網の目のある惑星。 おーい、 と呼びかけてみよう。 |
こちらにある文章の一部の拙訳です。 「あぁ、みちゃおれん。まちがっておるではないか。」 というこころ温かい御指摘は、こちらまで。 /////////////////////////// インターネットとは、 地下に潜んでいるだろう、それぞれのエピソードの時間軸が 蜘蛛の巣状にはり巡らされた、「物語」のネットワークを あらわにするために開かれた場所である。 インターネットを使うことで、アカデミックな思考の エリートぶったネットワークから、いわゆる「一般大衆」の ごちゃごちゃした文化のカオス、そう、 膨大なソープオペラを生み出すような土壌にとんでいける。 What is *snowfields*________________________ 「地図」をクリックすると、「物語/テキスト」が あらわれる。(この物語の世界で)なにが起こっている のか、ひとびとがコラボレイトした形跡、 あなたが投げ込んだシチュエイションなどがあらわれる。 それは、ただ単に時間を示し、一応成立している会話を 提供しているだけだ。 これが、そのソープオペラで、 *snowfields*で 起こっていることなのだ。 編集された/読まれたテキストは、われわれに送ることが でき、それは、*snowfields*内で起こっている「リアル」の 一部としてアーカイブされる。 同じエリア内の地図を次にクリックする時は、 似ているけれども、ちがったヴァージョンが できあがっていることになる。登場人物は同じであるかも しれないが、やりとりは変わっているだろう。 抽象的な言い方をすれば、「みているモノと、得るモノは 別モノ」であり、つまり、それは「物語」を形成する上で 可能な限りのコトバの組み合わせのうち、あるひとつの 順列にまんまと“ひっかかっている”だけなのだ。 あなたが自分のコンピュータ上の「地図」をクリックして、 webから情報を取り出す時、あなたのブラウザは あなたのコンピュータ上でのみ、あるエピソードを つくりあげるのだ。 *snowfields*のそれぞれのエピソードは、HTML や JavaScriptで書かれているが、これは「たったひとつ」と いうわけではなく、物語の「すべての可能性」をも 含んでいる。 これらのストーリーは膨大ではあるが、無限ではない。 登場人物のやりとりは、いきあたりばったりではあるが、 コードによって制限されているものではない。 このように限定されていること自体は、うざったいかも しれないが、それはひとつの提案であり エンターテイメントである。しかしながら、編集可能で、 つかの間のモノだ。「delete」ボタンを押してしまえば、 一発である。 これらの条件は、3つのテキストを生み出す。 1/ブラウザで読まれるテキスト 2/読者に読まれるテキスト 3/読者自身によって書かれるテキスト How do automation and text come together?______ テキスト、意味、オートメイションのよく知られた例 (もしくはマインドゲーム)として、20世紀初頭に 書かれた、J.L.ボルヘスの『バベルの図書館'the library of Babel'』がある。 このストーリーでは、図書館員のグループが、 表面上は無限と思われる膨大な数の本によって構成される 巨大図書館を維持している。その本とは、各行は40字、 各ページは40行で400ページの体裁となっており、 ラテン文字のあらゆる組み合わせによって成り立っている。 このような図書館(を想像してみてほしい)は、どえらい 現象を引き起こす。それぞれの本は独特で、大部分は 意味をなさない文字列である。 また、同じ本の膨大なヴァージョン違いがちょっとした スペルミスとともにあり、さらには、同じテキストの翻訳は あらゆる言語で存在する、などなど。 一見、無限に思われる数の本も、実際は予測可能な 数量なのである。 「文学の役割」というものは、言語そのものをさらけだす 鏡、であり、また、その極めて未熟な要素から、 際限のない並び順をつくりだすという、言語それ自体の 特質という事実をあらわにする。 このありがちなマインドゲームを楽しむために、 限られた数のユニットと、出発点としての一定の場所が 必要になる。 ボルヘスは、これを(アラビックや漢字などのテキストは 排除し)ラテン語のアルファベットとした。 しかし、この場合、膨大な翻訳がその均等化のうちに 存在することになるのだが。 こうすることで、あらゆるノイズやカオスを切り捨てる ことができ、劇的にでてきてしまうであろう莫大な数の 組み合わせを切り捨てることができる。 たとえば、より大きなユニット(“コトバ”のような)を 形成するために、ある程度の意味を持ったちいさなユニット (“文字”のような)を使うプロセスは、 カオスの外に秩序をつくりだす。 *snowfields* という作品は、このような意味を持つ 「塊/clusters」によってつくられ、文法的に正確で、 根本的に意味が分かる、英語のコトバによる 「塊/clusters」を使う。 これらの「塊/clusters」から、*snowfields* における JavaScriptがランダムにテキストを組み立て、 モニターに映し出す。しかし、このいきあたりばったりに でてきた結果は、読む時間、月、年、コンピュータの型式と いうようなデータに左右される。 Authors and Automation______________________ あらゆる可能性から要素を選びだし、組み立てていくこと、 さらにプログラムにこれらの「塊/clusters」を 送り込むこと、は通常では「作者」がすることである。 *snowfields*では、これらの可能性からストーリーを 「集める(もしくは組み立てる?)」ことは、 オートメイションの作業にゆだねられる。 作者が支配統制できる範疇は限られたものとなっている。 文章を組み立てる作業は、作者があらかじめ想定している 「塊/clusters」(たとえば、文章のような)よりも、 かえって予想外でおもしろい要素を提供しつつ、 オートメイションという機能によって代行される。 