- 糸井
- 聞いた話によると、
中竹さんは一度、ラグビーが嫌になったとか。
- 中竹
- あっ、そうなんです。一度どころじゃありません。
- 糸井
- 今ではU20代表監督もされているのに、
嫌になったのはなぜですか。
- 中竹
- 6歳ぐらいからラグビーを始めて、
本当にただただ続けていたんですけども、
高校で両肩を脱臼したり、ケガがすごく多くて。
全身麻酔をともなう大きな手術を7回ほど。
- 糸井
- えーっ、7回も!
- 中竹
- ケガするたびに嫌になって、ごまかしながら続けたけど、
早稲田のラグビー部で4年間プレーする途中で、
これはもう辞めてしまおうと思ったんです。
でも、最近考えてよくわかったのは、
ラグビーという競技が好きではなかったんです。
足も速くなかったし、体も小さかったけれど、
それでもあの競技の中で、相手を倒す瞬間が好きだった。
僕は、ラグビーというより、
タックルが好きだったんです。
- 糸井
- 「タックルが好き」ですか。
中竹さんは、そんなに大きくないですよね。
- 中竹
- そうです。自分が大きくないからこそ、
大きな相手を倒す醍醐味があったんですね。
そのおかげで続けられたんですけど、
両肩のケガで路頭に迷いました。
大学を卒業してイギリスに留学しましたが、
その時にはもう、ラグビーをプレーすることは
ほとんどありませんでした。
- 糸井
- ラグビーに関係した留学ですか。
- 中竹
- いや、全然関係のない、語学留学でした。
語学を学ぶつもりでイギリスに渡ったんですけど、
同期がみんな一流企業で頑張っているのに、
このまま3ヵ月、語学だけを学んで帰ったら
怒られそうだから、ちょっと勉強しようかと。
ロンドン大学でたまたま人類学に受かって、
その後、レスター大学で社会学を学びました。
帰国後には、三菱総研という会社で
サラリーマンをやっていたんですけど、
スポーツとは一切関係ない仕事をしていました。
- 糸井
- ラグビーとは縁を切っていたんですね。
- 中竹
- 僕がラグビーをプレーしていたときには、
どこかしら違和感を覚えながらやっていて、
あの閉塞感がすごく嫌だったんです。
- 糸井
- 正体はわからないけれども、
なんとなく違うような気がしながら、
ラグビーとつきあっていたんですね。
しかも、体はボロボロになっていく。
たしかに、辞めてもおかしくないですね。
じゃあ、イギリスでやる気になった
人類学、社会学は面白く勉強していたんですか。
- 中竹
- そうですね。特に社会学は楽しかったです。
社会学の切り口から差別の構造を研究したり、
人がなぜ人を殺すのか、といったことを学びました。
人間が社会をつくる上で起こしてしまう罪を、
どう解明していくかの研究をしてましたが、
その中で、自分がラグビーの文化を
嫌っていた理由が、だいぶ整理された気がします。
ようやく客観的になれたところで帰国できました。
そうは言っても、日本に帰ってからも、
家でラグビーを見ることはほとんどありませんでした。
僕、早稲田にもそんなに思い入れとかなかったし。
- 糸井
- テレビで見てもいなかったんですね。
- 中竹
- 早稲田の後輩たちは清宮克幸監督に率いられて、
いい結果を残していたんですね。
清宮さんすごいなぁみたいに思っていたら、
突然、清宮さんから電話が掛かってきたんですよ。
「お前、次の監督をやれ」みたいな感じで。
監督なんて言われても、ど素人だし、
もう冗談でしょうみたいに思っていました。
しかも清宮さん、僕のことほとんど知らないしね(笑)。
僕で大丈夫か聞いたけど勢いで丸め込まれて、
「じゃあ、お前も会社を辞めないといけないし、
今後の人生もあるだろうから、
一ヵ月後また連絡するぞ、よく考えておけよ」って。
次に会ったときにはもう、監督を引き受ける前提で、
話が決まってしまいました。
- 糸井
- 先輩、後輩の関係ですね。
- 中竹
- そんな感じですね。
- 糸井
- 清宮さんは、だいぶ年上なんですか。
- 中竹
- えっと、6コぐらい上ですかね。
- 糸井
- えーっ、そんなに離れていたのに
呼ばれるというのは、また珍しい話ですね。
「ラグビーが好きです、監督をやらせてください」
というのが、いわば普通じゃないですか。
- 中竹
- そうですよね。だって、僕なんてど素人ですよ。
学生にも失礼だなと思いました(笑)。
一流の監督に率いられて5年間勝っていたのに、
こんなサラリーマン上がりで、
しかもプレーヤーとして駄目だった人間なんて、
誰も監督として迎え入れませんよね(笑)。
嫌々な感じではありましたが、
それで10年前にスタートしました。
- 糸井
- そんな状態で、10年になっちゃったんですね。
- 中竹
- 当時は32歳で監督に就任したので、
本当に右も左もわからなくて。
しかも、僕が選手をしていたときのラグビーとは
用語が変わっているんですよ(笑)。
ラックのことを「ブレイクダウン」といって、
今じゃ、普通に使われていますが、
僕がプレーしていたときには、そんな言葉なかった。
でも、監督が「ブレイクダウンってなんだ?」なんて、
選手には聞けませんでしたよ。
- 糸井
- 監督ですもんね。まさか選手に聞くなんて。
- 中竹
- でも、戦略とか、戦術は選手に聞いていました。
僕にはもう、わからないから。
- 糸井
- それは、ずいぶん珍しいタイプの監督ですね。
つまり、何も知らない社長が、
社員に聞いている状態ですもんね。
それがあり得ることは、ためになります。
- 中竹
- 早稲田の選手たちはそれまでずっと、
清宮さんの戦略や戦術を頼りにしてきました。
だから、最初は僕にも期待して、
当然のように、次の試合どうするんだと聞かれます。
「慶應戦をどうするか」「キックとか使うんですか」
どう思うって言われても、ちょっと困っちゃうね。
僕にはわからないから、
どんどん選手に考えてもらうようにして、
文句を言われながら、みんなが頑張りました。
▲早稲田大学で監督をしていた当時の中竹さん
- 糸井
- 「三菱総研」みたいな言葉が、
クレバーなイメージに捉えられるんですよね。
わざわざ監督経験のない人を入れたんだから、
ものすごくコンピューターとかを
使わせたりする想像をしちゃいますよね。
- 中竹
- あはは。パワーポイントは得意だったんですけど、
ラグビーの戦術には全然出てこないんです(笑)。
いや、本当に恥ずかしかった。
だって、僕がグラウンドで指導していても、
下手くそなコーチですよ。
笛の音も、ひょろひょろひょろーって(笑)。
- 糸井
- 笛さえも下手(笑)。
- 中竹
- しまいには、選手からため息とか舌打ちとかもされて。
辞めろとか言われるけど、当たり前だなと思いました。
日本一になるために早稲田に来た人もいるし、
人生を賭けて、「よーし頑張るぞ」ってときに
僕みたいな素人監督だったら、おいおいと思いますよね。
- 糸井
- でも、それなのにどうして辞めたり、
辞めさせたりしなかったんだろう。
- 中竹
- 選手が頑張ってくれたんですね。
▲2008年、大学選手権で連覇を成し遂げた早稲田大学
- 糸井
- 素人の中竹監督でも、勝っちゃったということですか。
- 中竹
- そういうことですね。
<つづきます>
2016-02-15-MON