text by ICHIGO SUGAWARA

Agfa Potoriga Rapid Type118
現在では、この印画紙はもちろんのこと、アグファはカラーフイルムも含めて、すべてのアナログの写真産業から撤退してしまった。この印画紙は、写真といえば銀塩写真だった時代の中で、長い間、代表的なバライタ紙として、同社の「Brovira」という名の印画紙と共に、多くの写真家に使われた。Type118というのは、無光沢タイプのもので、他にもType111という、光沢タイプのものもあった。
アンセル・アダムス Ansel Adams
カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。幼少の頃よりピアニストを目指すが、登山家としての経験を重ねる中で、生涯のライフワークともなる”ヨセミテの風景”に出会う。やがて写真家を志し、グループ「f64」の結成。また、独自のプリントのシステムを生み出すなどの、高い写真術と共に、アメリカ写真界の中において、高い人気を誇る。
Ed van der Elsken/エド・ヴァン・デル・エルスケン
1925年アムステルダムに生まれ。24歳のときに小銭とカメラのみをもってパリ、サンジェルマン・デ・プレに移住。当時のMoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーター、エドワード・スタイケンに見出され、その展覧会をまとめた写真集『セーヌ左岸の恋』は、世界中で話題作となる。その後も常に等身大の写真をとり続け、最後に1990年、ガンを宣告されてこの世を去るまでの日々を綴ったビデオ作品は、「自分をさらけ出せ。」だった。ぼくにとっては、そのことが未だによく解らない。
Edward Steiken/エドワード・スタイケン(1879〜1973)
ドイツ・ルクセンブルグ生まれ。1881年に家族と共にアメリカに移民。1900年のロンドンにおける「アメリカ写真界新傾向展」に出展したのをきっかけに、頭角を現す。そして時にはステューグリッツと共に、もともと絵画からスタートしていることもあって、まさに絵画と写真の架け橋を担う。1947年にはニューヨーク近代美術館の写真部長に就任する。
FUJIFILM PRO400
2001年に富士写真フイルムより発売されたネガフイルム。「第4の感色層」を使用することで、それまで難しいとされていた「発色」と「階調」という2つの問題を両立させた。発色もよく、柔らかいと感じるフイルムは、非常に汎用性が高く、ぼく自身にとっても現在は、常用カラーフイルムのひとつ。2002年にリニューアルされ、現在は「New PRO400」という。
Gallery291
A.スティーグリッツが、ニューヨークの五番街291番地に設立したフォトギャラリー。それまで”写真”と言えば、肖像写真や記録写真としてしか理解されていなかった写真文化の中にその芸術性を指し示した。そして同時に、アメリカにセザンヌやマチスなどのモダンアートを初めて紹介した。
Georgia O'Keeffe/ジョージア・オキーフ(1887〜1986)
アメリカを代表する女流画家。ウィスコンシン州の農家に生まれる。その後、シカゴ美術研究所で絵画を学び、ニューヨークのアート・スクールArt Students League of New Yorkに入学。そのニューヨーク滞在中に、アルフレッド・スティーグリッツに出会い、1917年にスティーグリッツ主宰の”Gallery291”にて初個展を開く。
GR1/リコーGR1
1996年に発売された超薄型コンパクトカメラ。しかも、その作りはマグネシウムダイカストを使用した本格的なもの。そして何よりも、小さいながらも非常に精度の高い28mmという広角レンズによる描写力が、多くのユーザーを魅了した。その後、何度かのバージョンアップをし、2001年に惜しまれながらも、製造は中止された。しかし中古市場では、未だに高値の付く人気機種。自身のモデルは「初代GR1」。なお現在ではデジタルカメラ「GR DIGITAL」が発売されている。
