
印象っていうのは、大きく、
憲司さんによって変えられましたね。
こちらもできる限り、
誠意で接していかなきゃいけないって。
この、道しるべみたいなものっていうのは、
その22、3才の若造の頃に、
憲司さんと会ったことによって、
ぜんっぜん方向が変わりましたから。
だから、ギタリストとしての憲司さんも
もちろん尊敬するんですけど、
人間的な部分のほうが、
僕には、印象が強いんです。
実はライブとかって、
僕はこの仕事をし始めてから、
行かないんですよ。
── なぜですか?
松下 自分が調整した楽器が、
ソロを弾いているときに、
たとえば弦が切れたりとか、
そういうときって、
ものすごい心拍数が上がるんですよ。
もう死ぬ思いなんです。
もう一緒に演奏してるような。
── なるほど。見れないですね。
松下 見れないんですよ。
ただ、憲司さんのものに関しては、
過去、僕、4回行ってます。

憲司さんが使っていたギターはすべて松下さんが
リペア/メンテナンスを行っていた。
── 例外なんですね。
松下

うん、やっぱり、
来てくれるかい? って言われて。
僕がほんとうは行きたいくないっていう
気持ちは知っているんですが、
それは関係ないよ、って言ってくれて。
それで、ギターワークショップに2回、
それからバンブーのころに2回見ています。

この気持ちね、最近うちの従業員に
ようやくわかってもらえるようになって。
彼らも、自分がリペアしたり
メンテナンスをしたギターを
使ってくださるミュージシャンのステージは、
僕と同じような気持ちで、
やっぱり行けなくなってきたと言っていて。
自信を持って見に行かなくてもいいような
仕事をしようって
思うようになってるみたいです。

── 遺伝してきましたね(笑)。
素晴しいですね。
松下 ええ。
── 僕たち、こういう世界のことを
ぜんぜん知らずに来たもので、
お店見てびっくりしたんです。
昔、京都の数寄屋造りの職人さんを
訪ねたことがあるんですけど、
すごく似てました、ムードが。
ピシーッとしてて。
若い人から、たぶんベテランまで、
なんか眼差しが違うんですよね。
へーっ! こんな世界があったんだと思って。
「松下工房」を作られたのは、いつですか?
松下 僕が独立したのが、21年前です。
原宿に21年前にお店を出して、
今の場所に移って15年になります。
最初の店から憲司さんはいらっしゃってました。
今の場所ね、中庭があって、
ミュージシャンが来て、
ちょっと時間待つにもいいし、
音楽事務所や広告代理店が入ってたり、
いいムードなんですよ。
── 昔のセントラルアパートって、
こういう感じなのかな、なんて。
松下 うん、そうですね。
セントラルアパートな感じです。
もうそこに、ほんとに足しげく
憲司さんが、来てくださって。
だから、必然的に、
楽器のことだけじゃなくて、
日常の話にもなってね。
亡くなられた時は
ほんとうに信じられなくて‥‥
でも、スイッチを入れ換えて、
まだ生きてると思うようにしたんです。
── いまも、ですか?
松下 いまも、です。
時間が来れば、真司くんが
憲司さんの歳に近くなれば、
弾きたくなる楽器もあるだろうし、
真司くんのジャンルと
憲司さんのジャンルによって、
使える楽器と使えない楽器があるだろうし、
僕が生きてるかぎりは、
いつでも真司くんが使えるように
キープしといてあげようって、
思いましてね。
これが憲司さんに対する、
恩返しでしかないのかな。
僕も子ども2人いるし、
自分が先逝っちゃったときの
不安感っていうのは、
すごいもんだろうと思うし。
子どもにあれしてやりたかった、
これしてやりたかったってことも
あっただろうし。
いろんな友だちがいるから、
いろんな友だちが、これから先、
手助けしてくれるだろうけど、
楽器のケアに関しては、
僕しかいないだろうな、
って思ったんで。
だから、持ってきてくださる
奥さんには悪いんだけど、
必ず、メンテナンスを、
四季の変わりごとに、やるんです。
── そうでしたか。
松下 持ってきて下さい、っていって。
もちろん、金額はいただかずね。
憲司さんの、親たる部分を考えると、
何かやっぱり、してやれるとすると
それしかないなって思って。
みんなそう、僕みたいに
思ってるんだと思うんですが。
── そうですね、
みなさん、おっしゃいますね。
大貫妙子さんも、
亡くなったとは未だに思わないと。
松下 うん。あの、1本だけ、
憲司さんと僕とで
共同で作ったギターがありましてね。
── え、完全にオリジナルのものなんですか?
松下 完全にオリジナルです。
うん、ありまして。
それは奥さんが、
憲司の臭いがするだろうから、
っていって、
松下さん、持ってて、
っていうことで、
僕が今あずかってますけど。
── 今度、展覧会()があるんですよね。

