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まるでハガキのように。 |
みなさん、こんにちは。 「あなたの、桜の名所」に たくさんのご投稿ありがとうございました!! いやあ、もう投稿がいつにも増して 集まること、集まること。 やっぱり誰にとっても桜は特別なものなんだなあ って改めて感じました。 鼠穴に写真まで送ってくださった方もいたんですよ~。 今年は満開のときにお花見しそびれちゃったから 心が和みました。 ありがとうございますね。 さて、桜の季節も終わりを告げつつありますので、 本日より新しいお題に移らせていただきます。 新しいお題は、 「おやじは昔、不良だった」 です。 どこのおうちでも必ずと言っていいほど話題になるのが おとーさんの若き日の武勇伝。 みなさまんちのおとーさまは 「俺っち、昔、モテてモテて、 そりゃ大変だったんだぜ~~」とか 「俺っち、昔、すごい番長でさー、 県内の高校でおいらの名を知らない奴はいなかったぜ」 などなど、“俺はカッコよかったぜ”エピソードを 得意そうに披露していませんか? もちろん、“おやじさん”に限らず、 「お母さんはねー、昔、ものすんごいかわいくって、 “仙台の原節子”って言われてたんよー」 などという、いまとなっては真偽のほどは知る由もない お母上の若き時代の華麗なる思い出でもかまいません。 いつものように、ルールはとくにありません。 字数は800字以内でおねがいします。 みなさまからのたくさんのご投稿お待ちしております。 (※ここをクリックすると、投稿にいきます。) |
2001-04-10-TUE
●かお 私の母は昔、 松竹のお姫様スターのオーディションの “書類選考”に残ったことを得意げに話します。 祖父の猛反対にあって、 面接には行けなかったとか。 応募したのはよくありがちですが、 “友人”だったとか・・・・ 「面接行ってたら、今頃ああなってたかしら」 と、美人女優を見ながら言う母は 赤木春恵に劇似。 ●どん 父語る。 「昔は、新聞に載るほどの キックボクシングの選手だった。 浪速のジョーとかもしっとるでぇ」 確かに昔の写真を見ると、 そこには腹筋六つに割れた、 細身で筋肉質の父が・・・。 「いい体しとったんやねぇ~」 と返す私。 「ほれっ、見てみろ!」 といいながら、 自慢のカモシカの脚と ピクピク動く胸筋を見せびらかす。 さらに続く自慢話。 「わしは、森田健作と 同じオーディションを受けた。 受かっとったら、スターやったわ! でも、えかったなぁ。 スターになっとたら、 おまえらは生まれとらんかった」 たしかにそうだけど・・・ 父よ、ひとこと言わせて。 あなたは、何を目指していたの? ●iku 私の父は若い頃、 吉永小百合は自分に惚れていると 本気で思っていたらしいです。 一面識もないのに。 【そう思ってしまった理由】 1.父は八百屋。 当時、吉永小百合の親戚だという家に よく配達に行っていた。 (だからその家の人が自分のことを話した、 という理屈) 2.吉永小百合がTVのインタビューか何かで、 「じゃがいものような男性が好き」 と言ったため。 素朴な人ってことなんだろうけど、 じゃがいも→八百屋→俺! と父は自分本位に連想した。 ●ふぐこ うちのパパ。 幼稚園からは脱走し、 小学生の時からタバコを吸っていたといいます。 そんなパパの高校時代の写真は 当然ヤンキームード満点。 いまだに当時のお仲間と、 当時のままの呼び名で呼び合っています。 「ダボ」「グニャチン」「チャンキー」 あなた達何者? ●tomo 父は酔うと、 よく自分の昔話をしてくれるのですが、 そのレパートリーの中に伝書鳩の話があります。 「お父さんが子供の頃、 伝書鳩を飼うのが流行ってな。 その頃伝書鳩飼ってるってーと ちょっとした不良だったんだぞ」 と話が始まります。 当時のその感覚が理解できません。 ●チクリ 私の父は、自称、女子のアイドル。 毎日、女子が 「○○君にいじめられた~! まさみさん(父の名)、助けて!」 