まるでハガキのように。
お題付き短文投稿ページ<1.27>

●H.KOBA

大学の英語の教授です。
大きな講堂での授業なので
マイクを使っていたのですが、
ある日、授業が始まって10分くらいした頃、
その教授の顔が
少し苦痛に耐えてるように思えました。
それからさらに2〜3分後突然授業を中断して

すまん、ちょっと腹具合がおかしいので
 トイレに行ってくる


と言い出して即トイレに直行されました。
但し相当あせっていたのか
マイクの電源をOFFにし忘れて
教室に残された我々生徒は
その先生のトイレの奮闘振りを
音声のみで拝聴させられる羽目になり、
15分くらいしてその先生が教室に入ったとたんに
大爆笑となりましたが
その先生は、何にも臆せず
授業を再開したのでした。
苦闘の模様を聞かれた方も悲惨ですが、
トイレの一部始終を
音響のみで聞かされた方もなかなか悲惨でした。


●猫旗日和見Z隊長

私が高校入学と同時に、
勤務が決まっていた学校を
突然辞めた先生がいました。

なんでも、先生の恋人だったフィリピンの女性が
実はビザの無いまま不法労働していたそうで
それが見つかって国へ強制送還。
先生は彼女を愛していたので、
すぐさま現地まで飛び
2〜3ヶ月後に彼女をやっと見つけたそうです。

その時はもう入学式も終わってかなり経った頃で
無断欠勤になっていた。
途中で電話を入れ校長先生に

一生の問題なんだ!

とタンカを切ったそう。
彼女を見つけた先生は、
一度日本へ戻って来て
学校に事情を話して先生を辞め、
現地で彼女と結婚したそうです。
これは、私が卒業するあたりに、
仲良しの学校の先生が
秘密で教えてくれた話。
確かに不審な辞め方をした先生の話が
当時は話題になってました。
そんな熱いロマンスだったとは・・・。


●なむなむ

真顔でジョークをいう数学の先生。
水不足に悩まされたあの夏。
休みを返上して補習に出ると、
先生が、真顔で、

「まだ秘密ですけど、
 今度わが校にもクーラーが入るみたいです。

との仰天発言!!
僕たちは、下敷きを団扇にしながら
大喜びしたんですけど。
しかし、その後、一向にクーラーは設置されず。
僕たちの中では、単なる「嘘つき教師」扱い。

あれから10年目の夏。
あの時、先生が
ポツリと最後につぶやいた一言を思い出しました。

半年後ですけどね・・・。

え!?
もしかしたら、半年後に冬が来る・・・
っていう意味だったのか・・・!?
先生のジョークを理解するのに、
10年かかりました。
・・・先生、お元気ですか?


●エム

大学の授業ガイダンスの時のこと。
トップバッターは仏文の名物教授でした。
そのガイダンスでの先生の台詞。

「まぁ現在は不確定の時代なんて言われますけど、
 実際私なんかも、
 この年になっても何がやりたいのか
 さっぱりわからない。
 まぁ私はあと本を2、3冊出したら
 死んじゃうつもりですからいいんですけど

 皆さんはどうぞ何かを見つけてください」

どんな授業なのかさっぱりわからないから
ガイダンスに来ているのに、
いきなり何がやりたいのかさっぱりわからない
と言われても・・・・
しかも死んじゃうって・・・。


●篠子

思い出に残る先生は、通称「ムー」
不思議雑誌のことではありませぬ。
宗(ムネ)なんとかっつう名前だったので「ムー」。
笑った顔なんか誰も見たことのない、
無表情な古典の先生で、
生徒が聞いていようがいまいがおかまいなしに、
淡々と授業してたっけ。

で、その「ムー」は野球が大好きで、
シーズンになると授業中だというのに、
ひとりだけイヤホーンで
野球を聞いていいことになっていた。
後ろの黒板にスコアー表があって、点が入ると、
ラジオを聞いていい係の奴が
すくっと立って後の黒板にスコアーを記入する。

(もちろん授業中!)
「ムー」が突然話すのを止め、ふっと黒板を見る。
で、私達も後ろを振り返る。
その沈黙の2〜3秒後、
また何事も無かったように授業が続く。

そんなことが、何の批判もなく
当たり前のように行われていました。
今になって思うと、すごく変。
当時は変だとも思っていなかったことが不思議。
今どうしてんのかな、「ムー」。


●MORO

もう、30年近く昔の話です。
高卒後就職して2年目だったか。
大学の二部にでも行こうかと思い立ち、
高校の担任だったN先生に手紙を書いたら、
返事が来て

風邪を引いたときに、
 見舞いに来てくれたくらいのことで、
 結婚したりするんだから、
 惚れた腫れたをやっているよりも、
 今、大学の二部にいくことはいいことです


みたいなことが書かれていました。
1、2度お見かけした先生の奥さん、
風邪のとき見舞いに行ったのかしら・・・
と思いました。

その後大学に入って、先生の忠告?も聞かず、
惚れた腫れたで、在学中に結婚して、
2、3年で離婚してしまった私。
せっかくのN先生のお言葉が
骨身にしみました。


●カー

中学時代の体育のT先生。
文化祭、クラブの出し物で
我が映画鑑賞クラブは、
ディズニー映画「美女と野獣」を流すことに決定。
でも映画に興味のない顧問のT先生は、
アニメを流すことに大反対。
「もうキミらも大人なんだから
 アニメはないだろう。」
そんな風に前日までブツクサ言ってました。
でも当日、いざ上映してみると、後ろのほうから、

うぅ・・うぅ・・

とうめき声が。
何かと思ってふりむいたら、
T先生がやばいくらいに大号泣。
みんなあっけにとられてました。

映画が終盤に入り、
スタッフロールに入ったので、
ビデオを停止しようとしたら

もうちょっと・・最後まで待って。

と名残おしそうに言ってました。
そんなT先生が、みんな大好きでした。


●青猫

魑魅魍魎(チミモウリョウ)倶楽部

高校の時の生物の先生が
月イチで刊行していた学級新聞のタイトル。
担任であるクラスのみに配られるソレには
毎月の学校行事などと共に、
世界各国の魑魅魍魎のイラストが
書かれていました。
惜しいことに私は隣のクラス。
そのクラスの友達から見せられるたびに
「きもいね〜」
なんていっていたけど、
ちょっぴりうらやましかった。


