その3 自分が書けることしか、書けない。
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糸井 |
たとえば、このシリーズが
詩集というかたちをとっていれば
まだなんとか、らくなのかもしれないけれども、
この「よりみちパン!セ」は、ちがう。
原寸大で読者に向かいあうということをしています。
ですから、まずは
読者に向かい合うところに
たどりつくまでがたいへんです。
みなさん、よく書いたし、
著者にお話を持っていって
引き受けさせた清水さんもすごいなあ。
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清水 |
いえ、ふつうです(笑)。
この本は中学生以上の年代に向けて
書かれたものですが、
著者の方の多くが、
「その年代の人たちと
共有しているものがない」
と、まずは考えているところが
いざ読者に向かい合おうとしたときに
引っかかるところかもしれませんね。
でも、その引っかかりは、
決して意味のないことじゃないと思うんです。
たしかに表面的には、共有しているものは
なにもないかもしれないけれども、
もしかしたらちがうところで
つながることができる可能性があるということだから。
著者のみなさんにとっては、
「下手をすると言っていることが
ぜんぜん伝わらないんじゃないか、
理解されないんじゃないか、
そしてそれももしかしたら
自分の思い込みなんじゃないだろうか」
とか、いろんな心配があるわけです。
ふだんものを書くときの前提とは
まったくちがう。
著者のみなさんが、
そうやって、言葉に対して迷ったり、謙虚になったり、
大胆になったりしながら
コミュニケーションを一(いち)から
考えていくところがおもいしろいですよね。
心の動きをおもしろく感じるんですけれどもね。
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糸井 |
著者のみなさんは、
どういうところに気持ちを持っていって
読者に伝わるものを
書けるようになるんですか?
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清水 |
いろいろと試行錯誤されながら、
「結局は自分の書けることしか書けない」
というところにストーンと落ち着いて、
書くものや書き方が決まり、筆が動くようです。
私などは、最初からスラスラ書き出した場合とは
伝わり方ががちがう、と
信じているようなところがあります。
とにかくそういう余計なプロセスが
このシリーズの独自性につながっていると思います。
(ふたりのはなしは、つづきます)
2006-01-15-SUN
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