PHILADELPHIA
遙か彼方で働くひとよ。
ニューヨークの病院からの手紙。

手紙142 家庭内暴力・13 おわりに(3)


こんにちは。

家庭内暴力のシリーズを終わる前に、
もう一通だけ
いただいたメールの中からご紹介することにしました。

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わたしの父親は家庭内暴力の常習癖があり、
今から約20年前、
高校生だったわたしは母と妹と共に
ほとんど夜逃げ状態で家を出ました。

わたしは、長いこと
両親の家庭内暴力現場の目撃者でした。

父が、母を車で轢こうとしたときに、
止めに入ったのはわたしです。
母への暴力のとばっちりから、
布団蒸しのような虐待めいたことをされた経験もあります。

小学校高学年ともなると
妹には現場を見せまいと知恵をめぐらせ、
両親の夫婦喧嘩の度に
姉妹で公園に避難をしたこともありました。

今、わたしも母と同じく子をもつ立場になって、
あの頃のことを冷静に思い返してみると、
様々な思いが交錯します。

結果、母は父との離婚裁判に勝ち、
わたしと妹は文字どおり
<女手ひとつ>の母子家庭で育ちました。

今、わたしたち姉妹が
無事こうして曲がりなりにも一人前のオトナとして、
それぞれ幸せな家庭を築くことができたのも、
全て母の勇気ある行動あっての賜物だと思っています。
もし、母が勇気を持たないか弱い女性だったら、
今頃わたしたちはどうなっていただろうと考えると、
恐ろしい気もします。

けれども。わたしは、今でも父が大好きです。

自分の心から尊敬する母が
どんなに父のことを悪くいおうとも、
それだけは鵜呑みにはできません。

彼を憎むことは、
わたし自身を傷つけることにもなるからです。

彼は、母にとっては最低の最悪の男だったでしょうが、
わたしにとっては
いつも自由で優しくてファンキーでカッコ良くて
「最高のパパ」でした。
それだけが、わたしにとっての紛れもない真実です。

家庭内にとくに大きな問題もなく育った人には
きっとわかりにくいことだろうと思いますが、
親子の絆というのはそんなに簡単なものではありません。

親の家庭内暴力現場の目撃や、
それをキッカケとした両親の離婚を経験したコドモたちは、
必ず将来の自分の家庭に、
ある特殊な考え方をもって臨むことになります。

それは
「自分は決して、両親と同じ道を歩むまい」
という決意です。

PTSDとかトラウマとか
難しい精神医学用語が出る幕以前の、
もっとシンプルな人間としての知恵みたいなものです。

コドモがいるから、という理由から
パートナーの暴力に
ひたすら耐えているばかりの女性たちに、
そんな親をもったコドモの立場からいわせてもらえば、
それはコドモを言い訳に
<暴力を容認している>だけである、
ということを知って欲しいです。

離婚や別居は、
パートナー関係をよりハッピーに改善するための
模様替えのようなものです。

子をもつ母として、
よりよい未来を築くことを使命と考えられるオトナとして、
家庭内暴力には勇気を持って
立ち向かって欲しいと思います。

コドモの教育に必要なのは、
戸籍上の両親の存在より、
家庭は分散しても
それぞれが幸せに生きている姿を見せることだ、と
わたしは思います。

今、わたしは父の所在を知りません。
生きているかどうかもわかりません。
けど、
わたしは父を愛しているし、
父もわたしを愛してくれていることを信じています。

だからわたしは、家庭内暴力が、
愛のない人間の犯す罪だとは思いません。

パートナーと共に暴力を乗り越え、
愛を成長させる人々も大勢いることでしょう。

けれども、もし、コドモの目前での暴力を
容認し続けている女性が居たら、
勇気を出して欲しいと、わたしは心から願います。

わたしのように
家庭内暴力の現場を目撃して成長するコドモが、
一人でも少ない世の中になってほしいと思うからです。

匿名希望・♀・37才

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家庭内暴力についてのお話は
これで本当に終わりです。

ちょっと一息ついてから、
その後は近頃やっている往診について
少しお話しすることにしようか、と思っています。

みなさまどうぞお元気で。

本田美和子

2002-05-02-THU

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