●がみ。

中3の時の担任のH先生。
卒業時にいただいたサイン帳に、

あなたとは、
 ひとりの人間として語り合えそうな気がします。
 教師と生徒としてではなく。
 15年後に酒を酌み交わしましょう


というメッセージをくださいました。
そして15年目の今年の正月。
別の先生から、
「中3の担任だったH先生は、
 昨年3月に教師を辞めました。
 今は居酒屋をやっているはずです。
 今、教師もなかなか大変です」
という年賀状が来ました。
当のH先生は、
一昨年から音信不通になってしまいました。
H先生の居酒屋で、酒を酌み交わしたいなぁ。
「なかなか大変」談義、したいなぁ。


●おだんご

20年以上も前に卒業した
小学校の卒業アルバムの話。

隣のクラスのおばさん先生の顔が、
なんかすごいヘンだなーとよく見てみると、
なんと、つぶってしまっているまぶたの上に
へんな目が描かれていた。
極細のマジックで


写真屋のおっさん、それはないんじゃ・・・。


●ハルタ

高校のときの歴史の先生。
飄々とした、背の高い方でした。
授業の時には、
彼はいつも資料写真のパネルを小脇に抱えて
教室に現れます。

世界の四大文明、エジプトの授業のときでした。
おもむろにピラミッドの写真パネルを
両手にしっかと持つと、
生徒たちを扇ぎ出したのです。
そんなに暑い日でもないのに。
頭上にハテナマークが浮かんでいる我々に向かって
彼は一言。

どうだ! “エジプトの風”だ!

“黄河の風”“インダスの風”。
パネルの数だけ先生は風を送ってくれました。

2001-12-18-TUE

●さる

高校の時の体育教官。

冬になると
何かと理由をつけてはサボっていたが
初夏、衣替えして女生徒がブルマになると
初日から熱血指導

わかりやすかった。


●こじゃこ

中学の時に、

自分は忍者の子孫だ

と言い張って聞かない先生がいました。
しかも、そのくせなぜか英語教師。
確かに普段の動きからして忍者っぽく、
廊下を足音を立てずに
すごいスピードで移動したり、
授業中に騒がしい生徒に対して
見たことのない関節技をかけたりしてました。

その中で、特に記憶に残っていることがあります。
前の週の授業の時に
「来週は試験をする」と宣言し、
翌週、皆緊張して
その先生が来るのを待っていると、
先生は手ぶらでやってきました。
皆、試験は無いと思い喜んでいると、
おもむろに教壇の引き出しの中から
テスト用紙を取り出し、一言。

「昨日の夜、忍び込んで、置いておきました」

・・・・・・。
何でそこまですんねん!


●Trunk child

私の高校の校長先生の自己紹介の決まり文句。

「校長の朝川です。
 英語で言うとmorning riverです。」

朝は必ず校門付近に立ち、
登校してくる生徒達に
あいさつをするのが日課でした。
転勤のため学校を去る日、
講堂中に響き渡る
morning riverコール”とともに
拍手喝采をうけて、
颯爽と去って行かれました。


●さーちん

去年卒業した高校での話ですが、
ある新学期の朝、
突然チャイムの音が一般的なものから、
電子音的なものに変わったんです。
で、びっくりしていたら、
直後におじさんの化学の先生の放送が入って

ミレニアム記念でチャイムを変えました

的なことを、いたって真面目に言ってました。
そんなこと記念にしなくても。


●よ

中学の社会科の先生、
あだなは「ベートーベン」。

ゆるやかなうねりがある彼の髪は、
いつも頭本体とともに右へ流れ、傾いている
彼は、登校時、
どこからともなくマウンテンバイクでやってくる。
体にしっかりフィットしたジャージ姿で。
頭はやはり傾いたままで


●ボーメイ

小6の時の担任は若い熱血教師だった。
熱心さのあまり怒った時は
チョークや椅子までも私たちに投げることも。
ある時は、
「全員廊下に出ろ!」
と言って、
その後、一人教室で椅子、机を投げまくって
廃墟のような教室になったこともある。


でも私たちは皆慕っていた。
子供は本当に愛があるかどうか
直感でわかるから。
ただ、翌年も同じことをやっていたらしく、
とうとうケガ人が出て、隣の県に飛ばされた。
行く末が心配で心配で、
25年後のおととし所在を尋ねたら、
校長先生になっていた・・・。
F県教委の懐の深さに感動した。


●うーママ

思い出の先生は高校のときの体育のN先生です。
冬季の体育はスキーなので、
貸切バスに乗ってスキー場へいくのですが、
バスに乗り込む前にN先生はメガホンで

「いいか?
 スキーにバスを立てかけるな。
 わかるな?
 スキーにバスを・た・て・か・け・る・な!!
 こらそこ!!

と絶叫。
2回に1回は言い間違えてました。
他にもよく

「次回からは短そで、半パンだぞ!」

と言ってました。
おにぎりマンによく似た
柔道部の顧問の先生でした。
ちなみにうちの学校では
体育の先生は「体先」と呼ばれていました。


●asa

高校数学教師のS先生。
彼の優柔不断ぶりは伝説になっています。
授業で公式を説明する時の口調は、こうでした。

「ここで二乗したくなる。」
「こうきたら、
 因数分解してみようかなとおもう・・・」

とぜったいに語尾を断定型にしないのです!
ただでさえ数学が苦手な私は、
あの口調に惑わされたものです。


●のほ

大学の講義って、1マス一時間半ですよね。
2マス続けて同じ講義だと
間に10分の休みがはいって3時間です。

時々通院のために休講になる
おじいちゃん先生がいるのですが、
その日の3時間は彼の担当でした。
講義が始まって、30分。
「そろそろ、終わりにします」
さすがに学生が
「今日3時間やるんじゃないんですか」
と問いかけたところ、

「ええ、そうなんですが、
 これ以上は続けられません。
 ですから、もし誰かに
 この講義について尋ねられた場合は
 
 『彼は彼なりにがんばった
 
 とお伝えください」

とおっしゃいました。
お体は大切になさってください。
くれぐれも。


●ぼぶっこ

中学3年の4月のこと。
隣の隣のクラスに新しい担任が来るという。
誰もがわくわくして待っていた。
ところが始業式、彼は欠勤。
2日後、初めて生徒の前に顔を見せた彼は、
おでこから糸を出していた。
ぴろ〜ん、と。
そして、満面の笑顔で、
「理科の○○です!」
笑ってる場合か、あんた。
始業式の前日、学校の階段から転げ落ち、
おでこを縫ったとのこと。
定年を3年後に控えた彼は、
さながらフランケンであった。
理科の授業中、彼の間違いに気付いてしまい、
「せんせ〜、それ、違うっちゃないですか??」
と、生意気にも
50代の先生にいちゃもんを付けた。
彼は、私の卒業の日、手を握って、

あ〜たに正してもろぉといて良かった〜!
 あのことは忘れませんけんね!


