遙か彼方で働くひとよ。 フィラデルフィアの病院からの手紙。 |
手紙7 「最期を看取る」 こんにちは。 先日の原稿を送った後で、 ほぼ日の金澤さんからメールが届きました。 患者さんに蘇生を行なっているときに そのやめ時の判断は何を根拠に決めているのか、 日本とアメリカとの違いはあるのか、 という質問でした。 最善を尽くす努力をする点に関しては どちらも、同じです。 脈がぜんぜん触れなくなったり、 心臓マッサージをやってる間は心電図の波のうごきが あっても、それをやめると、 心臓が機能していると思われる波形は モニターから消えてしまって、 ただの光の線になってしまったりするなど、 ひとが亡くなる前に起きてくる いわば、ポイント・オブ・ノー・リターン が何度も重なってくると、 わたしたちは蘇生を止めることを考え始めます。 もう、 命をこちら側にひきとめておくことが出来ないことは その場のみんながわかっています。 誤解を恐れずにいうと、 アメリカでは患者さんのことだけ考えて そのやめ時を考慮するのに対して、 日本では、 少なくともわたしが働いていたときにもっていた印象は 患者さんの家族も含めて治療の対象になってるんだ、 ということでした。 「最期を看取る」とか 「死に目に間に合わなかった」という 言い回しがあるように、家族の最期に立ち会うことは 日本の文化として大切なことのひとつなのだと思います。 亡くなってしまってからのご遺体に会うのと、 ともかく、救命処置を施している場に立ち会うのとでは、 家族の患者さんに関する最後の思い出も 変わってくるからでしょうか。 心臓マッサージをしているところに家族を呼び入れて、 心電図モニターを示しながら、 「心臓マッサージをしている間は、このように波の動きが ありますが、ちょっと止めてみて、 (と、やってる人たちの手を止めさせて) このように、止めるともう、心臓は動いていません。」 と、実際に見てもらうまで蘇生を続けることは、 よくありました。 仕事をはじめて間もないころ、 「箱根に住んでいる息子が来るまで、 何とかもたせて下さい。」 と患者さんの奥さんに頼まれた上司にいわれて、 もう、すでに亡くなっているとしか思えない患者さんに 2時間心臓マッサージをやり続けたことがあります。 上司が命じたことに、まだ逆らえない頃でしたから、 何人かで交代しながら息子さんを待ちました。 患者さんを「もたせる」ということは、 胸を押して モニターの波形を作りつづけることだけでした。 手をうごかしながら、 ああ、これはいったい誰のためにやってることなのかしら、 と考えていたことを思い出します。 その後、 家族の最期に立ち会えなかったことを いつまでも辛い思い出として持ち続ける人に 何人も会いました。 そんなとき、箱根の息子さんのことを思い出して、 あのひとは満足してくれたのかなあと思います。 尋ねる機会はもう絶対にないのですが。 本田美和子 |
1999-05-30-SUN
戻る |