と来るそうな。 まさみさんは、 「よっしゃ!まかしとけ!」 と、いじめっ子退治に行くそうな。 父の小学生の時の通信簿には “ケンカしてよく泣いていますね” と書かれていた。 ●kittu わたしの友人の元テキヤの親父、 どこへいっても傍若無人の親父、 毎日きっちり午後1時に銭湯に行く、 毎度の事ながらこの日はパンツを洗い、 最近出来たサウナ室に干していた。 乾いたばかりのパンツを履き 突然ぎゃ-、バンダイのおばさんに 「かあさん、火傷の薬カシテくれないかい」 この親父のパンツの丁度ナニを出すところに、 ボタンがあり、それがサウナで熱されて、 XXXに米粒大のみずぷくれが出来、 周りの人に見せて大騒ぎしていた。 ●マンゴスティン 目の上に傷があり (洗濯機を修理していた時できたもの)、 御髪にはゆるやかにパーマをあて(天然です)、 広島弁を流暢に操るダンディな父。 ちょうど「仁義なき戦い」が上映されていた頃、 出張先の、混雑する昼時の渋谷駅ハチ公口前で 「おい、ワレ、飯食いに行かんかい。 (ねえ、あなた、ご飯食べに行こうよ)」 と同僚に声をかけたら、 人ごみがさーっと分かれ 父のために道をあけてくれたそうです。 いたいけな父は広島に戻ってから 話し方教室に通い始めました。 ●ボン お見合い結婚をした母いわく、 「私の結婚が決まって嫁いだら、 実家に夜な夜な泣きに来る男性が 何人もいたって話よ」 どこから来た話だろう。 ●T.A 父とドッヂボールをしていると、 父が、 「わしは昔ドッヂの鬼だったんじゃ」 と言いました。 ちょっと前は、「ソフトの鬼」でした。 ●KEATON 私の父は、モテモテ男だったそうです。 「学生時代は、K大のジェームスディーン と騒がれたもんさ」 と自慢げに言っていましたが、 当時の写真を見せてもらうと 確かにそこには、かるいリーゼントに Tシャツ、ジーンス姿の おもいっきりJ.ディーンとカメラを意識した 男が立っていました。 私にはちょっとカジュアルな鳥羽一郎にしか 見えませんでした。 |
2001-04-23-MON
●tico 母の自慢は 「高校の時に3年生の卒業式で、 壇上に上がり“庭の千草”を独唱した」 ということ。 「難しい歌なのよー。 一人で独唱だったしい。 それに先生達に大絶賛されちゃって、 宝塚に入らないかって言われたのよお。」 何度もそう自慢されたけど、 一人で歌うから独唱だっつーの。 そしてアナタは身長が152cmなんだから、 宝塚じゃ埋まっちゃうわ。 ●まみや いつだったか実家の押し入れを 母と掃除をしていたら 父の子供の頃のアルバムがでてきました。 そのなかの中学時代の修学旅行の写真。 みんな夏服の白いワイシャツなのに ひとりだけアロハを着ている奴が。 よく顔をみたら父でした。 私が高校時代 「少しでもスカートを長くしたらぶっとばす」 とか言ってたくせにテメーは何なんだよ! ●aki 父は、死にかけ伝説を誇らしげに語ります。 一番すごいのはトラック運転手をやっていた頃、 坂からトラックごと転落したという話です。 もう駄目だと思った瞬間、神様が現れて 「おまえはまだ死ぬべきではなーい」 と言って助けてくれたというのです。 「オレは神様にも守られてる」 と言い切ります。確かに生きてるけど・・・ ●JINKO うちのお父さまは学生時代、 それはそれは優秀な学生でした。 彼いわく。 学校の先生には いつもひいきされほめまくられていました。 彼いわく。 そして英語が大得意でした。 彼いわく。 今うちの電話線のところには 「When in'net to tel」 という謎の文章があります。 telは動詞じゃないわ(もちろんtelephoneの略) 名詞のinternetは 勝手にアポストロフィーつけられてるわ。 どう訳してよいものか。 ちなみに私は翻訳家志望。 二の舞にならんことを。 ●まめこ 父は昔、免許取りたての後輩に 自分の車を運転させて走行中、 橋の上で後輩が運転を誤り 車ごと欄干を突き破り川へ落下。 