と言ってくれた。
26歳になった今、とっても素直に
私なんかにお礼を言ってくれた先生って、
すごいな、って思ってます。
定年して、なんしよるかいな・・・
っていうか、生きとるんかいな・・・

2001-12-16-SUN

●シラタマ

中学校の野球部の練習中、
熱血漢で有名な監督の感極まった一言。

「そんなに練習がいやならやめちまえーっ!
 このばホ!!」

僕はそれ以来、最上級のけなし言葉に
この「ばホ」を使わせて頂いています。


●yaya

中学の時の担任の先生。
担当は現代国語でした。
32歳にしてやっと彼女ができて結婚することに。
で、結婚式及び新婚旅行のために
休みを取るので「スマン」と言いつつ、
与謝野晶子の短歌を黒板に書いて
「お前ら、この歌の意味が分かるか〜」
と振り返りながら、にた〜〜とした。
その歌とは、

柔肌のあつき血潮にふれもみで
   さみしからずや道を説く君


というものでした。
ハイ、分かりました。


●みっちー姉

中学の時の西山先生。
転任して来られて初めての授業が
私たちのクラスでした。
開口一番、

「僕は教師としては本当は失格なのだ。
 致命的なのは血液型がAB型であることだ。
 万一の時、O型であれば
 誰にでも自分の血をあげられるのに
 AB型の人にしかあげられない、
 教師はAB型ではいけないのだ!!

びっくりしました。
めっちゃ熱い先生でO型の私には、
「先生になるか? いいぞ!」
とよく語ってくれました。


●なんだろうくん

母も教わったというおばあちゃん数学教師、
通称「小島の磯子ちゃん」にとって
世の中はすべて数学でした。

「まあ、なんて美しい黄金律の窓でしょう!」
「はい、そこの円柱を捨ててきて」
(掃除中の生徒にごみ箱を指さして)
座標軸が乱れましたね」
(階段で足がもつれた同僚の先生に)

など磯子ちゃん語録は数知れません。
お姉さん(つまりおばあちゃん)も
同じ数学の先生でしたが、
こちらは普通で、
もちろん磯子ちゃんが断然人気者でした。
.
●にゃるこ

わたしが行っていた国立の学校(工業系)は、
男女一緒に体育の授業を受けていました。
もちろん、陸上、サッカー、野球、剣道、柔道も。
柔道教師のM先生。
男子と女子が組む場合は、「寝技禁止」でしたね。
技をかけた後に転ぶと、すかさず

そこ、寝るなー。寝るなよー。
 寝ちゃいかんぞー


と声がかかりました。
先生のおかげで返って意識しちゃって
すごく恥ずかしかったです。


●にゃるこ

小学校の担任だった、H先生。
先生が教室で着替えるの、
みんな嫌がってましたよ。
そんな私も、
いまやお姉さんとおばさんの境目世代。
一皮むけば、先生と同じような、
「ババシャツ、タイツ」です。


やまさん

中学の部活の顧問のS先生。
190cm120キロの巨漢で口癖は

つぶすぞ

でした。
まさかほんとにやったことはないでしょうが、
口答えする生徒に向かって
飛びながら近づいていました。
お元気ですか、先生。


●miho

高校の時の日本史の先生。
50代後半と思われる女性でしたが
生徒の噂では

「戦争花嫁で将校と契りを結ばないまま
 相手が戦死して未亡人に」
とか
「双子の妹がいて
 たまにそっちが授業をしている」

とか散々な言われよう。
授業中に私語をしていると
たわけ!!
と怒鳴られ、遅刻をすると
無礼者!そこに直れ!!
と怒鳴られ、常に戦国時代の雰囲気を
醸し出してくれていました。


●ウーロンハイ

小学校4年の時の担任、正悦さん。
初めてのボーナスが、とっても嬉しかったのか、
黒板にセロテープで1枚づつ貼り付け
クラスの生徒全員に見せびらかしていました。

当時そんな大金見たことがなかったので
大人って「すごい」と思って眺めてました。


●A92M055

高校の数学の先生。
たまに、授業の最後に言うセリフがありました。

ある晴れた日の午後に会おう、おわり!

なんとも味があるせりふで、僕は好きです。

2001-12-13-THU

●nana

中学3年の時の担任の南先生。
ある日、名前の由来というテーマがあり、
クラスでそれぞれが語っていた。
南先生には2人子供がおり、
それぞれ「リチャード」「ダイアナ」といって
それが自慢らしく
「すごくかわいくて、名前は女房ともめたんだよ。
 それで結局こうなってね〜」
とニヤニヤしながら語り、
みんなの頭の中で、
『“南リチャード”・“南ダイアナ”ね・・・』
と不思議マークが浮かんでいた。
ちなみに奥様も日本人の、生粋の日本人夫婦。

「それが字がまたカッコ良くってさ!」

え!? 字ってどういうこと???

「息子は理科の理にお茶の茶、それに土、で
 “理茶土”

じゃあ女の子は? ま、まさか・・・

「娘は、大きい穴で“大穴”!」

一同
「・・・・・・・」。

大穴ちゃん、強く生きてくれ!


●A92M055

高校時代の校長先生。
恒例のマラソン大会は真冬の2月にありまして、
スタートの直前、
校長自ら訓辞を言ってくれました。
そのなかで、必ず出たあのセリフ。

「みなしゃ〜〜ん、
 手が冷たくてしょうがない時は、
 自分のき○たまを握りなさい
 あったかいから
 
男子校なので全員が、時々握ってました。


●ひろ

高校の時の校長先生は、
話が短い事で人気がありました。
避難訓練の際、集まりの遅かった生徒に対して

みなさんは、今頃バーベキューになってます」

と一言。
翌年は割と早く避難が終了したので

Goodです

と一言。
学期末、学年末の話は必ず

「節ありて竹強し
 (節のある竹はしなやかで強い)」
 
と言って人生の節目を大切にしないさいと説き、
卒業して10年経った今でも
友達との会話にもでてくるくらい
印象に残っています。


●たくらまかん

中学の地理の持田先生。

「赤道は、地球の真ん中を横断してる
 1mの赤い帯でぇ〜」

と必ず「赤」のチョークで
“タテ”にきっちり50cmビ〜ッと伸ばして
書いていた。

毎回黒板に爪を立てた時のようなすごい音だった。

15年後ケニアに行ったとき、
思わず1mの赤い帯を探しちゃいました。
だいたい先生、
赤道って“横”に伸びてるんじゃないでしょうか。


●ぷにすけ

高1の時の数学の青柳先生は、
とっても熱い先生で、口癖は

俺の目を見ろ!

