よりみち
パン!セ
中学生以上すべての人たちへ。
キミたちに、
伝えたいこと。



空に飛行機を見つけると
動かなくなるミツ子さんは
十メートル歩くにも十分以上を要した。
本好きのイチロウさんは読んでも読んでも
「行」を読み間違えるので、
一ページ進むのに
数時間を費やしているようだった。

けれど、お年寄りたちはそのことを
苦にしているようには見えなかった。
どんなに時間がかかっても
自分のペースで成し遂げた。

それを待てないのは、
ぼくたち職員のほうだった。

飛行機を眺めるミツ子さんを車椅子に乗せ、
あっという間に目的地へと運びさり、
彼女から空の世界を奪う。
本があると何かにつけて
ことがスムースに進まないからと、
イチロウさんの本を隠した。



おばあちゃんが、ぼけた。

村瀬孝生

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この本の舞台になった「宅老所よりあい」にお邪魔した
なんどめかのときのこと。
そこでは「そんなはずねえんですがね!」の
マサトさん的状況が、
そこにいるご老人の数ぶん、繰り広げられていました。
そのなかのひとつ。

はじめてその場に居合わせることになった同行の知人、
あるおばあちゃんに大きなタオルを渡され、
これがいかに大切で、だから忘れずに
「持っていって、渡してくださいね、
 忘れないでくださいね。よろしくね。
 よろしくお願いしますよ、
 あなたにたしかに頼みましたよ」
と、ちゃぶ台を挟んで、繰り返し懇願されていました。
そのタオルがどんなものなのか、なぜ大切なのか、
どこに持っていって、だれに渡したらいいのか、
渡すことにどんな意味があるのか。
このタオルに関するそれらの「有効な情報」は、
この30分ほどのやりとりのあいだついぞ伝えられぬまま、
ただただおばあちゃんの真剣な熱意に、知人は言葉を失い、
彼女の差し出す大きなタオルに
とりあえず片手をのせたまま、
固まり続けておりました。
そろそろ業を煮やしたおばあちゃん、
「いつまでぼ〜っとした顔で触っとんの!
 忘れないように早くしまうがよか!」
と一喝。
びくりとした知人は両手でタオルを受け取り、
カバンにしまいこみました。
それを見届けて、おばあちゃんひとこと
「ぜったいに忘れなさんなよ!
 あいかわらず信用ならんやつたい!」
知人小さな声で、「かならず渡しますから。」

そのあと知人は、一部始終を見ていた、
この本の著者であり、
宅老所よりあい所長である村瀬さんに、
「わかったような演技をしてしまって……、
 おばあちゃんにすごく失礼なことをした気がして
 つらい……。でもいったいどうしたら……?」
と泣き出さんばかりの面持ちで訴えました。
村瀬さんはそれには直接答えずニコニコしながら、
「あのおばあちゃん、今日はスターだったでしょう!
 新しくて若いお客さんとおばあちゃん
 ふたりのやりとりに
 最初から最後まで、その場の全員、
 じっと注目してたもんね。きょうはきっと、
 うれしくて眠れないんじゃないかなあ〜?」と。

村瀬さんは禅問答の達人ではないですから、そのあと、
「あまりわけのわからないことでしつこくされて
 不愉快であれば、そろそろやめていただけませんか?
 と言うことは
 失礼でもなんでもないんじゃないでしょうか」
とか、
「毎日毎日みなさんこうですから。
 ぼくが答えてほしいように答えてくれる人なんて
 だれもいないですし。それになにか聞かれても、
 だいたい聞かれていることがわからないから、
 推理しながら返事してると、逆ギレされるし(笑)。
 応用なんてきかないですよ、
 毎日方角だって変わるし、朝なのに夜だし、
 天気なのに台風ですって言われますから。
 勤めてだいぶたつのに、いまだにみなさんから、
 『あなただれでしたっけ?』って
 しょっちゅう聞かれるし、
 みなさんのご経歴も聞くたびに変化していますしね」
やら、いろいろなお話を伺うことになるわけですが、
村瀬さんはそのたびに本当に困っているんです、
と絶望的な表情になったり、
楽しくてしかたがない、という表情になったりします。
「すごく困るし、すごく楽しいんですよ、
 やめられません…」。

本書巻末の谷川俊太郎さんの言葉が浮かびます。
お母さまの「ぼけ」をきっかけに考えられたことです。

“この世には「意味」で割り切れない「存在」があるし、
 役に立つ立たないとうことだけで
 人を判断することはできません。
 人と人とが通じ合うのに言葉だけが大事なのではなく、
 言葉によらないスキンシップもおとらず大切だし、
 固まりすぎた秩序を
 もう一度混沌に戻すことを恐れる必要もないということも
 考えるようになりました。”

ぼけの可笑しさ、不思議さ、怖さ、美しさ。
忘れがちですが、若い時期ばかりがヒトではない。
人間すなわち混沌をおそれず、
この1冊で、ぼけを丸ごと学んでください。

(編集担当・清水檀)

2007-07-12-THU




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