運良く無傷だった後輩を 「まぁいい」と家へ帰し、 自らは流血しつつ車を乗り捨て帰宅、 そのまま寝たらしい。 翌朝、何も知らずに父を起こしに行った祖母は 血みどろで布団に臥す父を目撃し、 93歳の今でも 「あんなに驚いたことはない」 と言う。 そりゃそうだ。 っていうか、なにが「まぁいい」んだ。 ●寿 私の父は不良だったという事はありませんが、 大学柔道部のキャプテンだったので、 血気盛んな時代を送ったそうです。 ある時、パチンコ屋の前で、 男性に絡んでいるヤクザがいたので、 父が止めると、 「うるせえ!」と襲いかかってきました。 父は、軽く足払いを決めると、 ふいを食らった相手は 見事に素っ転んだそうです。 周りから、わっとあがる拍手。 「テメエ、なんかやってやがるな!」 と相手がヨロヨロと立ち上がったのを見て、 ちょっといい気になった父が、 今度は背負い投げを決めてやろうとした瞬間、 父の履いていたサンダルがすべって、 頭をカチョーン! とガードレールにぶつけてしまったそうです。 薄れゆく意識の中、父の目には、 野次馬と化した人々と、逃げるヤクザ、 そして助けたはずの男性が助けも呼ばず、 スタコラ逃げて行く姿でした。 ●ねこまくら うちの父は昔、 びんビールの王冠を 自分の歯でぐわっしぐわっし! と、いともたやすく抜いていたそうです。 父曰く、父と同世代の体育会系の人は こんな事みんな出来ていたそうです。 ほんとうですか?今50代半ばの方々。 ●くまくま 最近発した親父さまのコトバ。 『おれは昔、 “松竹の男版宝塚の前身みたいなもの”に スカウトされた』 ・・・そんなのあったのか? ●狭 父曰く。 自分が学生の頃は、 素行も成績も良く、模範生だった。 母曰く。 自分が学生の頃は、 素行も成績も悪く、番はってた。 そんな二人が数年後、 どうして一緒になったのか不思議です。 ●モモノフ 8つも年の離れた兄が 一時グレたときワタシは12歳。 そんなワタシに真剣にグチ?った 彼の言葉通り書き記します。 「おやじはよぉ、俺がゾクやってる事、 なんやかんやゆーけどよぉ、 あいつだってやってたんだぜ。 あいつの時はカミナリ族とか言ったらしいぜ。 だっせー。 でもよー、水平乗りできんだって。 これはちょっと見直したぜぇ。 すげーよなぁ」 なんですか?水平乗りって。 ●まる 学生服にコートをはおった裕次郎カットの男子が オープンカーの前で ポーズを決めている写真。。。 よく見るとそれは父でした。 ●ぷみ 母の結婚前の職業は看護婦です。 ちなみに看護学校も出ていなければ、 看護婦免許も持っていません。 「大阪では大丈夫だったの! 手術にも立ち会ってたんだから」 おそるべし、大阪の病院・・・ ●リンダ うちのオヤジというか「オヤジたち」。 私がまだ小さい頃、朝、 近所の若いお父さん数人と話をしていたところ、 突然「東京に遊びに行こう」という話になり、 勢いでそのまま東京に行ってしまった。 母ほか近所の奥さん方は 「旦那が集団で消えた」と大騒ぎ。 夜になって「いま東京にいる」 と電話が入ったそうですが、 帰ってきてしばらくは 集団無視にあったそうです。 |
2001-04-19-THU
●テラピー 船乗りで、村の青年団長を務めていた父。 もてもてでブイブイ言わせていたとは本人談。 もてもてのはずが母とは見合い結婚。 港で撮ったと思われる当時(昭和40年頃)の 写真は、石原裕次郎ばりに、スーツを着込み、 船のロープをかける鉄のかたまりに 足をかけている。 身長が155cmじゃなきゃねぇ 信じてもよかったんだけど。 ●Anne 父が東京に来て、 初めて車で田舎に帰ったときの話です。 友人二人を乗せて、 ワゴン車でいつものようにぶっとばして 帰っていたそうなのですが、 真冬の薄氷が張る高速道路で そんなスピードを出したので、 車はスリップし、ごろんところび、 さかさまになってしまい、 そしてはずみがついてまたごろん。 そう、一回転してしまったのです。 当然窓という窓が割れ、仕方がないので 窓がないまま冬のさっむーい風を全身に浴びて 家に帰りました。 