でした。
先生が例題を解いて説明している時、
みんながノートを取るのに必死になっていると、

「いーから! 今は説明を聞け! 
 俺の目を見ろ!」

思わずみんなシャーペンを置いたものでした。
しかし、回を重ねるごとに
「俺の目効果」が薄くなってくると

「いーから!
 あとでノートをとる時間をやるから!」

と言って集中させましたが、
説明が終わり満足した先生は黒板を消しながら
「エー次の問題は・・・」。

何度となくだまされました。


●ともきち

きたない話ですみません。
小学校4年の時の担任ヨッコちゃんは、
30歳ぐらいの美人にして
なかなかキップの良い独身女性でした。
その時私は風邪気味だったのか、
しつこい鼻水を舐めたところを同級生に目撃され、
思いっきり「えんがちょ」されて
恥ずかしさのあまり固まってしまいました。
騒ぎにやってきたヨッコちゃんは一言、

鼻水なんて、先生だってしょっちゅう舐めてる。

みんな一気に気が抜けて私の事件もそれっきり。
どんな時でも腰の据わったカッコよさで、
クラスの人望を集めてたヨッコちゃんでした。


●もこ

とても音楽教師とは思えない
グロテスクな巨漢のS先生。
彼の口癖は、

俺はワルだった。

一体どんなワルだったのか聞いても
なかなか教えてくれなかったが、
ある時、とうとう重い口を開いた。

「学生の頃、酔っぱらって
 道端に寝てるとこを警察に連れて行かれた」

というのが彼の人生の最大の悪事らしい。
・・・・。


●おーちゃん

中学校3年生の時の担任の先生は、
当時34歳で独身の女の先生でした。
ある日のホームルームの時間、
誰も何も聞いてないのに、いきなり

「先生は結婚できないのじゃなくて、
 結婚しないだけなの!
 
第一、結婚だけが女の幸せじゃない!!
 私には麻呂(愛犬)がいるだけでいいっ!」

と言い放ちました。

それなのに、私が大学に入る頃、
風の便りで先生が結婚されたと聞きました。
しかも外国の方と。
その後すぐ長男も生まれました。

先生、やっぱり女の人の幸せは結婚ですか?


ゆうき

中学の、体育の先生(女性)。
先生の自己紹介は、

「わたしは先生になった時から生徒に
 “やまんば”と呼ばれています。よろしく。」

で、誰が見てもそっくりなので、
そのまま「やまんば」と呼び、
本名は覚えていない。
特徴は、

「みぎひだり向け〜、右(左)!」

という号令。
生徒達は「みぎひだり向け〜・・・」の間は
どっちを向いていいの
かわからなかった。


●ひろふみ

「体教」という呼び方は
僕らの高校だけだったのでしょうか?
体育教師の略です。
全貌は把握していませんでしたが、
体育館の一角にある体育教官室に
4、5人生息していました。
竹刀の上に腕を組んで機動隊みたいに立ち、
なんか訳もなく二ヤッと笑っている姿が
今でも目に浮かびます。

柔道の五輪強化選手だったらしく、
一年生を絞め技で次々に
「おとす」ことを生き甲斐のようにしていた
「もっさん」。
体育の授業の後は
みんな眼球に血豆をこさえていましたっけ。
「おちる」ときの眉間に
お湯を垂らされるようなあの感覚。
今も忘れません。

授業中、教室から
丘の向こうの火事を発見した僕らが
窓際に殺到したとき、
そこにはすでに煙に向かって
全速力で自転車をこいで行く
「ガッツ」先生の雄姿がありました。
麦畑の中の細い道をジャージを着たあなたが

火事だぁぁぁぁぁ

と叫びながら遠ざかっていく姿。
新鮮でした。
僕らの声援に振り返ったあなたは
本当にいい顔していましたよ。



●角刈りバイソン

僕の担任の先生だった国語の先生は、
朝の会の「先生のお話」で、

「先生はヤクザに、
 5万円もカツアゲされたことがあるんだ。
 みんなもヤクザには気をつけろよ!

としゃべってくれました。

当時、小学校2年生の僕たちには衝撃的でした。

2001-12-10-MON

●にゃるこ

学校を卒業するとき、
「公務員になろうと思います。楽そうだしぃー」
などと抜かす私に

「楽な仕事なんてないんだよ。
 一生懸命やるか、
 どうでもいいと思ってやるかの違いだよ」

と教えてくれた先生。
その言葉に私は感動しました。
現在は、一生懸命働いているのに
リストラされそう。
先生、楽な仕事なんてないようです。


●陽

高校時代の現国の先生。
2人くらいあてて、
「次の人が答えられなかったら
 教えてあげませんからー」
と言って、ほんとに大事なことを教えてくれない。
テストには

「○○○について吉原大先生(自分のこと!)は、
 なんとおっしゃったか」

という、本筋とは関係ない先生の発言を
答えさせる問題を出していました。
授業に出てなかった人には
絶対わからない問題でした。
ちょっと変わってましたが、
夏休みにはクラス全員に
ガリ版刷りでおたよりを送ってくれる、
味のある先生でした。


●ぶんちゃか

高校の化学の先生は相当なおじいちゃん先生で
その年は定年だったので授業そっちのけで
「初恋の人」の話をしまくっていた。
色白の髪はお下げの子だったそうな。
先生にとって、私たちにとって最後の授業の日、
先生が教室の戸をあけると
私たち生徒はみんな「おさげ髪」だった。
髪の短い子はカチューシャに
毛糸のおさげを自前で作っていた。

先生は笑って「ありがとう」と言って、
涙ぐんでいた。

でもよく考えたら、
かなり怖い光景のような気も・・・・


●オフサイド

高校時代のサッカー部顧問で国語教師のS山先生。
サッカーはまったくのド素人で、
しかも無類の長嶋茂雄ファンでした。
サッカー部の合宿のミーティングでも、
長嶋の現役時代のエピソードを
国語教師ならではのドラマチックな語り口で話し、
我々を魅了してくれました。
先輩達が卒業する時に、
『90番』の背番号の入った
サッカーのユニフォームを贈られ、
大喜びしていました。
その情熱をもう少しだけ
サッカーに向けてくれれば・・・。