Henri Cartier-Bresson / アンリ・カルティエ=ブレッソン
1908年フランス生まれ。1947年にロバート・キャパらと共に「マグナム・フォト」を結成。そして1952年に、世界中の写真家に影響を与えた写真集『The Decisive Moment(決定的瞬間)』を発表する。2004年、95歳にてこの世を去る。ぼくが在学した大阪芸術大学では、多くのブレッソンの写真をコレクションしていたこともあって、そういった意味では、何も解っていないうちから普通に見ていた写真のひとつ。秀逸なライカ使いとしても有名な写真家。
Hexer/コニカヘキサー
ライカのレンズマウントとなった「Hexer RF」が発売されるまで、1992年から1999年に製造された40mm単焦点オートフォーカスカメラ。最大の特徴はその明るくて秀逸な描写をするレンズにある。特に曇りの日の「写り」は白眉。ぼくにとっても長年の愛機。写真集「青い魚」の写真のほとんどは、このカメラによるもの。
Irving Penn/アーヴィング・ペン
1917年、米国ニュージャージー州生まれ。30年代にイラストが雑誌「ハーパース・バザー」に採用されたことをきっかけに、ファッション誌の世界で仕事を始め、その後自らが写真を撮り始める。中でも、静物写真においては、卓越した技術と構成力で、他の追随を許さない。また、多くの有名人を撮影したポートレイトでも有名。
Kodak Tri-X
モノクロフイルムといえば”トライX”と言われるほどに、もっともポピュラーなモノクロフイルム。その後のモノクロフイルムは、すべてがこのトライXをひとつの指針として、作られたと言っても過言ではないほど。ASA400という高感度ながら、粒状性も極めて細かく、同時にどのような被写体に対しても反応する、その汎用性の高さは、極めて秀逸。ぼくにとっても、未だに他のモノクロフイルムを使うことがないほどに、ひとつの定番。
Leica IIIa
1935年に発表され、1950年頃まで製造されたライカ。スクリューマウント(バルナック)型と呼ばれる一連のライカ人気機種の一つ。当時のライバル、コンタックスに対抗してライカでは初の1/1000秒のシャッターを搭載。ボディは、戦後の人気機種III cやIII fと比べて、上下左右とも2mmほど小さい。
Leica M4
1967年にライツ社から発売されたカメラ。このモデルでライカとしては初めてクランク式巻き戻しを採用した。また最初から、ボディ内にスリットがついたスプールが固定され、そこにフィルムを差し込む方式になり、フィルム装填がしやすくなった。さらに35ミリのブライトフレームの中央に135ミリのフレームを追加。M型ライカの一つの完成型ともいわれている。
Leica M3
1954年にドイツ・ライツ社が、圧倒的な技術力を持って発表したカメラ。
中でも、そのファインダーの美しさと精度は、未だにひとつの金字塔と言える。現行機は「M7」
LOMO/ロモ 
1982年にロシア・サンクトペテルブルグで発売されたトイ・カメラ。日本製のコンパクトカメラをモデルとし「すべての市民にこのカメラを」というねらいのもと、民衆のカメラとして生まれた。とはいうものの、「MINITAR 1」と呼ばれるレンズは、開発当初よりロモ独自に研究され、そのやや広角ぎみで鮮明な色の仕上がりが特徴のレンズは、ユニークなロモ独特の世界を作り出している。
Minolta CLE
1981年から1984年までの、たった3年間だけライカ社とミノルタ社が技術提携して作られた。ライカCLに、絞り優先AE機能を加えて発展させたミノルタ設計のカメラ。レンズも同時にミノルタ・ロッコールレンズとして、28mm、40mm、90mmの3本のレンズが発売された。しかも、そのレンズマウントはライカMマウント。現在でも、気軽にライカのレンズが使えるカメラとして、中古市場でも人気のカメラ。
