PHILADELPHIA
お医者さんと患者さん。
「遥か彼方で働くひとよ」が変わりました。

手紙239 日本のHIV
世界初のHIV治療薬を生み出した日本人
満屋裕明先生(3)



こんにちは。
このところ世界で初めてのHIV治療薬を開発した
満屋先生についてご紹介しています。

10年前に先生に初めてお目にかかったときに
伺ったお話に記憶違いがないか確かめたところ、
HIVの研究を始めたばかりの当時の様子を
ご自身で書いてくださいました。

以下、先生にいただいたメールです。

「HIVの研究をするなど、
落下傘をつけずに飛行機から飛び降りるのと同じだ」
と言われて、
決してウイルスを研究室へ持ち込むなと
他の研究者から求められました。

それまで女性の実験助手が
ぼくの実験の手伝いをしてくれていたのですが、
妊娠しているからと、
以後の実験補助を断られました。

しかし、そのときは誰でもが
謎の病気、AIDSを怖がっていましたから
「あーぁ、仕様がないな」くらいに
比較的軽く考えたのを覚えています。

止むなく、実験に必要な細胞を調整してから
ピペッター、培養プレートなど
全ての道具を「カゴ」に入れて、
300m程離れた別の研究棟、Building 31の
Robert Gallo博士の研究室に
出掛けることで実験が始まりました。
(本田註・Robert Gallo博士は
 当時HIVについて「誰が第一発見者か」と
 フランスの研究者と争った、
 この分野の研究の専門家でした)

無論Galloの研究室でも
昼間は普通に仕事をやっていますから、
その人達が帰宅してからの暗くなった遅い時間に、
誰もいない、よその研究室で
たった一人で実験をする訳です。

Building 31は夜になると
入り口に鍵がかかるようになっていて、
ぼくはその鍵を持っていませんでしたから、
実験をはじめたのは冬でしたが、
寒い中を建物から人が出てくるのを待って、
やっと中に入ってから
Gallo博士の研究室に向かうのです。
(本田註:このビルは夜になると
 中から外へは自由に出れるのに、
 外からは鍵を持っていないと扉が開かない
 システムになっていたんだそうです)

Gallo研究室の一員Mika Popovicに
HIVの入ったバイアルを
素手で無造作に渡されて驚きましたが、
それ以降何のアドバイスもありませんし、
恐らく世界で初めてのプロジェクトの内の
1つでしたから、
ぼくの研究指導をしていたSamuel Broder博士は勿論、
だれも教えてくれる訳はありません。

最初はなかなか実験がうまくいかなかったのですが、
2、3ヶ月くらい工夫を続けているうちに、
どうにかうまくいきそうだという
準備的なデータが見え隠れしてきました。

しかし、他人のキッチンで料理をするのは大変でした。
たとえば、ハサミなどのちょっとしたものを忘れると、
引き出しを片っ端から開けて
「コソ泥」よろしく「捜索」しなければなりません。

それでBroder研究室の諸君に
もう一度掛け合って、
彼らがいない早朝、深夜で良いので
実験をぼくのsafety cabinet
(培養実験等をするときに使う無菌キャビネット)で
やらせてくれるように、
HIV用の実験器具も細胞も
目に触れないようにするからと頼み込んで、
やっと自分のキッチンで
料理ができるようになりました。

満屋裕明

先生がいらっしゃった
米国国立健康研究所
(National Institute of Health:NIH)は、
世界中から科学者が集まり
最先端の研究を数多く行っている、
巨大な研究機関です。

また、先生のメールの中に出てくるお名前は
たとえば、後に米国の国立がん研究所の
所長に就任したBroder先生のように、
どなたもとても高名な方ばかりです。

このような研究機関であっても
ご自分の所属する研究室も使えず、
ようやく使わせてもらえる研究室でも
「HIVの研究をするんなら、夜しかだめ」と言われ、
ご自分の昼間の仕事を終えた後に
鍵ももらえない、よそのビルの入口で
ご自分がお使いになる道具を抱えて
扉が開くのをじっと待ってる、なんて、
何というご苦労をなさったのか、と思います。

周囲の対応も含めて、
当時のHIV研究のおかれた環境が
端的にわかるエピソードだと思います。

でも、このような環境であっても
すばらしい研究を次々と発表になったのですから、
満屋先生のご努力は相当なものであっただろうと
改めてしみじみと思いました。

では、今日はこの辺で。
みなさま、どうぞお元気で。

本田美和子

2007-10-05-FRI

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