●まりも

高校の時の古文の先生は、
年配の厳しそうな年配の上野先生と言いました。
生徒に漢文や古文を読ませて、
間違えた時は必ず起立させて

「『自分に敬語を使っていいのは、
 天皇陛下と上野先生だけです』、
 はい繰り返して!」

と言って生徒に復唱させていました。


●ついつい

高校の担任、K先生の話。
当時、16歳の私たちに

「このあと16年後には
 誰が見ても32歳の大人になってるが、
 気持ちは今とそうかわらない」

という話をしてくれたとき、
「そうかなぁ、そんなことないだろう」
と思ってましたが、
今は先生の言ってたことが
身にしみて感じられます。


●まるあ

高校のときのある女性の先生は、
修学旅行の夕食のとき、
別の先生から、ごはんが炊き上がったとき、

「あっ、ご飯炊けたみたいだから、
 しゃもじ入れてきて!」

と頼まれて、炊飯器の中に、
しゃもじを入れて戻ってきた・・・。

フツーさあ、そういうのって、
ご飯ほぐすってコトでしょう。


●栃木の青ちゃん

小学校1、2年の時に担任の先生だった中村先生は
給食でご飯が残ると
放課後必ずおにぎりを握ってくれました。
今でも、その味が忘れられません。
当時、共稼ぎでかぎっこだった私は、
学校から帰ってきても誰もいなくて
お腹をすかしてたので、夕食まで待っていました。
ですから、この“中村おにぎり”は
私にとっては空腹も満たしてくれましたが、
それと同時に精神的にも満たされるものでした。
中村先生どうしているかなぁ・・・。


●をみ

全校集会のお話って退屈で長いじゃないですか。
当時、中学生だった私でさえ
「もっと要点だけを簡潔に話せよ!!(怒)」
とか思ったものです。

で、ある日の全校集会。
2年に進級した初日。
生徒指導の教師が壇上にあがった時、
先生の言葉は短く一節。

「俺は口下手だし、
 長くしゃべるのは性に合わない。
 ただ、お前らはこの一年間
 『やるべきことをやるべきときにやってくれ』」

「以上」と締めくくられたこの台詞に
正直、私は度胆をぬかれました。
以後、この一言は
私の心に残る『伝説の名言』です。

2001-12-03-MON

●ごんべえ

高校の卒業式の日、
「みんなが卒業して、
 せっかく出来た家族がいなくなって
 一人になってしまう」
と泣いた一人暮らしの担任。
つられてみんな
「先生かわいそう」と泣いてしまいました。

次の年もおんなじこと言ったらしい。


●ユキコ

高校の数学の先生マルちゃんは、
ちっちゃくて、おハゲで丸顔の50代。
カッカッカッと笑い、なぜか時々蝶ネクタイ。
問題を順番にあてていき、
解らない者達をその場で立たせる。
そしてその生徒たちに言う。
「回れ右!」「前へ進め!」
後ろの黒板の真ん前まで来たところで、一言。

「悟りをひらけ」


●ごんざえもん

中学の卒業式にて
校長先生は、壇上にあがると卒業生へ向かって
こう言った。

「人生は、ばくちです!」

会場の一部先生方にざわめきが広がった後、
3年の学年主任が壇上にあがり

「人生は、ばくちなんかではありません」

と、校長の言葉をすぐさま否定。
さらに会場がざわめいた。

40歳となった現在、

「校長先生が正しかった」

と実感する私。


●鈴

小学6年生の時の担任の先生は、
頭が薄いことを気にするあまり、
みんなの卒業アルバム1冊ずつ、わざわざ

“自分の頭髪をマジックで書き足す”

という荒業を披露してくれた・・・・。


●欠席王

高校の時のエイゴの先生。
最初の授業で開口一番に

「ハ〜イ ワタシのことは〜
 “テキサス”と呼んでくださ〜い」

・・テキサスて。


●とみくん

俺の住んでいる所は、超が付くほど田舎で
中学のころの担任が少し変わっていて
テストの点数が足らないと、
合格点との差に応じて
大根だったり人参だったり
その家にある野菜などを持って来させ、
畑の無い家はたらっぺ(たらの芽?)や山栗、
わらびなどを採ってこさせていた。


●KAKKO

中学校のとき、
校長先生の名前は知らずとも、
学校全員が知っている名前があった。
その名も『関先生』。

授業中でも、休み時間でも、
「ピンポパンポ〜ン」
とチャイムが鳴れば、

「しぇきしぇんしぇーい、お電話です」

のアナウンスが・・・・
お宅で何が起こっているのやら、
しょっちゅう電話がかかってきてました。


●びんびーの

中学3年の時のT先生(数学担当)は
授業中に生徒がうるさいと
何の前触れもなく、いきなり「吠える」。
「うぉー!」でもなく
「だぁー!」でもなく、
また一喝するという威厳のあるものでもなく、
ただ一度「吠える」。
びっくりして筆箱を床に落とす奴やら
寝ていた奴まで飛び起きるほど。
もちろん向こう三軒両隣のクラスにも
その「遠吠え」が聞こえるほど。
私たちもちゃんと授業を聞くので、
心臓に悪いから吠えるのはやめてほしいと
クラスで嘆願書を書いた。


●ホーリー

高3の時、担任だった「すみおちゃん」。
生徒が大学受験でピリピリしているのに、

「今日はドラゴンボールの日だ」

と言って帰ろうとしましたね。
いい加減な先生でしたが、
みんなから好かれていて、
「すみおちゃん」と呼ばれていました。


●瓜

中学校の理科の先生。
授業時間もヤマメの話で半分使っちゃうくらい
渓流釣りが好きな眉毛のぶっとい先生で、
口癖は、

「定年退職したらヤマメ仙人になる!」

でした。
「ヤマメ仙人って、いったい何をするんですか?」
と訊くと、
「勿論、毎日ヤマメを釣って暮らすんだよ、
 フフフっ」
とそれはそれは嬉しそうにほくそえんでいました。
鮎とかじゃダメなところに、
男の美学というものを見た気がしました。


●コジラ

「うざわ」という先生がいました。
「うざわ」先生は、教室に入ってくると
まず、窓を閉めます。
暑かろうが寒かろうがおかまいなし。

ある時、「うざわ」先生が
お子さんを連れてきていました。
まだ小さなお子さんは、
何げなくこう言いました。

「パパはね〜、お風呂に入る時は
 お帽子取るんだよ〜。」

「・・・。」

そんな彼のニックネームは、
「ウヅラ」でした。


●ぷー

小学校の何年生の時だったかは忘れてしまったが、
先生の教えとして忘れられないのが・・・

「ぶー」は音あり匂いなし
「すー」は音なし匂いあり
「ぴー」は実のでる恐れあり

である。
私は先生って何でも知ってるんだと、
妙に感心し忘れられず
未だにこの言葉を反復してしまう・・。

2001-11-30-FRI

●orit

高校の時の国語の先生兼ワンゲル部部長の
モトオ先生。
ある日、渡り廊下からロープを垂らして、
岩肌を登る練習をしていた。
校長も危ないから止めろと注意すりゃーいいのに、
「みんながマネしだしたら収集つかないし、
 第一壁が汚れるんで・・・・」
と、気弱に諭していた。


