恩返し その22 漫画家デビューに導いてくれた ウシに恩返し。



さて、この「恩返し」に
名前は何度も登場してきましたが、
今回は、糸井重里です。




もうね。
何から話していいかわかんないくらいです。
ずくずくと高円寺に住んでいた、
こんな僕のような大長髪のラストサムライを
東京の中心部にひっぱり出してくれたのも糸井さんです。




引っ越せ、というアドバイスだったんですか?




「とにかく、高円寺を出ろ。
 こんな美大の流れのまんま
 むさい男とふたりで住んでいるじょうじゃだめだ。
 
マガジンハウスは来ないぞ
 ここには」




(爆笑)




それは、正しかったです。
とにかく、僕は糸井さんのいろんなことに影響を受けて
いろんなことをすごいと思いました。
文化系なのに体育会系の男気と豪傑さがあって
「へええ、こんなことするんだ!」と
驚いたことが、ほんとうに多かったです。
だいたい、ふつうは、イーグルスの
ホテル・カリフォルニア」がいい曲だというだけで
何十枚も買って、人に配ったりしないでしょう、
メンバーでもないのに。
「モトとれるかどうかはわかんないけど
 おもしろいことをやるには、
 こんだけやらないとだめだ」
ということを、あの人に見せてもらいました。
とにかく僕は糸井さんに
ぜんっっぶ、影響を受けたから、
当時糸井さんから言われたことを、
いま、飲み屋で後輩が
僕からそのまま言われてます。




ははは。




僕は、釈迦十大弟子みたいな気持ちなんです。
アーナンダとか舎利弗とか、そういう気持ちでいるんです。
でも、そんな十大弟子気分だった僕ですが、
よく考えたら
糸井事務所の社員でもなんでもなかったんです。
友達が勤めているというだけで
遊びに行っていただけ。
あるとき、糸井さんに
「もう来なくていいよ、
遊びに」
と言われたんです。あれは、怖かった




わかりにくいですね‥‥。




わかりにくいよ‥‥。
あの人の言うことは「7年殺し」くらいですからね。
じわじわ効いてくる。





そして、糸井は
「かまぼこ板にみうらじゅんと書いて
 表札を出せ」
と言ったんですね。



はい。そう言われて
糸井さんに頼らないようにして、
がんばってきました。
でも、糸井さんに言われたことだけは
とにかく守ろうと思って、ここまできたんです。
「お前は、一個一個はおもしろくないから
 たくさん描け」
とかね。
だから、現在の僕の
無駄な量、無駄な努力というのは
糸井さんから教えてもらったことです。






みうらさんが、いまでもいちばん緊張する、
怖い人物、糸井重里。
みうらさんは、
「糸井さんだったらどう考えるだろう」と
いつも思っているんだそうです。
いま、糸井事務所の社長である彼はよく、
「俺の言うことなんて誰も聞きゃあしないんだ。
 事務所でピッチングフォームは禁止と
 言っても、やめないやつもいるし、
 あいつのガニ股も治らないし」
と嘆いています。
そんなことはありません。
口に出しては言いませんが、
みうらさんを筆頭に、
とにかくこの人の言うことは聞いておこう、
とみんなが思っているのです。
アーナンダ・みうらさんの
23個めの恩返しでした。





みうらさんが出会った頃の、糸井重里。30代でした。


糸井重里
コピーライター。
1972年に活動を開始し、'75年にTCC新人賞を受賞。
「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。
好きな食べものはコロッケパン。
甲殻類は食べません。

釈迦の十大弟子
釈迦の弟子の中で、特に優れた人たち10人。
舎利弗(サーリプッタ)、
阿難陀(アーナンダ)などがいて、
釈迦の教えを後世に伝えた。
アーナンダは、釈迦の説法を最もたくさん聞き、
女性に親切だったとか。


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2005-06-30 THU
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