【“写真を観る”編 第10回】
マヌエル・アルバレス・ブラーヴォ (1902〜2002)
Manuel Alvares Bravo
「MoMA」刊の写真集より
(クリックすると拡大します)
前回の「エドワード・ウェストン」に続いて、
今回は、南米を代表する写真家
「マヌエル・アルバレス・ブラーヴォ」について
お話ししたいと思います。
実は、今回お話しする「ブラーヴォ」という写真家は、
ウェストンと、深いつながりを持っています。
ブラーヴォは、1902年にメキシコ・シティーの
祖父も父親も画家という、
いわゆる芸術一家に生まれます。
そして、幼少の頃から、
様々なアートに触れながら育ちました。
成人を迎える頃には、写真に強く興味を抱き、
写真を撮り始めるのですが、
それは、プロ写真家としてではなく、
調べてみると、驚くことに、
仕事は、当時の財務省において、
会計の仕事をしています。
ところが、以前ウェストンの回でご紹介した
メキシコの写真家「ティナ・モドッティ」が、
ブラーヴォと親交があり、
彼の才能を見いだしていたのでしょう、
ウェストンに、ブラーヴォを紹介しました。
ウェストンは、ブラーヴォの写真を高く評価し、
「もっと、たくさん写真を撮るべきだ」と、
彼を励ましたとのことです。
ウェストンといえば、当時の写真界では、
誰もが憧れる写真家なのですから、
そんなウェストンに、そんな風に言われたら、
相当うれしかったのではないでしょうか。
そして、ブラーヴォは、その言葉を受けて、
写真家としての道を、歩み始めたのです。
時代は、まさに革命後のメキシコです。
多くの芸術家たちが、
メキシコ固有の文化を取り戻そうとしながらも、
同時に、前衛的な創作活動を繰り返していました。
そんな中にあって、ブラーヴォも、
精力的に、撮影を繰り返します。
その影響か、ブラーヴォのすべての写真には、
どの写真を観ても、マヤ文明をルーツに持つ、
神秘的な、独特のあたたかさを持っているように感じます。
たしかに、それは感覚的なことなのですが、
それも、しっかりとした技術があってのことなのです。
現に、1960年代になると彼は、
新たに、積極的にカラーで撮ってみたり、
プラチナプリントまで、自ら手がけています。
もしかしたら、これもウェストンの影響かもしれませんね。
(現に、彼はウェストン同様に、初期に撮影した
絵画的な写真をすべて破棄しています。)
とにかく、その感覚と技術のバランスが、
他の写真家に比べても、すごくいいのです。
しかも、その技におぼれることなく、
それらの技術のすべては、
ブラーヴォならではの写真として、
とても自然なかたちとして存在しています。
これは、音楽でも同様なのですが、
たとえば、抑揚たっぷりに、
歌い上げる歌だったり、
やたらとテクニックを駆使するだけの演奏というのは、
聴いていても、ちょっと疲れてしまいますよね。
“写真を撮る”ということと、
“楽曲を演奏する”という行為は、
とても、似ているところがあります。
同じモーツァルトの楽曲であっても、
奏でられる音というのは、
演奏家の解釈によって、様々ですよね。
しかも、解釈がいくら優れていても、
今度は、それを奏でるための技術がなかったら、
すべてが成立しないわけです。
それは、写真だって同じなのではないでしょうか。
あなたの写真に“抑揚たっぷり!”は、
要りません。
では、“抑揚たっぷりに歌い上げる歌のような写真”
にならないためには、どうしたらいいのでしょうか。
まず、技術を先行させないということです。
よく、写真の仕上がりの質感ばかりに気をとられて、
何を撮っても、同じようになった写真を目にしますが、
おそらく、そういった写真は、
そのことが、原因だと思われます。
もっとわかりやすい例だと、
トイカメラを使って撮影された写真の多くも、
余程、それを使う必然を持たない限り、
どの写真を観ても、同じ写真になってしまいますよね。
その点、今回お話ししている
ブラーヴォの写真は違います。
ありとあらゆる技術を駆使しているのですが、
そのことは、あまり目につかないというか、
ごく自然なかたちとして存在しています。
実際ぼくも、1997年に、偶然ニューヨーク近代美術館にて
ブラーヴォの回顧展を観たときに、
はじめてオリジナルプリントを目にして、
写真集ではわからなかった、
その技術的な高さに気が付いたほどなのです。
それらの技術は、おそらくブラーヴォにとっては、
ごく当たり前の、必然だったのではないかと思っています。
そして、そんなブラーヴォの写真を観ていると、
いつだって、その中から南米独特のあたたかい光と、
ブラーヴォという写真家の、
あたたかい人柄を感じることが出来ます。
これは、写真にとって、
ひとつの理想のかたちなのだとぼくは思います。
だから、ぼくも、少しでも自身の写真に迷いが起きたり、
技術的に煮詰まったときは、
いつも、ブラーヴォの写真を観ています。
今回も、久しぶりに、手元にある写真集を、
一枚一枚、丁寧にゆっくり観てみました。
先程もお話ししたように、晩年はカラー写真も撮っていて、
それはそれで、すごくいいのですが、
驚くことに、たとえモノクロであっても、
カラーであっても、
ぼくは、そこに同じ“あたたかい色”を感じました。
(これは、「第48回 もう一度、改めて
モノクロで撮ってみよう」にも、
とても通じる話です。)
ぜひとも、一度改めてじっくりと
ブラーヴォの写真を観て欲しいと思っています。
そしてもしも、「いいなあ、この写真」と思ったら
まず最初に試してみて欲しいのが、
「このような写真は、どんな時に撮れるのだろうか」
と考えてみることです。
もちろん、そこは何となくで構いませんので、
その「ブラーヴォの視点」を意識しながら、
身の回りのものごとに、目を向けてみてください。
そして、その被写体は何だってかまいませんので、
自分なりに、写真を撮ってみて下さい。
そして、その出来上がった写真を見て、
どうしても、もう少しきちんと写したいと思ったときに、
カメラを変えてみたり、
プリントの仕方を変えてみたり、
モノクロにしてみたり、カラーにしてみたりしながら、
少しずつ、技術的なことも覚えていって下さい。
そうやって、覚えていく技術こそが、
本当に必要な技術なのではないでしょうか。
しかも、そうやって出来上がる写真というのは、
けっして技術だけが一人歩きしているような
写真にはならないものです。
とにかくぼくは、ただ「上手いだけの写真」というのが
すごく苦手です。
とはいうものの、
「上手い写真」と「いい写真」の区別というのは、
なかなか難しいかったりするのですが、
そんな時に「ブラーヴォ」の写真は、
最高の“普通のお手本”だと思いますよ。
晩年撮影を繰り返していた「カラー写真」
(クリックすると拡大します)
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2007-03-02-FRI
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