●がんこ

高校の選択授業で書道を取りました。
講師で週1回しか来ない先生でした。
「一」を何度も何度も書かされました。
「一」が合格すると次は「上」、
次は「下」・・・。
どんどん先に進んでいく友達の中で
私はいつまでも「一」が合格しなくて
ずっと書き続けました。
それでも通知票には
10段階の10をつけてもらいました。
たぶん私だけだったように思います。
私も「一」をずっと書き続けるのは
嫌じゃなかった。
というよりとても楽しかった。
バレンタインデーにチョコレートをあげたら
ホワイトデーに自筆の短冊をくれました。

「人の短を説くなかれ己の長を説くなかれ」

と漢文で書かれていました。
今でも実家の柱に飾ってあります。


●じん

中学のとき、
「チャンネル」というあだなの社会の先生がいました。
授業中ふざけてたりすると、
女子には、二の腕のあたりをきゅっとつねり、
男子には、大事なところをぐわしっとつかむと、
昔のテレビのチャンネルのごとく、
くるくるっと左右にねじるのでした。


●まさみ

高校の時の地学の先生は
自他ともに認める筋金入りの変わり者でした。

先生は体を鍛えるのが大好きで、
窓の桟をつかみ、
よく懸垂のようなことをしていたのですが、
一度、2階の窓から落ちたそうです。
ところがその先生は傷ひとつなく
受身をしてたすかったとの事。

また、その先生のテストも変わっていて、
問題は難しかったんですが、
最後に白紙の欄にギャクをいって
先生を笑わせたら点数がUP。
生徒によっては
100点をオーバーする人もいました。


●KTR

中学校の時の校長先生。
ある日のお昼ごろ、校内放送で
「K先生、K先生」
と呼び出しをはじめました。
バレー部の部活を見ていた
K先生が急いで職員室方面へ足をむけると、
校長先生はひとこと、
「のびますよ」
と言って放送を切りました。

・・・ラーメンか。

一瞬の空白の後、
体育館は爆笑の渦にまきこまれました。


●のりーにょ

高校の時の担任は化学の先生。
でっかい顔に似合わない白衣を着て、
女子30人男子8人のクラスの担任。
その先生が高校3年の夏休み直前の授業で
こんな教授を。

「みんな、これからみんなが
 ぜったいに覚えられる元素記号表の覚え方を
 伝授するからよーく聞いとけ!
 夏休みも近いし、
 これからが踏ん張りどころや。
 ええか?」
「はーい」

「よし、いくど。
 まずはヘリウムから始まる、こうや。
 ヘンナネエチャン
 アサカラセックスノレンシュウ・・・・」

それから女子は
そのセンセイを変態扱いするようになりました。
もうちょっとマシな覚え方なかったのかなあ?


●geruman

高校の時の英語のJ先生は
物理のY先生と仲が悪かった。
なぜなら会議に少しばかり遅れたJ先生に対し、
いつも
「J君、2分17秒の遅刻だね」
と指摘するからだそう。
J先生は授業中、私たちにそんなグチをこぼし、
ついには
「昨日、Y先生の家に
 宅配ピザを送りつけてやったよ。あははは」
数日後には
「昨日は寿司の出前を届けさせたよ。あははは」
と、かわいい復讐を続けていました。
Y先生は別クラスで
「昨日は
 頼んでもいないピザが送られてきてね・・・」
と話していたそうだ。


●みゆ

今日のダーリンで
「湯水のごとく浪費する・・・」
って言ってたのを読んで思い出した
中学校の校長先生。

いつも朝礼でいいお話をしてくれる先生で、
水不足の年には
「“湯水のごとく”っていうのは、
 水が貴重な土地の人にとっては
 “とってもとっても大切に”
 という意味になります・・・」
と言って小さな子供が頭に甕をかついで
遠くまで水を汲みに行くような国のお話を
されました。
それから私たちはすすんで節水したもんです。

校長先生は、林間学校のとき、
食事の片付けをする私に、
「○○さん、いい手つきだね。
 おうちでもよくやっているんでしょう」
と声をかけてくださいました。
誉められたのと、
一度も話したことがなかったのに
私の名前を知っていてくださったってことが
とってもうれしくて、
今でもそのシーンをすごくよく覚えています。


●たみふー

高校時代、体育教師でみなから
「たんてぃ」と呼ばれている中年剛毛教師がいた。
彼は見た目かなりごついのに舌足らずで、
号令を掛けるとき

「いっち・にっ・たん・てぃ」

としか言えなかった。
ちなみに顔がセミに似ていた。


●どら

高2の数学の時間。
問題を読まされていた女子が、
Sm(メートル)を「エスエム」
と読んでしまった時、
M先生はすかさず

「あれはいいですねぇ・・・」

と言っていた。


●ビリジアン

中学1年生の時の事ですが。
友人と部活のトレーニングの帰り道、
僕を呼び止める声が聞こえました。
声のする方を見ると、
通っていた幼稚園の門の前に立つ先生達が
いらっしゃいました。
で、その中の1人が、
僕の方に手を振ってるのです。
「○○君、私の事おぼえてる?
 あ、ちょっと待ってて・・。」
と、教員室に戻った先生が持ってきたのは・・・
1枚のハンカチでした。

「これ、卒園の時に忘れて行ってたハンカチ!
 いつか、渡してあげよ、思てたんよ。」

と、微笑んで手渡してくれました。
幼稚園児から、中一になってるのに
覚えててくれた事と、
ずっとハンカチ持っててくれた事に感動しました。
そのハンカチが苺柄だったので
一緒にいた友達には、
ちょっと恥ずかしかったけど・・・。


●もう鼻たれではありません。

三女が小学校1年生の時の担任の先生です。
その前まで、次女の担任であった
その男の先生のあだ名は「熊八先生」でした。
(たぶん、ひそかに子供達の間でそう呼ばれ、
 親しまれていたのです。)
背が高く、お寺の修験者を
おしゃれにしたような風貌でしたが、
時に父兄には辛らつなことも話すので、
敬遠されていた父兄の方もあるでしょう。