NATURA1600/FUJIFILM
2004年に、このデジタル全盛の時代に新製品として発売された画期的なフイルム。当初は、低照度においても手ぶれを防ぐという観点より開発されたものの、今となっては単純にそういった特殊なフイルムとは言えない。その写りも今までの好感度フイルムとは異なり、その柔らかい描写は、時にISO400に引けを取らない画質が得られる。同時に発売されたコンパクトカメラ「NATURA S」が24mmF1.9の明るい広角レンズを採用し、フラッシュを使わない撮影を推奨しているように、結果的に写真の新しい楽しみ方を提唱しているフイルムである。現に、現在多くの写真愛好家がこのフイルムを使って新しい可能性を模索している。
http://fujifilm.jp/natura/
http://blog.fujifilm.co.jp/natura/
ピクトリアリスム/Pictorialism
絵画的な写真のこと。画面構成はもちろんのこと、時にはネガへの加筆およびにぼかしなどの手を加えられた。(その代表的なものがソフトフォーカス)スタイケンなどが好んで使用した「ゴム印画法」などもそのひとつ。
Robert Capa / ロバート・キャパ
1913年ブタペスト生まれ。本名アンドレ・フリードマン。自国ハンガリーを去り、ベルリン〜パリに移住し、後に共に世界的な写真家集団「マグナム・フォト」を結成することになる★アンリ・カルティエ=ブレッソン★らと出会う。その頃から「ロバート・キャパ」の名前で作品を発表し、スペイン内乱中の写真で世界的に有名になる。そして1954年、雑誌「ライフ」の依頼で撮影に訪れていたベトナムにて、地雷に触れ死亡する。一般的には、報道写真家として有名ではあるが、個人的にはそういったジャンルを超えた「キャパ」という、非常に魅力的な写真家の目がとらえたそれらの写真群は、常々「これこそが写真。」と感じている。
Robert Frank/ロバート・フランク
現代写真界を代表する写真家。1924年スイスに生まれ、現在ニューヨーク在住。1955年から1956年に、グッゲンハイム財団の奨学金でアメリカの日常を撮り下ろした伝説の写真集『The Americans』(アメリカ人)は、世界中に写真の新しい可能性を指し示した。まさに「Photgraphre's photographer」。昨年、そんなロバート・フランクから届いた手紙は、ぼくの宝物。
ティナ・モドッティ Tina Modotti
イタリア生まれ。1910年頃にはアメリカに移住。女優として働きながら、1920年代にはエドワード・ウェストンとメキシコで写真制作を行う。戦間期のメキシコやスペインなどで、政治活動にも深く携わりながら活動を続け、女性写真家の先駆け的な存在。
イルフォード/ILFORD
英国のモノクロのフイルム及び印画紙の専門メーカー。昨今では、デジタル写真に押され気味ながら、未だに健在。そういった時代の流れの中にあっても、このメーカーの「写真を知っている」感のあるプロダクトは、多くのファンがいる。エルスケンが愛用したフイルムはASA400の「HP-5」。ぼくのお気に入りは、その丁寧で柔らかい描写が独特のASA125の「FP-4」。
写ルンです
1986年に富士写真フイルムより発売された、いわゆる「使い捨てカメラ」。その手軽さから、あっという間に全国に拡がり、一時はどこの観光地にもその自動販売機があったほど。現在は、デジカメの普及によって以前ほどではないにしても、未だに様々なモデルが存在している。
http://www.fujifilm.co.jp/utsurundesu/histry/history.html
オスカー・バルナック
ライカの創始者。1879年ベルリン郊外に生まれる。1911年にライツ社に就職。彼自身が登山愛好家であったことも手伝って、小型カメラの開発を研究。1913年にライカI型を開発。そして1925年には映画用35ミリフィルムを利用したウル・ライカを試作。I型から始まる彼が開発した「スクリュー・マウントタイプ(通称Lマウント)」のカメラのことを「バルナック型」とよぶ。そしてそのモデルは、1954年にM型ライカが発売されるまでの30年間に及んで製造された。