*8月30日まで、イシバシ楽器渋谷店で開催。
 詳細はこちら
松下 ええ、それに多分、
出てくると思います。

94年頃、松下工房製オリジナルギター"Seen”を弾く憲司さん。
── 展覧会なんですけれど、
ギターのこと、ぜんぜん
知らない人もいますよね。
大村憲司さんっていう人の
すがたを伝えられて、
そこに彼の使ったギターが
並ぶっていうのは、
そこまではわかって、
その気持ちは持ってけるんですけど、
ギターの見方について、松下さんから
「こう見るんだよ」って
言っていただけないでしょうか。
松下 憲司さんのギター、
全てがそうなんですけど、
すごく全体にクオリティが高いんですね。
既製品を、もちろん買ってるわけですが、
既製品のなかで弾きくらべをしてるんです。
憲司さんが、クオリティの高いものだけ
買い集めたんです。
じゃ、おんなじモデル、
いっぱいあるじゃないか、
ということで、写真を見てると、
思われるかもしれませんが、
おんなじモデルなんだけど、
おんなじ音じゃないんです。
中には、スペアとして持っていた
同じ音のものや、
同じ形で同じ弾き心地だけれど
違う音のものもありますが、
もともと楽器に関しては、
すごく目の長けている人なんで、
憲司さんが良しというものは、
たぶん一般の人たちが良しというものだと
言えるんです。
しかも、楽器自体が全部、
憲司さんなりの調整で整ってます。
で、憲司さんなりに整ってるんですが、
一般の人が弾いて、
違和感のあるものではなく、
僕らプロが見て、
いちばん正しい位置に整っています。
たぶん憲司さんは、
正しい位置に慣れようと、
ある時期、したんだと思います。
で、慣れてきて、
それが自分のベストになったんだと思います。
だから、スタンダードを知ったうえで、
そのスタンダードを
自分のものにしていったって
いうところだと思うんですね。
── 未だに触れない楽器があるって
言ってました、真司くんは。
松下 そうでしょうね。あそこまで偉大だと、
触ることで、穢す部分って、
感じるかもしれないですね。うん。

松下 でもね、面白い話ではね、
昔、その、スタンダードを知ろうという
時代が憲司さんにあって。
それは、今から24、5年前あたりですかね。
えー、ギターによって、
弦高がバラバラだった時代があるんです、
憲司さんが。
── ゲンコウ?
松下 弦高。弦高というのは、
弦がこう、張られてますね。
その弦から下に、指盤があって、
そこに、フレットと呼ぶ
金属の棒が何本か打ってありますね。
弦とそのフレットの距離を弦高と言うんですが、 
その弦高というのは、
本来はきれいに整っていないと、
運指、要するに、弾くときに指が、
なんか突っかかったりとか。
あるいはピッキングするときも、
あるところが高かったら、
ピックがよく当たりすぎちゃったりとか。
だから、6本、ジャラーンと鳴らしたときに、
音がはみ出しちゃうようなことも
出てくるわけですね。
で、まだ、多分スタンダードが
身についてなかったんだと思うんですが、
バラバラの時期があったんですね。
それで、憲司さん、
これ全部バラバラなんで、
やっぱり楽器本来の、
標準のところにもっていきましょうか?
って、もってったんです。
それで、あ、じゃ、これが標準の弦高で、
これだと音程も良かったりするんだね、
っていう話で、そうです、と。
この楽器の弦高はこれで、
この楽器の弦高はこれなんです、
という話をしていって。
それで、ある時期にぜーんぶ
それに統一しちゃったんです。
で、慣れるという努力を、
多分かなりされたんだと思うんですね。
で、そのときには、
チェックリストがウチにありまして。
憲司さんの弦高は、
1弦が何ミリ、2弦が何ミリ、
3弦が何ミリって、
全部チェックリストがあるんです。
そのチェックリストに従って
やっていたんですが、
ある日、偶然、弦高調整だけ忘れて、
憲司さんが調整したまんま、
渡しちゃったんですね。
引き取りに来て、試奏をしたら、
弦高の間違ってる弦だけ、
んっ? んっ? って。
おんなじように弾いて、また詰って、
んっ? ってなってしまって。
あ、弦高調整やってない!
って、僕がわかったんですね。
憲司さん、ごめん、
それ、まだやってない、
それで、そのチェックリストを見て、
合わしたんですね。
ただ、それは、
人間の目で分かる単位ではなくて、
コンマ2ミリです。
── うわ‥‥。
松下 コンマ2ミリが、
ミュージシャンにとっては、
ものすごい影響なんですね。
そのときにね、
僕自身もびっくりしちゃって。
憲司さん、コンマ2ミリがわかるのって。
わかるはずないのにな、と思いつつ、
コンマ2ミリを調整したら、
スラッスラ弾けるんです。
ということは、その段階で憲司さんは、
もうスタンダードを身に付けてて、
そのスタンダードじゃないと
弾けなくなっていたんですね。
だからその違いがわかるんです。
僕の頭の中では、
コンマ2ミリというのは、
そんな大きな差じゃなかったんですよ。
── いや、そうでしょう‥‥。
松下 で、改めて、そこからは、
弦高というものを、
他の人に対しても
シビアに見るようになりました。
これは憲司さんに教わったことです。
もちろん、そういういろんな
影響を与えてくれたミュージシャン、
いらっしゃいますけど、
憲司さんは、僕にとっては、
とりわけ印象深いことばっかりです。

