その11 「あのときの自分」を救ってる。
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清水 |
私は出版社で15年間、
単行本をつくってきました。
単行本をひとつひとつ出していく仕事は
とてもたのしいんですが、
もうすこし「面的」なものが
できるといいかな、と
思いはじめていたんです。
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糸井 |
子ども向けに、ということが
このシリーズを出す動機として
「先」ではなかったんですね。
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清水 |
実際の、ひとりひとりの子どもについては
とてもおもしろいと思うんですが、
抽象的な「子ども像」のようなものには
じつは、それほど関心がありませんでした。
子ども、ということを考えるようになったのは、
書き手のみなさんが
どんなものを出してくるかに
興味を持ったからです。
すばらしい書き手が、世のなかに
たくさんいらっしゃいます。
その方たちに
テーマを見つけて書いていただく
というよりも、
「読み手が子ども」という
ドラスティックな違いに対して
みなさんがなにを言ってくださるのかな、
と考えたんです。
そして、分量がこんなふうに少なめだと
どうされるのかな、という
ワクワクするような興味もありました。
どちらかというと外側の物質的な部分で
スタイルを変えたときに
どう言葉を出してくれるんだろう、
と思ったことが、最初の動機です。
それに加えて、自分のなかで
「出版」というものについての考えが
大きくシステム変換をした時期が重なって、
「ちいさい、短い、でもなにかがたくさん」
ということがイメージにありました。
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糸井 |
実際に、子どもたちが
読んでくれていますよね。
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清水 |
送られてきた「読者カード」などを見ると
みんな、かなりするどい読み方をしてくれている。
距離をあまり置かずに、
すごく真剣に読んでくれています。
よかったな、と思います。
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糸井 |
ものを表現するということは、
決して楽なことじゃないです。
「さっさかさ〜」とやっているフリをしていても
ぜったいにそんなことはないわけですよ。
その苦しさに耐えられるだけの動機が
ここにはある。
これはぼくの想像だけど、
著者のみなさんは、
何かを救っているんだと思うんです。
いまの、たとえば14歳を
救っているんじゃなくて、
自分の14歳だった時代を
救っているんじゃないかな。
いわばここにそろってる人たちって、
多感な人たちだったでしょうから。
子どもから大人になるときに、
ぜったいに苦しんだと思うんですよ。
そのときの自分を助けてあげるのが
大人になった自分なのかもしれません。
清水さんが、
子どもという存在について
特に関心があったわけじゃない、
とおっしゃるのは、よくわかります。
ぼくは、子どものころに
たのしくてしょうがなかったか、というと、
そうじゃない。
さなぎから羽が出るくらいの時期って、
無力感と、
「大人にならなきゃいけない」という嫌さの、
両方がありました。
あの時代の自分に向けて、
「よし、こっちにつかまれ!」
と、書き手のみなさんが言ってるような、
そんな気がします。
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清水 |
中学生と、書いている自分とが
離れてしまっていると
なかなかそういう「差し出し」は
できないと思います。
日ごろは忘れていても、
どこかでそのときの自分がつながっているから、
紐かなにかを投げて
リアルに引き寄せることが
できるんだと思うんです。
そのころの自分の、
納得できなかったかんじ、
くやしかったかんじが、
ちょっとだけでもいまの著者のみなさんに
残っているんじゃないかな、と思います。
あとは、もっとドライに
「とにかく言っておかないと!」
というふうに、
書かれる方もいらっしゃいますよ。
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糸井 |
養老さんとか、そうですね。
その距離感は、またおもしろいね。
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清水 |
はい、すばらしく、おもしろいんです。
(ふたりのはなしは、つづきます)
2006-02-02-THU
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