コンピュータによっていきあたりばったりに でっちあげられた、あるふたつの要素が ぶつかりあうことは、読者に解釈を要求する。 webぺージにおいて首尾一貫していて、 わかりよく構成されたテキストを与えられる時は、 「読む」というプロセスは、よりアクティブで想像力を かき立てられるものになる。 しかし、これが曖昧である場合、説明を要求される。 *snowfields*の作者たちは、自らが打ち込んだ、 多くの可能性のうちの、たったひとつであることを 参照する。 このプログラムを実行することで、「書き手」を 「読み手」に変え、だれもが予想しなかったような展開を 目撃することになる。 Automated Scripts__________________________ しかし、物語の一部分である「塊/clusters」を オートメイション化する、ということは、特異なことに 仕立て上げることを意図してるわけではなく、むしろ 「物語」が持つ本来の性質に焦点をあてることにもなる。 “ダメ”コンピュータプログラムが、これらの要素を超えた 感覚を作り上げることができる、という「ゆとり」は、 すでに自動化された「物語」の本質というものを 声を大にして語り出す。 「読み手」が、「なるほど」と「わからないよ」の間に 起こる行き来を受け入れなければならないという悲劇を 例にしてみれば、「物語」はお決まりの約束事に 固執している。 それは、世代を超えて発達し磨きあげられてさえいる。 このように、このソープオペラが、分散していて リニアではない(一続きの軸上にない)構造であることは、 われわれがヨーロッパ中心主義的な状況の中で、 劇的な伝統の必然的かつ同時代的な発展として 認められるにちがいない。 また、「物語」における登場人物の属性は、「読み手」に 同一性と対立という視点を提供するかもしれないが、 それは主に、プロット(構想/話の筋)を実行し、 進行という状態をわからせる役割を担った登場人物間の 関係性を意味する。 だから、登場人物どうしのぶつかりあいや意図しようとして いることの不一致、ストーリー展開への切り口、 それらが始動する一方で、個人の属性と意図するところは (M.ウェーバーが『minima socialia』に記したように)、 (物語の)成りゆきとその展開を成立させるのだ。 登場人物たちの、会話のやりとりや、分散し多面体的な 構造における関係性は、このソープオペラを(そういう 装置やマシンを「物語」の分野に取り入れるために) 適当な実験場に仕立て上げている。さらに、自動化された デバイスに含まれるモノは、(「記述する」ということを 超えて)「物語」のスクリプトを疑似体験するだけでなく、 予想外のところに「物語」をもっていくような、 予定“不”調和の可能性をも準備してくれるのだ。 Criticism of Hypertext_______________________ hypertextにおける「書き手」としての「読み手」が 誇示しているものは、必ずしも前途洋々としたものでは ない。 バルト(*ロラン・バルト)が『'S/Z' 』の中で示した、 「読み手としての」テキストと「書き手としての」 テキストの区別は、この論議の基本方針となっている。 バルトが『テキストの快楽』において、このことは、 テキストをつくるプロセスであり、断片(フラグメンツ)の 再編成を意味した。 インターネットとその固有の言語という点で、HTMLは事実 「書き手」のテキストをつくり出すということに関しては、 とても貧弱なツールである。 メールを書いたり、ソフトウェアをオーダーする時に VISAのナンバーを記入したり、ということ以外では、 web上で「書く」ということは頻繁ではない。 「自身のテキストを書く」ということは、 限られた構成要素(潜在的には膨大かもしれないが)を 通して、自らの構想を組み立てるための婉曲語法、 つまり遠回しなやり方になっている。 *snowfields*内の自動操作されたデバイスは、 著者の首尾一貫性をはぐらかしている。 著者を「テキストの書き手」にしないための オートメイションは、美学的かつ理性を麻痺させる状況下で テキストを発展させるシチュエイションを導き出すことが できる。 (その状況に到達したテキストは、モニター上で完全に 編集されたテキストエリアで映し出され、ボタンをクリック することで送信することができる) 読み手/書き手は、「知的に無防備な」場所に テキストを提示する。 変わりつづける「物語」が結末に向かっていこうとするに したがってでてくる「あいまいさ」は、 読み手/書き手をその最終的な目的に関わる責任から 開放する。一方で、読み手/書き手が書き加えて いくことが、このソープオペラの展開に重要な、 また一時的な役割を果たすという認識は、 参加することに意義があるのだという状況を生み出す。 個人の想像力は、的確な判断によって、このテキストの 展開に影響する、重要な役割と結末を握っている。 オートメイションによって構成するという方法を使うことに よって、読者は、「つくるよろこび」を経験すると同時に、 継続的にあらわれる、あまり馴染みのない方法によって、 自ら書いた作品を読むことができるのだ。 *snowfields*は、いつでも編集可能である。 簡単につくりかえることができ、変更可能であり、 復帰することもでき、次々に変わっていく、 そんなさまざまなテキスト(モニター上に映し出された、 または、ディスクに貯えられたテキスト)のうちのひとつに 取り組むように、コンピュータをベースに「書く」という 考えに従えば、アーカイブでさえ編集可能であり、 すでに「submit」された変更後のヴァージョンに 立ち返ることで、「読み手/書き手」は、 新しい層をつくる。 このような層は、「物語」における、多くの学問領域を カバーするネットワークを形成してゆくのだ。 |
2000-03-16-THU
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