94年頃、池袋のSTUDIO200でのライブ。
尺八奏者の中村明一さん、パーカショニストのグレン・ヴェレスさんと。
── 真司くんの話は、
憲司さんとは?
松下 真司くんのこと、
ぜんっぜん言わなかったです。
真司くんがギターやってるっていうのも、
僕に言わなかったです。
もう晩年、ウチのもやってるんで、
ちょっと見てやってくれ、って。
え、なに? 真司くんって
ギターやってたの?
言ってくれりゃあいいのに、って。
だって松下君のとこ持ってくには、
まだあいつはさ、っていう感じで。
ひとつやっぱりその、
階段を作ってたんだと思うんですね。
で、ある程度の段階まで来たら紹介するが、
っていうとこだったんだと思うんです。
いや、でも、そういう部分では、
意外と頭ん中で、
すごく頑固なおやじのところもあったのかな、
っていう気がしますけどね。
── 真司くん自身のギターも、今、松下さんが?
松下 はい、やってます、やってます。
ぜんぜん違いますよ、憲司さんと。
憲司さんとはまったく違うロッカー。
うん、あの、まだ粗野な部分が
カッコイイと思う年齢じゃないですか。
そういうところはもう、ね、随所に感じます。
── すっごく悩んでますよね。
一緒に、今回いろんな人にお会いして、
彼を見てきているんですが、
ほんとに悩んでますね。
松下 まずは、音楽でお金を
稼がないほうがいいと思う。
ミュージシャンって、旬があるから、
旬が越えて生活を維持していくのは
すごく大変なんです。
そうするとね、嫌になっちゃうんですよ、
ギターが。
だからほんとに開放的にやらしてあげるか。
みんなが優しい目で見てもね、
本人にはプレッシャーだと思うんですよ。
だから、僕にしても、
憲司さんと比べないように
しようと思ってますよ。
憲司さんはこうだった、とか、
絶対言わないようにしてますよ。