その姿をみた祖父は、 窓がない車をみてふびんに思い、 新車を買ってくれたそうです。 もちろん祖父にはスリップ事件は内緒です。 ●十季子 父の自慢は 「吉田総理の国葬時、白バイで先導した」 です。 そんな父は今自転車で 町内の子供たちを学校へと先導してます。 パチンコ屋の前をとおりがかる時、 「軍艦マーチ」にあわせ行進してしまう、 そんな父が私はとてもいとおしい。 ●ふ 父と二人で地元名古屋の住吉町あたり (昔の繁華街?)を通っていた時のこと。 父が 「ここは昔お母さんの 縄張りだったところだよ」 ・・・縄張りって何? ●Naomi 結婚の決まった私に父が 「結婚を前提に付き合ったのは彼が初めてか?」 と尋ねました。 どういう意味だろうと思っていると 「父さんはなあ、3人の人と 結婚を前提に付き合ってから 結婚を決めたんだぞ。」 とのこと。 全くもてそうのない父にしては おかしいなあと思っていたら、 「3人の人とお見合いをした」 という意味だったらしい。(3人目が母) 全然自慢にならないじゃん。 ●まゆこ うちの父は田舎から 出稼ぎに東京へ来ておりました。 とある日、(世の中は成人の日) 日比谷公園へ行ったそうです。 きれいな服きたお姉さんに声をかけたら、 お姉さんは池に落ちたそうです・・・。 どんな声をかけたんだろか? ●うに 父は27歳まで吉祥寺に住んでいた。 そこで知り合った黒人のアメリカ人と 意気投合し、ナンパしまくっていたらしい。 黒人の彼は日本語が達者で、 大きな鹿のような瞳をしたナイスガイ。 2人でちょっと優しい声を掛けると、 面白いほどコロリとナンパできたそうな。 とゆーわけで、おのれの経験上、 いきなり褒める奴、 やたらと優しい奴はろくな男じゃないから 気をつけろと説教された。 ●くろまめ うちの母は昔不良園児で、 ついに幼稚園を退園させられたそうです。 強制退園のきっかけになったのは、 何か悪さをして押入れに閉じ込められたときに 「園長のくそばばあ!! 出せ、こっから出せ!」 と叫びつづけ、しまいに 「出さんかったらここでうんこするぞ!出せ!」 と言ったことらしいです。 ほんとにうんこしたかどうかまでは 聞いてません。 ●meguppe うちの親父は公務員だったが、 若いころやくざとけんかしたことがあるらしい。 武器はなんと「塔婆」。 先日、祖父の一周忌でお墓に 塔婆を持った父が現れた。 「武器を持ってどこへゆく! またやくざとけんかか?」 と聞いたら 「ふふふ。」 と不敵な笑みを浮かべていた。 ●ぽん うちの父。 今67歳ですが40歳まで 無免許でキャデラックに乗ってたそうです。 ●ばーばれら 中3の父は、先生直々に 「風紀委員」を任命されました。 風紀委員は、 タバコを吸っている生徒を取り締まり、 自ら吸ってその有害性を証明するのが 主な活動だったそうです。 先生公認のうえ、父はすでに生徒の中で 「一目置かれる立場」を築いていたので、 向かうところ敵なしだったようです。 そんな父の娘である私は 「常にトップを狙え」と育てられました。 しかし父の言うところのトップにはなれず、 失望させてしまったようです。 -------------------------------------- ●オパール いつもの店でのんでいたら、 友達のお父様がいた。 なぜか一緒にのむはめに・・ グラスを傾ける父上様。 なにげに手元をみると<中指が短い>、 っていうか爪の部分がない。 固まった私の気がつくと 「なんてことはないから。 意見を聞かずにヤンチャしたから。 ふっふ」 すごく実直そうなお父様だったから、 まさかの気持ちで、彼の娘たる友達に <見ちゃったの>と伝えた。 「ねえ、それって 見せびらかしているようだったでしょ? まだ若いころ、 <町内清掃・ドブさらい>で 張り切ってやっていたんだって。 で、最後、ふたの鉄板を乗せて 完了ってときに、 よそ見していて自分の指をはさんじゃったの。 掃除そっちのけで大騒ぎだったらしいよ。 過失よ、単なる過失」 そんなお父様、また一緒にのみましょう。 |