オリジナルプリント
この定義は、とても難しいのですが、ひとつは写真家が自らプリントをしたものをオリジナルプリントと呼ぶ場合があります。そしてもうひとつは、半永久的に変色しないような処理をされたプリントのことを指す場合もあります。この場合は、たとえ写真家が自らプリントせず、プリンターがプリントしたものであったとしても、写真家がサインというかたちで認証したものであれば、オリジナルプリントとして認められます。
ダイアン・アーバスの場合は、自らの手によって、完全処理をされたプリントを制作しています。
画角
画角とは、レンズが写し込む範囲を対角線の角度によって表したものです。35ミリカメラにおいて、標準レンズとされる50ミリレンズの画角は、およそ45度になります。また一般的な写真用語として、写る範囲のことを簡単に指す場合もあります。
カール・ツァイス(Carl Zeiss)
1890年に、創始者の名のもとにドイツのイエナにて、財団の中の写真部門として設立される。その後100年以上に渡って、数多くの名レンズを生み出してきた。また1932年から1972年まで「Zeiss Icon」の名でカメラも製造。そのカメラもさることながら、やはり独特の切れのある描写力を持つ、ツァイス・レンズのファンは多い。現在、日本においてはすべての「SONY」ブランドの光学機器において、カール・ツァイスのレンズを使用。そして2006には「コンタックス」なき後、初のニコン・マウントのレンズを発表して話題となる。
キヤノン(Canon)
現在では、カメラ、プリンタ、複写機をはじめとする事務機器、デジタルマルチメディア機器などを製造する日本を代表する精密機器メーカー。1933年に精機光学研究所として発足。カメラとしては、「プロの使用に耐えうる最高級機を開発すべし」という要望に応えるため、1971年3月に名機「Canon F-1」を発表。その後、「Canon New F-1」そして現在の「EOS」シリーズと、次から次へと進化を遂げている。また現在、デジタルカメラの販売実績第一位を誇る。
銀塩写真
現在では、デジタル写真に対して、アナログ写真を総じて「銀塩写真」と呼ばれることが多い。具体的には、フイルム面に塗布された乳剤内のハロゲン化銀(AgX)を使った化学反応で像を定着していることに由来する。
広角レンズ
一般的には、24mmから35mmあたりの画角のレンズを指す。中でも28mmはとても写真的で、その場の雰囲気とか、気配を写すのには最適なレンズ。
ゴム印画法
アラビアゴムに重クロム酸塩と顔料を混合して紙に塗布し、乾燥後ネガと密着して太陽光などで焼き付けるといった古典技法。保存性は高いが、鮮鋭さは劣る。よって時にはその分絵画的に見える。
コンタックス(Contax)
京セラが製造・販売するカメラのうち、レンズにカール・ツァイス社製の「ティー・スター」と呼ばれるレンズを採用した商品に付けられたカメラのブランド名。もともとは、ドイツのツァイス・イコン社製のレジファインダーカメラのブランドであったが、同社1971年にカメラ事業を中止した際、日本のヤシカとライセンス契約を締結して日本メーカ−のブランドとなった。ヤシカは1983年に京セラに吸収合併されている。2005年9月に、惜しまれる中で京セラのコンタックス事業が終了し、同時にコンタックスブランドの歴史が幕を閉じてしまった。
湿板写真
およそ140年前に、日本に初めて渡来した写真の技法のひとつ。よく知られるところの写真としては、あの「坂本龍馬」の写真。硝子板にコロジオン溶液を塗布し、硝酸銀に浸すことによって感光性を持たせる。そしてその最大の特徴は、従来の銀塩写真に比べて、紫外線に強く反応する。
写真家グループ「f64」