さて、我が家の三女は
しょっちゅう忘れ物やら落とし物ばかりして、
私もやれやれと
その都度学校に捜しにいったりしていたのですが、
いつも嫌な顔ひとつせず見つけて下さいました。
ある時などは、道に落としてきたトレーナーを
途中のケーキやさんに届いていましたよと、
わざわざ自宅まで、届けて下さいました。
「申し訳ございません。有り難うございます。」
と言うと、
「いえいえ、僕はこれから、
 こどもの粉ミルクを買いにいく途中でしたから、
 良いんですよ。」
と、笑いもせずにそのまま去っていかれました。
三女はいつも鼻風邪ぎみで
鼻すじ二本ついているような子でした。
ある日、転んで
膝こぞうをすりむいて帰ってきたので
「あっ、泣いたな。」
と言うと、

「ううん、泣きたかったんだけど、
 熊八先生が『泣くな!鼻たれ!』と言って、
 頭をなでたので、泣かなかった。」

「泣くな!鼻たれ!」かあ。
なんか良いなあ、と今でも思い出します。
子供達をみる目が厳しく暖かく、
ちょっと変わり者でもあったその先生は
教室でピアノのかわりにギターを弾き、
写真が趣味であるようでしたが、
次女も三女もまた他のどの子供達の写真も
涙が出るほどいい写真なのでした。

2001-11-27-TUE

●まさみ

高校の時の物理の先生の話。
「物にはいろんな力がかかってるんだぞ」
といろんな物を落としながら
実験をしていたのですが、
急に先生が1人の生徒の髪の毛を引っ張りながら
叫びました。

「隣にいる子の髪の毛を引っ張りなさい。
 みんなで“重りの気持ち”になるんだー!!」

予想外の先生の発言と
そのときの先生のまじめな顔は
一生忘れません。


●こみやま

高校の時となりのクラスの先生は、
ムーちゃんと呼ばれ、みんなに親しまれていた。
私の担任の美人女性教師も
生徒達と一緒になってその先生のことを
ムーちゃんと呼んでいたので、
転校したての私は、
てっきり村田先生とか、
「ム」で始まる名前なのだとばかり思っていた。

後日、友人にその先生の名前は
コンドー先生だと知らされた。


●こば

数学の先生は真面目な人だった。
ときどき説教する癖があった。
ある日いつものようにその先生の説教が始まった。
どんな話の展開かは忘れたが、

「わたしが若いころ、体がもっと丈夫だったら、
 ノーベル賞の一つや二つ
 取ってみせたんだが・・・」

と、顔を紅潮させて言った。


●セットアッパー

中学の時の社会の教師!
ソフトボール部の顧問で
当時30手前ぐらいだった男性教師。
ノックの時にいつも履いてる
ピチピチのスラックスから現れる
パンティーラインは、
あきらかに“T”のかたちをしていた。
しかも、週3ぐらいで。


●おっちぃ

私の思い出の先生は短大1年の時の担任です。
先生はとってもお忙しい先生だったのか、
1度自分で召集しておいた
ホームルームの存在を忘れ、
私たちは待ちぼうけを食らい、
すっぽかされました。

先生の体操の授業は
とっても楽しかったのですが、
レベルがひじょーに高く、
ついていけませんでした。
(女子短大生に吊り輪させるか、ふつう!)

その先生の名は、
具志堅幸司(金メダリスト)先生です。


●さかはち

中学時代の夏、トイレに入ると
数学の先生がう〇こをしていました。
なんで分かったかというと
扉が全開だったからです。

「先生、閉めてからやってよー」
「先生、暑いの我慢できないんだよー。
 先生は気にしないから構わず用を足してくれ」

古き良き時代のひとこまでした。


●マユゲネコ

中国語を習っていた中国人の若い女性の先生。
昨日までショートだったのに、
急にさらっさらのロングをなびかせて
教室にやってきた。

恐る恐る、
「どうしてカツラをかぶっているんですか?」
と聞いたら、にっこり一言、

「寒いから。」


●earl

高校の数学の時間、
先生が黒板に書いた数式の答えが間違っていた。
教室がざわめいていると、
先生が間違いに気付き

「お前たちがわかるかどうか、試したんだ!」

と書き直した答えは、また間違っていた。
数学がなんとなく好きになれた気がした。


●Wバッジ

中学のときの副校長先生。
生徒の財布がロッカーから盗まれる事件が
おきました。
副校長先生は、校内テレビ放送に緊急出演して
「先生は悲しい」
とドアップで語られました。

数日後、財布が無事に
持ち主のロッカーに返っておりました。
副校長先生は、校内テレビ放送に緊急出演して
「先生は嬉しい」
と再びドアップで語られました。
しばらく真似していました。


●しろ緒

小学校三年の時の担任の先生(男)は
朝の会、帰りの会、学級活動の時間を潰して
自前の「TOTOダンス」を
うちらに仕込んでくれました。
皆わけわからないままやってたけども
さすがに校庭ど真ん中に集められて
「校長ー先生によーくみえるように
 踊るんだーー!」
と言われた時には、さすがに皆モジってました。

TOTOダンス の歌いだし
「♪ティーオーティーオートト便器っ」


●SS

小学校に入学し、
私はお習字の先生の所へ通いだしました。
玄関でのご挨拶や靴の脱ぎ方からはじまり、
お習字以外にも様々な事を教わりました。
とてもとても素敵な先生で、
60代でお子さんは独立され、
一人暮らしをしていらっしゃる方でした。
小学校から高校まで、週に一回。
それこそ書き尽くせないような思い出が、
様々な言葉がありました。

そしてやがて私は高校を卒業し、
大学進学にあたり一人暮らしをするため
実家を離れようとしていました。
その時毎年恒例の春のお教室の個展があり
ご挨拶も兼ね、
少々緊張しながら扉を開けたのです。
受け付けでもっと練習すればよかったなどと
思いながら記帳を済ませ顔を上げると、
先生がいらっしゃいました。
そんなに広くない会場内をゆっくりと廻って、
最後の作品を見つめていたとき、
先生がふと私に

「旅立ちね」

と一言。
言葉が出ませんでした。
今までなんて色んな人が
見守っていてくれたのだろうと、
そして、今は人生の分岐点なんだと
強烈に思ったのです。
外へ出ると春で、
いつもは綺麗で明るい桜が少し悲しく思えたのは
今でもはっきりと覚えています。
春が巡って来る度に、
先生はまたあのように
生徒を送り出しているのだろうかと、
そして私もいつか人を送り出すことが
出来るのだろうかとふと考えたりします。