2001-04-17-TUE
●リエちゃん 「不良」というのとは ちょいと別物かもしれませんが。 若き日のおとんの写真を見たところ・・・。 直毛のはずのおとんは ゆるいパーマのかかったロン毛で 首にはスカーフを巻き、 薄い茶色の大門サングラスをかけ パンツはパンタロン (←ブーツカットとは言いますまい。) だった・・・。 小学生の頃、はじめてその写真を見たときの 衝撃といったら。 ●はいいろ うちのおやじは頑固な変わり者です。 「昔、みかん箱で勉強したものだ。」 私が勉強をサボっているとこう言います。 そして昔の苦労話に移るのです。 叔母に聞くと、本当にやっていたそうですが 別に貧乏なわけではなくて、 ただ単に好きでやっていたそうです。 ●しまバナナ うちの父は新潟の出身で、 当時の人間としては比較的背が高いです。 その父が飲むと出てくる話が、 高校時代に頼まれて出た バスケットボールの試合で ジャイアント馬場さんと対戦したというもの。 でも、先ごろの訃報を見てびっくり。 父と馬場さんは3歳以上年が離れていた。 親元を離れてはや幾年、 今さらって感じもなくはないので、 一応追及はしないでおいてあげますが・・・。 ●カーライル 「お父さんは昔、モテてモテて、 毎日女の子にかこまれて、 かきわけかきわけ進んでいたんだぞ」 「お母さんは昔、それはそれはモテて、 毎週のように違う人から ラブレターをもらってたのよ」 そんな二人の息子である僕が、 女の子にかこまれもしないし、 手紙もまったくもらわないのは 何故なんだろうか。 ●みかとも 父の話。 初めて就職した会社で、 軽トラで配達に行く途中で 飛び出してきた車とぶつかった。 相手はひたすら頭下げて 「警察を呼びます」 と言ったが、父は笑顔で 「気にしないで下さい」 と言って走り去ったという。 ・・・その時まだ無免許だったそうです。 ●かりのん 不良だった、ってわけではないんですが。 うちのパパは田舎から名古屋まで 電車で通っていた高校生時代、 電車の窓からトイレットペーパーを 長々と風にひらひらとさらしたりしたそうな。 のどかな光景と ひらひらするトイレットペーパー。 ・・・・・。 考えると、微笑ましいんか、 アホアホなんだか判りません。 ●しょ~み~ うちのオヤジは、UFOを 素手でつかまえたことがあるらしい・・・。 ●あくび うちの母によると、 「お母さんは、吉永小百合“風”で 三人ぐらいの男の人にプロポーズされた。 お父さんはその頃の竹脇無我“風”で モテていた」 この話は何度も聞かされてます。 “○○風”って いったいどこまで含まれるのだろうか。 ●ガッテン承知の介 父は真面目一徹の教師。 タバコは吸わない、 パチンコもギャンブルもしない、 酒は好きだが女遊びなんて想像もつかない。 若い頃はMR.オクレそっくりで、 もちろん母とはお見合い結婚。 そんな父に果たして青春時代があったのか? と常々思っていた子どもたちに、 ある日酔った父が 「教育実習生のころ、 先輩とストリップ劇場に行って ダンサーに陰毛をもらった」 と自慢げに話してくれた時、心からほっとした。 ●まり 父は20歳前後の頃、 所謂「カミナリ族」だったそうで、 バイク7台事故で完全破壊し、 かつ自分は無傷だったことを自慢します。 古いアルバムには、 仮面ライダーのショッカーみたいな格好をした 父の写真があります。 おまけに黒シャツはドクロマークならぬ ロッコツマーク入り。 レントゲン写真着てるみたいです。 ●ばっぽ、うぃー うちの父の自慢は、徴兵検査で甲種合格した事。 18歳で単身満州に渡り銀行員になり、 徴兵され戦火を潜り抜けながら、 昇進試験までこなし、 シベリアで5年も抑留されても 未だにそこら辺の若者より丈夫で、 酔うと必ず 「俺は甲種合格だったんだ!」 と語りだす。 シベリアから日本に帰るときには 現地の女の人が 「帰らないで」 と泣いたと言っていたが それはウソだろう、たぶん。 ●にんぐる 自転車をねだった小学生の私にむかって、 父は言った。 「俺達は、10kgくらいの荷物を背負って、 30キロくらい、平気で歩いたものだ」 そりゃあ、歩くでしょうよ。 あんたは自衛隊出身。 演習ともなれば、ホフク前進で山ひとつ、 平気で登りきっちゃうんだから。 |