f/64とは大判カメラにおける最小の絞りの値のことである。それによって最大の被写界深度を確保することが出来る。そして、すべてに焦点があった写真というのは、メンバーたちが擁護するストレートフォトグラフィの哲学を代表する手法であり、当時流行していたピクトリアリスムの手法への返答である。「写真は、芸術の一形態として、写真という媒体の現実と制約条件により定義された方向に沿って発展しなければならない。f/64のメンバーは、このように信じる。そしていつでも、媒体それ自体の成長に先走った文化や時代の名残である、イデオロギーと化した芸術や美学の因習から独立しなければならない。」
写真集「青い魚」
1996年に沖縄・那覇にて撮影された、映画「青い魚」のロケハン写真を中心として、翌年新たに、主役の涼子役「大内マリ」さんを撮り下ろして構成された。映画同様に、「朝始まって、朝終わる。」写真集。写像工房刊。
焦点距離
カメラにおいての焦点距離というのは、レンズの長さではなくて、焦点までの距離を指します。おそらくみなさんも小学生の頃、太陽光線を、レンズで集めて”光の点”で紙を燃やしたことがありますよね。そうです、あの光の点が焦点なのです。だから50ミリのレンズというは、レンズから”光の点”までの距離が5センチということなのです。
ズイコーレンズ(Zuiko Lens)
1936年に発表された「Olympus」ブランド初のカメラ「セミオリンパスT型」の搭載されて以来、オリンパスカメラのレンズのブランド名として使用されている。このオリンパスというメーカーは、もともとが顕微鏡メーカーでもあるので、中でも接写用のマクロレンズの描写は特に秀逸。そのことも手伝ってか、多くの昆虫写真家が愛用していることでも有名。
セーヌ左岸の恋/Love of Left Bank
ストリート・フォトの先駆者エド・ヴァン・デル・エルスケンの処女作品集。彼がパリに暮らしていた1950年から1954年までの間の、セーヌ左岸のサンジェルマン・デ・プレに集う、アウトサイダーやボヘミアンたちと共に、「アン」という娼婦を架空の恋人?として撮影された、ある意味ではエルスケンの自叙伝的な写真集。
ソフトフォーカスレンズ
特に女性のポートレイトなどを撮影するために、開発された特殊レンズ。そのやわらかくにじむ、その描写にファンも多く、各社より古くから、現在に至るまで制作されている。
奈良原一高 Ikko Narahara
1931年福岡県大牟田市生まれ。1956年にあの“軍艦島”を撮影した初個展「人間の土地」を開催し、衝撃的なデビューを果たす。1959年には、川田喜久治、東松照明、細江英公、丹野章、佐藤明等らと、伝説の写真集団”VIVO”を設立。現在では、奈良原氏の写真は世界的な評価を受けている。
ニコン(Nikon)
1917年「日本光学工業株式会社」として、光学レンズ製造メーカーとして創業。1932年に写真レンズの名称を「Nikkor(ニッコール)」とし、1948年に初の35mm判距離計連動カメラ「Nikon I型」を発表する。そして1959年には、世界を震撼させた高性能一眼レフ「Nikon F」を発表。その後「カメラ=一眼レフ」の常識を作り上げていく。今現在でも、その「Fマウント」は継承され続け、最新モデルは「Nikon F6」。その性能もさることながら、”丈夫で強い”という信頼感が、今でも多くのプロが使用する最大の理由のひとつ。もちろんぼくもそのひとり。
Nikon F2
1971年に発表され、当時としては最高速のシャッター速度1/2000秒を誇った。また「F2 は、以前のFシリーズを全面的に改良し、シャッターボタンの位置を若干、前に移動したり、細かい面取りを施し、手にフィットするフォルムにしたことで、操作性が格段に向上した。また大きく機能向上したモータードライブなど、一新された操作系も高い評価を受けた。そんなすごいカメラが、ぼくにとって最初の一眼レフカメラ。
単焦点レンズ
最近では、もっぱらズームレンズに押されがちな、50mmであるとか35mmであるといった画角が決まっているレンズのこと。そのズームレンズに比べて、レンズ構成に無理がないために、明るさを含めたあらゆる点で有利。