2001-11-22-THU

●チエコ

小4の頃、担任の先生が出張で、
代わりに教頭先生が来ました。
私達は自習をしていたのですが、
シーンと静かな教室に
何やらカチャカチャという音して、
同時にクスクスという笑い声が
教室中に広がって行きました。
教頭先生は、
担任の引き出しからハサミを取り出し、
先っちょを鼻の穴に入れて、
チョキチョキ動かしていたのです。
1番前のA君が、
「先生、何やってんの?」
と訊くと、
何の躊躇もなく、

「鼻毛切ってんの。」

と、答えた教頭先生。
クラスみんなの計らいで、
担任には、内緒にしておきました。


●のり

小学校の担任の先生が脳腫瘍で倒れたと聞いて
お見舞いに行った。
先生と会うのは16年ぶり。
先生はもう意識がほとんどなく、寝たきり状態。
お見舞いに来た私の顔を見て、
「あら大きくなったわね。
 小学校の時は一番小さかったのに。」
と、おっしゃってくれたのは、
一度も会ったことのなかった先生の奥様。
クラスの生徒の名前と顔を
半数以上覚えていてくれて、
懐かしそうに語ってくれた。
先生が家庭でどれだけ生徒の話を
奥様にしてくれたのかと思うと、
そして、あんなに明るくて元気で、
時折厳しかった先生が・・・・
いろんな思いがこみ上げて、
病室を出たとたん涙が止まらなかった。


●ささなお

高校の時に、あるおじいさん先生がいた。
ひょろりと背が高く微妙に猫背で、
噂では元・国体のバスケットボールの選手だった
ということだったが、
どうにも影の薄い人だった。
もう担任はしていなくて、
一応エライということになっていたのだが、
普段はなにをやっているのかイマイチ生徒には
知られていなかった。
文化祭の先生方の担当票には、
役割の所に“見回り”ではなく
「徘徊」と書かれていたほどだ。

しかし、あるスポーツ大会の日、
バスケットボールの先生チームに
ひょいと紛れ込んだ彼は、
ほよよ〜と立っていた場所から
ひょいひょいっとボールを放ったかと思うと、
3ポイントシュートをバシバシ決めまくった。
元・国体選手のじいさまは、伊達じゃなかった。


●女森y.

高校の時の、「現代社会」のおじいちゃん先生。
年齢の割には背も高く、
声も大きくていつも元気のいい白髪の先生でした。
印象的なのは、
授業中に逆説の接続詞を使う時、必ず

「けれどもがっ!」

と言うのです。
元気のいい、大きな声で。
そして、一瞬言葉を区切り、
チョークで黒板をタンッ!と突く。
逆説の接続詞は普通、
「けれども」か「〜(だ)が」の
どちらかだと思うのですが、
必ず「けれどもがっ!」と言っていたので、
結局最後まで、いつも気になっていました。
廊下の向こうから歩いてきてすれ違う時、
まるで久しぶりに会った孫の顔を見るように
顔全体でニコニコしながら、
「やあ、こんにちわぁ!」
と言ってくださったので、
今でも顔はハッキリ覚えています。


●kenkura

もう10年ぐらい前の話。
高校のときの英語の先生のことです。
定年前のおじいちゃんなんだけど、
どう聞いてもあんまり英語なんてうまくないって
感じなんですよね。
ただこのおじいちゃん、脱線話は面白かった。

「お前ら、関東大震災みたいなことが起こったら
 みんなと一緒の方向に逃げたら、ダメだぞ。
 みんなと逆の方向に逃げないと。
 あと、倒れて死んでる人を見つけたら、
 お財布はもらっておきなさい。
 あとで、役に立つから」

そりゃあ、すぐに役立つだろうけど・・・
と思ったけど、
そんなツッコミもしきれないほど
いつも変なことを言ってるおじいちゃんでした。
ちなみに私はいつも笑顔で楽しそうだという理由で
そのおじいちゃん先生に
「ヒロポン」
というアダ名をつけられちゃいました。


●モンゴメリ

高校のときの担任は仮面ライダー好きで、
ブルースリーの日本人版みたいな
ルックスをしてました。
“数学”の教師で、
それ故に生徒からもらったという背中に大きく

“数”

という文字が入ったジャージを愛用してました。
ちょっと変わった人だったけど、
それ故に生徒に愛される最高の先生でした。


●ポコ

記憶力の無い私が覚えている唯一の先生、
それは、中学2年の担任兼社会科の先生です。

人よりなにより、社会と歴史が大好きで、
ソ連が崩壊した時はソ連の国旗を手に熱く2時間、
「ソ連行ったとき、あれ買っとけばよかった」
と後悔を語りだし、授業にはなりませんでした。

あと、彼は東北の生まれらしく、
京都では絶対聞かない言葉をたまにしゃべり、
あげくの果てに、
江戸幕府が井戸幕府、
色鉛筆がエロ鉛筆と発音していました。
他の先生なら、バカにされるか、
気持ち悪がられるのですが、
なぜか生徒からの人望は厚く、
いつも生徒達に囲まれているすてきな先生でした。


●メロメロ人妻

高校の漢文の先生。
おじいちゃんで、穏やかな優しい先生。
そう思えるのは、私が歳を取ったから。
当時は歳を取った先生は敬遠していた。
どう接していいかわからなかったと思う。
私たち90人にも満たない卒業生の卒業証書を
手書きで書いて下さった。
一人一人に「こころ」を込めて、
どんな思いで書いていたのだろう。
今思うと、こころが痛む。
先生は10年程前に亡くなったと、
同窓会通信で知った。


●みほみほ

ファッションセンスが最高だった中学の時の担任、
体育教師K。
いつでもどこでもオールバックにジャージ、
スキー教室で標高2000mの極寒の軽井沢でも
オールバックにジャージで
竹刀を片手に仁王立ちだったので
現地のインストラクター達に
「国士舘」と呼ばれてた。
本当は「日体大」だったのにね。


●ケンケン

ワタクシの幼稚園の時の園長先生。
フツーの爺様でしたが、
ある日、この方が運動会の開始の挨拶にするために
壇上に上がりました。

開口一番、青く澄み切った秋空に浮かぶ、
紙のような月を指差しこう申されました。

園長先生
「みなさん!!あれは何だかわかりますか!!!」
園児達
「つきでぇーす!!!」
園長先生
「あっ・・・みんな知ってるの・・・
 じゃあ、いいです」

と力無く呟きそのまま壇上から降りて、
教室に戻って行ってしまいました。
今でもその丸まった背中が忘れられません。

2001-11-21-WED

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