第2回 不可避の一本道
「ただしいことをしてるのに、報われない…」
「いいことをしようとしているのに、
なんだか、実行できないままでいるんだ…」
そういう日々を過ごして、悶々としている人が、
今も昔も、ずいぶんたくさんいると実感できるんです。
だけど、その「ただしさ」って、
そもそも、何を指すものなのでしょうか?
そういうことを、いろんな方向から見てきたのが、
今回のイベントに参加する吉本隆明さんではないか、
と、思えるところがあるんです。
今日から数日間は、すこしずつ、その辺に触れますね。
吉本さんと、実際に面と向かってお会いすると、
「やはり不幸や幸福というものは
どこかにあるのでしょうけれども、
どうやれば幸福になれるのかは、
わからないなあ、というものでしょう」
「ぼくは、自分がこうだ、というようには、
決めないようにしてきたところがあります。
ひとつの層だけに入って、
俺は、こうなんだ、と、
全身からそうなってしまうことに関しては、
かなり、気をつけていますね」
こんなふうな趣旨の話を、よく聞くんです。
だいたいにおいて、どちらでもないという自覚が
そうとう厳密な人なんですけれども…。
そういう考えを持つに至ったきっかけになる言葉を、
今日は、吉本さんの、30年ほど前の著作から、
ところどころの抜き書きのかたちで、紹介してみます。
「個々人の生涯は、
偶然の出来事と、意志して選択した出来事に
ぶつかりながら決定されてゆきます。
しかし、偶然の出来事と、
意志によって選択できた出来事とは、
いずれも、大したものではありません。
ほんとうの契機は、
ただそうするよりほかすべがなかったという
不可避的なものからしか、やってこない。
一見、受け身な考えに見えるでしょうが、
人が勝手に選択できるようにみえるのは、
観念的に行動しているときだけだ。
ほんとうに観念と生身とをあげて
行為するところでは、世界はただ、
不可避の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。
ちいさな善、ちいさな脱出を選ぼうとした瞬間に、
世界がみえなくなることもあります。
あいまいで小規模な救済の視野から
いまの世界をいくらかユートピア化しようと試みたり、
どこかにユートピアがあるように考えるのは、
かならず間違うのではないでしょうか。
……それなら、
善なる行為はしなくてもいいのだろうか?
不正や不平等を、ただ、傍観していいいのだろうか?
これらは、どんな現実にいても沸き起る自問であり、
他者から詰問されたり、倫理的に非難されたりして、
無限に繰り返される問いです。
そしてその都度、すっきりした答えが出せずに
逆にすっきり答えるために声高になったり、
粋がってみせたり、内心のてんてこまいを
他者に秘したりしている問題です。
そんなことは何も行わなくていいんです。
小さな善と小さな悪とが葛藤したり、
悩んだり、道連れになったりしている世界で、
じぶんもおなじようにそのなかに生きて、
死ぬべきときがきたら死ねばいいのでしょう。
縁があったら、意志とはかかわりもなく
千人を殺すことだってありうるし、
契機がなければ、意志しても一人も殺せない。
人はそういう存在であるということが、
前提なのだから」
選ぶことのできるものよりも、
選べないもののほうが多いんだ、ということを、
吉本さんは、くりかえし話しています。
さらに、選べないもののほうが、
ずっと大事なんだ、という姿勢が、
あちこちの著作で、語られているんです。
なぜ、そう言っているのでしょうか?
そのことについては、
次回以降にお話することにして、
まず、今日は、いったんこの言葉を紹介したところで、
1日、呼吸をするように、お休みしたいと思います。
吉本さんの今日の言葉を、
あなたはどう読みましたか?
ヒントのないまま、読んで、ただ思ったことを、
postman@1101.com
こちらに、件名を「コンビニ哲学」として、
送ってくださるとうれしく思います。
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