沈胴式レンズ
通常は、カメラボディの中に収まるかたちで収納されているレンズの総称。現在では、そのレンズを引き出す作業も自動化されているが、特に古いライカのレンズ群の中には、このタイプが多く、手動で引き出す。
早崎 治(はやさき おさむ)1933-1993
1962年に、AD亀倉雄策氏と共に制作された「東京オリンピック」のポスターで一世を風靡する。その後も、常に広告写真界においてトップであり続けた写真家。1974年に河出書房より「早崎治の広告写真術」を出版。日本広告写真家協会元会長であり、ぼくの唯一の師匠。1993年11月11日に、残念ながら撮影中の事故により他界する。とにかくぼくは、先生から「プロ」ということを徹底的に教わった。そして何よりも、その存在感のある風貌は、今でも大きなひとつの憧れ。それにしても、その早過ぎた死が、今でも何とも悔やまれてならない。
バライタ紙
バライタ層と言われる硫酸バリウム・ゼラチン液を塗布した紙で、このバライタ層の上に、感光乳剤と保護膜が塗布された印画紙のこと。最近では、RCペーパーと呼ばれる、ビニールベースの印画紙の普及により、その需要は日に日に減っている。しかし、その独特の黒の深みは、何と言ってもバライタ紙ならではの真骨頂。
マグナム・フォト
1947年にニューヨークで誕生した、フォトジャーナリストの集団。ロバート・キャパが発案、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアら写真家たちが出資して運営。現在は50人の写真家をかかえ、パリ、ロンドン、東京にも支社をもつ。
http://www.magnumphotos.co.jp/
宮川 一夫(みやがわ かずお)1908-1999
「羅生門」(黒沢明監督)「雨月物語」(溝口健二監督)など、日本映画の数々の傑作を撮影した名カメラマン。中でも「羅生門」では、こもれ日を黒白対比の映像で描き、世界の絶賛を浴びるなど、陰影にこだわった白黒の美学の頂点を極めた。遺作「舞姫」(1989年)まで134本のフイルムを日本映画史に残した。まさに「日本代表の眼」。個人的には、先生が大阪芸術大学映像計画学科の学科長を務められている際に受講を繰り返し、いつしかぼくも「いつかは、映画。」という思いを抱いた。映画「青い魚」にしても、湿板写真プロジェクトにしても、その影響力は多大。そして現在では、縁あってご子息の一郎氏とも、またお孫さんたちとも、彼らが現在京都でシルクスクリーンの工房を営んでいることもあって親しくさせてもらっている。
ライツ社
1849年に、ドイツのフランクフルト郊外の小さな街ウエッツラーで、エルンスト・ライツ一世が創立。光学機器、特に顕微鏡の製造を始める。そして、二代目エルンスト・ライツ二世の時代の1911年に、オスカーバルナック氏がライツ社に入社して、そこからこの会社の輝かしいカメラの歴史が始まった。
ライカのレンズマウント
ライカレンズには、Lマウントというスクリュータイプと、Mマウントというバヨネットタイプの2種類がある。現行品はMマウント。
レンジファインダー
光学的な距離計のこと。三角測量と同じように、二点よりの距離を重ね合わすことで、正確な距離を測定することが出来る。この機能を持ち合わせたカメラのことを、レンジファインダーカメラという。そのレンズを動かして距離計を動かして、二重像を重ね合わせることで、ピント合わせを行うこの方法は、現在でも、一眼レフに比べても、コンパクトでありながらも、きちんとピント合わせが出来るために、こちらを好む愛好者も多い。
ローライ・フレックス/Rollei flex
1929年に、ローライ社(ドイツ)が発表した、世界で初めての二眼レフカメラ。その歴史的なカメラは、数々のモデルチェンジを繰り返しながらも、基本的な部分は変わらず現在でも生産されている。イメージサイズは6cm×6cm。

とじる