2001-04-15-SUN
●kei@会社 うちの父は町で一番はじめにGパンをはき、 リーゼントで決めて会社で呼び出しを喰らった。 と言い張ります。 また、町で唯一のデパートを歩くと 女の子がうしろから わらわらと付いてきた。 (ハメルンの笛吹のように) と言い張ります。 若い頃の写真はそのような女の子達に取られて 手元にないのだそうです。 ●四四壱六 私の祖母は、 「ばあちゃんねぇ、 若い頃は吉永小百合に似てるって 言われてたんだよ」 とよく言っていましたが、 昔の写真を見てみると、 そこには笠置シヅ子がいた。 ●フジー 僕たち子供三人は 父ちゃんと同じ小学校に通っていました。 ある日、父ちゃんは 小学生の僕たちに言いました。 「お父ちゃんはなあ、 小学生の時は神童って言われたもんだ。 その証拠にほれ、 校舎の裏には父ちゃんの銅像があるんだぞ」 必死で探したあの頃が懐かしい。 当然、父ちゃんのどころか、 校長先生の銅像もありませんでした。 すぐばれる見栄を張るなよ。 ●チビ むかぁ~しむかしの事じゃったぁ~ お母さんは近所で 「我が町のいしだあゆみ」 と言われていたそうなぁ~。 (近所のオバサン情報) 確かにウェディングドレスのウエストは 驚くほど細い・・・ しかし、今じゃ「我が町のデビ婦人」 ●ぴろり うちの親父様、世間では 立場のあるポストについておりますが。 昔から親分肌であったようで、 言い伝えられてる武勇伝は数知れず・・・。 中でも、高校時代に、 同級生の農家の息子さんに、 新米で必ず「どぶろく」(いわゆる濁り酒)を 密造させて部室で酒盛りをしていたそな。 酒税法とか問題になるんじゃぁないの? と言ったところで時効か。 ●ニカラグアゆみ 私の父親は、高校生の頃登山をやっていました。 おばあちゃんいわく、 「捜索願いを出そうかと思った事も数知れず」 だそうな。 私のとっぴょうしもない性格も 彼からの遺伝であろうと思われるのですが、 そんな彼から聞いた、 自慢話というか怖い話です。 冬の富士山にのぼった時、 友人数人とやっと山小屋に着いて中に入ると、 火もついていない山小屋の中に 人が座っているのが、ぼ~っと見えたそうです。 声をかけても動かない。 まさかと思い近付くと、 それは凍死して、凍り付いた、 男の死体だったそうです。 父と友人達は見過ごすわけにも行かず その死体を担いで下山しました。 しかし、座ったままの凍り付いたその方を そのまま運べず二つに折って (まっぷたつ、ではないのでしょうけど) 「俺が担いで運んだんだぞぉ!」 と言っていました。 ホントかなあ、そんな事を 自慢げに話す父も父ですが。 でも、冬って富士山登れたっけ? 疑惑の目で見つめる親不孝娘なのでした。 ●T.A 父の右腕には、 なにやら濃くなっているところがあります。 「小学生のころ宝さがしごっこで 地図を書いたんじゃが 肌に染みといてしもうた。はっはっは」 父はそう言いました。 ここだから言います。 そんなことあるわけないだろ度阿呆。 ●たけ 自分の乗るバスだけが 男子学生で混雑するという伝説は 各地の娘さんがお母さまより 聞いてらっしゃるかもしれませんが、 うちの母もそのクチです。 昔は、美智子妃殿下(当時)の仮装を 担当するほど美しかったそうです。 (証拠写真があった。 顔はよく写っていませんでした) で、そんな彼女は卒業に際し、 ある男子から言われたそうです。 「フジツカさんは、日陰の花だった。」 高嶺の花じゃなくて 「日陰」なところが妙にリアルなんですが、 それってほめ言葉?? |
2001-04-13-FRI
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