「外人天国」のプロモーション写真。


【ここで真司くん、登場】

真司 すんません! 遅れて‥‥。
さらに甲州街道も混んでて。
も、すいません、ほんとに!
松下 はははは。いやいやいやいや、
もうぜんぜん、ぜんぜん。
── もうね、相当いろんな話、
聞いちゃったよ(笑)。
でも真司くんから聞きたいことが
あるんじゃないかと思うんだ。
真司 うん。おやじって、松下さんに
リペアやメンテナンスのとき、
自分がどうしても来れない時は
よく手紙を書いてたって本当?
松下 入院とかなんかしてたときって、
そうでしたよ。そう。手紙をね、
書いてくれてたよ。
添えてくれてるんですよ、楽器に。
さっきも言ったんだけど、
社会の礼儀みたいなのを
憲司さんに教えてもらったんですよ、僕は。
真司 へぇー。
松下 うん、ほんとに、
人とのつきあい方みたいな部分。
これからも大事にするし、
ほんとに僕の財産だと思う。
真司 それは、どういうこと?
松下 だって、毎回楽器は
憲司さんが持ってくるんだもん。
晩年、入院だのなんだのの頃には、
もうしょうがなくスタッフだけど、
必ず憲司さんだよね。
そういうこと、普通の人はしないもん。
真司 おやじの場合、
家でもね、自分で調整してたし。 
松下 職人だからね、あの人。
ギター職人でもあるけど、
気質としては全てにおいて
職人なんですよ。
実家が鉄工所だよね。
やっぱり職人の部分が、
あるんですよ。
真司 そうですね。おじいちゃんも、
すごく繊細な人だったから。
松下 だから酒飲まないと
いけなくなったりするんだけど。
僕のほうが憲司さんより年下だし、
社会に出てきても、その当時
僕はヤマハの中でしか泳いでなくて、
泳ぎ方も何もわからなくって。
でも、こうやっていくんだぞ、
っていうのを、憲司さんに見せられて
憶えさせられましたね。
電話1本するなんて、
当たり前のはずなんですよ、それが。
だけど、ミュージシャンの中では、
当たり前じゃないでしょ。
真司 でも俺もおやじと同じで
自分で持ってかないと、
自分が気が済まないみたいの、あるから。
松下 それって、絶対に必要なんだよ。
なくしちゃったらいけないんだよ。
僕も、いろんなもの壊れても、
たとえば車であったり、時計であったり、
必ず自分で持ってくことにしてるよ。
それはやっぱり、憲司さんに教わったんだ。
自分の思ってることをちゃんと伝えて、
俺はこれだけシビアに
いろんなものを見るやつだぞと。
甘いことやっちゃあ困るぞ、
っていうところも見せつつね。
真司 そうですね。
松下 だから、すごいプレッシャーもあったもん。
憲司さん本人が来るでしょう?
こっちはナットの溝を切って、
弦高の調整してると、憲司さん、
こう、じーっと見てみて、
「もうちょっと削って」とかさ。
それって、うぉー、すっごいなーって。
手を抜けないって思うじゃない?
真司 俺なんか行くと、
絶対なめられちゃうだろうなあ。
技術を知らないと、
リペアマンの個性もあるし、
そういうものがギターに
反映されたりもするじゃないですか。
松下 それが悪影響になったりする場合もある。
真司 うんうんうんうん、そうですね。
松下 調整する人がやたら個性派じゃ、
だめなんだよ。リペアマンは。
そういうことは、
憲司さんによって教えられた。
シビアな人の対応の仕方っていうものを、
かなり勉強させられた。うん。
真司 へぇー。
松下 あの、いやな意味じゃなくね。うん。
真司 ほんとそう、すごいですね。


ギター・マガジン
2003年9月号
8/12発売
619円+税

←画像をクリックすると
ギター・マガジンの
HPにとびます。

Special Program
大村憲司・ふたたび
〜Kenji Is Nearly Here〜

野口さんが編集長をつとめる
「ギター・マガジン」9月号でも
大村憲司さんの特集が組まれます。
貴重な写真をふんだんに交えて
多角的にその実像に迫ります。必見です!

(↓こんな内容ですよ!)
・写真で見る憲司
・バイオグラフィー
・ソロ・アルバム解説
・憲司を知るための音源
・メイン・ギター・ギャラリー
・生前のステージ機材をそのまま再現
・鈴木茂、渡辺香津美、近藤房之助からのコメント
・松下久(松下工房代表)からのコメント
・ギター譜による名演集
(他、全27ページ)


大・大村憲司
ギター展&オークション

ソロアルバム全4枚のCD化発売を記念して
大村愛用のギター20本余り・
アンプ・エフェクターの数々を一挙に展示、
なんと!! その内数本を
オークション販売するという特別企画が実現!!
シグネチャー・ピックも限定復刻販売。
期間 8月6日水〜30日土(毎日11−21時)
会場 イシバシ楽器渋谷店 2階インポートギターフロア
問い合わせ 03-3770-1484

オークション詳細はこちら!
http://www.ishibashi.co.jp/shibuya



*明日は憲司さんのギターのリペアとメンテナンスを
いまも行っている、松下久さんの登場です。
真司君によるインタビューも最後の人物になります。
どうぞおたのしみに!

このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「大村憲司」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2003-08-07-THU

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