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第3回 生きた言葉とは?


「世の中には、選ぶことのできるものよりも、
 選べないもののほうが多い」

ということを前提においていたり、

「選べないもののほうが、ずっと大事なんだ」

と捉えたりする姿勢が、
吉本隆明さんの多くの著作で、語られている……。
そう紹介したのが、前回(昨日)の内容でした。

なぜ、吉本さんはそう語るのでしょうか?

今日は、前回にひきつづき、ポイントになっている言葉、
「選べないもののほうが、ずっと大事なんだ」
……の周辺にあることを、紹介していきたいと思います。

数十年前の吉本さんは、
ある言葉が、生きているかそうではないかは、
もともと、言葉を発した本人にはわからないものだ、
と、くりかえし、主張しているところがあります。

そのへんの言葉を、要約しつつ、伝えましょう。

「ある人物の生涯を追いかけることは、
 一生が記録や著述に残されていても、
 そうでなくても、おなじ難しさに出会います。
 果たそうとしたことと、果たしてしまったことは
 いつでも違った貌で、生身の人間に訪れるからです。
 結果として、かれが何々であったということには
 ほんとうは意味がありません。
 意味があるのは、かれが何々であった、何々になった、
 ということの根に横たわっている普遍性でしょう。
 
 言葉が正しいものであるからと言っても、
 その言葉が、聞いた者の中で生きるかどうかとは、
 まったく関係がないといってよいと思います。

 わたしたちは、
 じぶんの体験と心理に照らしあわせて、
 ある言葉が生きているものかどうかを判断する。
 人が、自分の発した言葉に、軽薄さからではなく、
 不可避的に背いてしまう存在であるということは、
 誰の体験とも交換できるから、納得できるんです。
 
 たとえば、聖書の中でキリストが
 『おまえは三度わたしを否むだろう』と語る言葉が
 普遍的な実感として受け入れられるのには、
 はっきりとした理由があるんです。
 現実の秩序に異議を申し立てる思想が、
 どう敗けていくのかを、すでに
 わたしたちは体験的に熟知しているからなんです」


実感している感情しか、
生きている言葉としては、伝わってこない、
そして、人は絶えずあやまちを繰りかえすわけですから、
「生きている言葉」とは、
避けられもせず、なぜかそうなってしまった言葉が多い。

強い実感を共有できるものは、だからこそ、
ただしいものだとは、かぎらない、となるわけです。

「でも、不可避なものしか信じられないならば、
 目的とか、意志とかは、どう持てばいいの?」
と思う方も、けっこう、いらっしゃるかもしれません。

……そういう疑問を残しつつ、
今日は、いったん、このへんにしておきますね。

「言葉を生かすのは、避けられなかった実感である」
「選べないもののほうが、ずっとだいじなんだ」
という言葉を読んだ時、あなたはどう感じましたか?

疑問も含め、いろんな感想を、ふと思ったままに、
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送ってみてくださるとうれしいです!

話は、さらに次回に続きます。

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2003-09-01-MON
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