虚実1:99 総武線猿紀行 |
総武線猿紀行第223回 「え、その場面ホント? 『ラストサムライ』を2倍楽しもう!」 〜佐伯先生と新春・武士の勉強〜その10〜 〜〜系図はだいたいインチキなンダヨ!〜〜 好評のうちに回を重ねましたこの新春講義、 いかがでしょうか? いよいよ大詰めです。 自分で書いてましても、なかなか新鮮なことが多いです。 例えば、第8回の巻末、 『戦場の精神史』を読んでみるコーナーですが、 縄文人が戦争を知らなかったくだりが 改めて目からウロコです。 縄文文化は、勇壮な土器や 壁画を作るなどの文化を見せつけてくれている。 それだけに、人間としての文化を持ちながら 戦争を知らない時代があったのか? と、ちょっとメランコリックな気持ちになります。 また、縄文系の顔をした人と一般的にいうと、 彫りが深い顔を指しますが、 戦争を始めた弥生系は のっぺり切れ長の大陸系と相場が決まっている。 もちろんそれで好戦性の程度がわかるなどとは 決め付けられないですが、 そうした時代の顔型を、戦争の有無で対比させると、 なんか不気味な気もします。 邪馬台国、神話期&朝廷による日本統一の時期を経て、 平安時代にはじめて武士が登場するわけです。 武士が登場してから、 江戸時代の平和期になるまで6〜700年、 日本は武士による戦乱の時代が続くわけですが、 『戦場の精神史』は、 まさに武士が武士として機能していた時代に、 どういう姿であったかを描き出しています。 レンタルDVDに紹興酒、 パックのチンジャオロースでも食べながら、 佐伯先生による、確かにお得なウンチク、 新しい春、新しいジャパネスクなひとときを貴方に‥‥。 先生、こんにちわ。 「こんにちわ」 今日は、全体を見渡して、 気づいたことなどをお聞きします。 この映画の、反乱軍・勝元の住む村ですが、 落人部落という印象もあるようですが、 落人部落って、ほんとのところ、なんなんですか? 「平家の落人部落というものは、 全国に100以上あったりしますが、 ほんとに平家が壇ノ浦からどこかに落ちのびたとしても、 落ちていった先は一つしかないはずですから、 それ以外は全部ウソということになってしまいます。 まあ、そんなことをマジメにいうのもヤボな話で、 これはもちろん伝説です。 実際には、山奥のフツーの山村が、 麓の農村とは違うといいたくて、 平家の落人部落と名乗った、 なんていうようなことでしょうね」 え〜〜? 平家落人部落って自称でニセなんですか? 自己顕示欲で平家を名乗るのか? 学歴サギみたいですね。 自称東大卒。 東大ゼミナール出身だったりして。 面白いですね。 どんなオヤジが 「よっしゃ!ここは今日から平家じゃ!」 とホラ吹くんでしょう? 「いや、そういうさもしい話と いっしょにしてはいけませんよ。 系図なんて、徳川氏が源氏だってのをはじめとして だいたいはインチキなんで、 ウソであるほうがフツーのことです。 ついでにいえば、 文学ってのもみんなウソといえばウソですがね。 そういう中では、 山間の貧しい村が平家の落人を名乗るなんて話は、 切実な伝承として考えなければなりません。 話がそれてしまいましたけどね」 系図がだいたいインチキなんですか‥‥!! う〜〜ん、複雑な気持ち。 確かに、虚飾する事情は、単なるホラとは違い、 抜き差しならない重厚なものかもしれませんね。 切実な伝承として受け取るようにはします‥‥。 だけど‥‥。 ウソがフツー? 大変なものですね、歴史を調べるっていうことも。 さて、第9回の 「アメリカ人の目を通してみて初めて喜べる日本人」 アメリカで評価されたから 「そうか、そんなに俺って素敵だったのか?」 と喜べる自分というのも、印象的でした。 戦後のアメリカンポップカルチャーに育まれた僕達は、 なにかにつけ、そんな傾向がありますが、 こうした映画で喜ぶのも情けないですね。 「この映画は、 オルグレン抜きでは絶対成り立たないと思います。 オルグレン抜きで、ただ勝元が出てきて目をむいて、 日本刀抜いて、桜が散ったって、バカみたいでしょう。 へたすりゃそれ自体がパロディです。 そんな映画が成立すると思いますか? オルグレンの目を通すことで初めて、 ドラマになるんです」 それは、実は、明治時代以降続いてきたんですか? 「西洋の目を通して日本を発見するというやり方は、 新渡戸稲造以来の 日本の伝統ともいえるんじゃないでしょうか」 オルグレンがインディアン狩りの記憶に傷ついていて、 そこが武士を発見する動機につながっているところは、 説得力がある、という人がいますが。 「アメリカ人としては説得力があるでしょうね。 でも、日本人から見れば、 日本をその図式に無理やりハメこんでるところに 無理があるわけです。 インディアンは、ヨーロッパ人に侵略され、 ひたすら抵抗したが滅ぼされたという 一方的な被害者です。 しかし明治維新は、日本人の間で、 複雑な利害関係を持つ歴史的背景を背負ってます。 そうした内乱に物語をかぶせているわけで、 日本人としては違和感を感じるのが当然だと思います」 滅びゆくものに一方的な思い入れを作りたいのが、 傷ついたオルグレンの立場なんですね? オルグレンは、未開のミステリアスな部族に、 未知の理想を見つけたいのだと。 「そこで、勝元の『理想』とは 何かがわからなくなってしまうんです。 近代西洋的でないものを適当につぎはぎして、 古い農村のような、新しい尊皇攘夷の武士のような、 かと思えば中世ヨーロッパのようなものをとりまぜて、 <滅びてしまった理想郷>を作る。 近代西洋人や現代日本人が、何だか自分と違っていて、 それでいてどことなくなつかしいと感じるような世界、 だけど実際には どこにも存在しなかった世界が作られるんですね」 明治維新はあまりにも、 スルって色々なものがスライドしたから、 変わってしまったから、語るのが難しいかもしれませんね。 「明治に大きな転換をして、 西洋近代のマネをしたり反発したりしながら、 必死で世界に<日本>を発信しているうちに、 日本人自身が、江戸時代までの自分たちの姿を 忘れてしまったんですね。 神社とお寺は別のものだとか、 武士が天皇を崇めていたとか、 新しい<伝統>が作られて、 短い間に定着してしまうんですよね。 アメリカ人が誤解しているという以前に、 日本人自身が過去をすっかり忘れてしまったんですね」 それでは佐伯先生の著書 「戦場の精神史」を読んでみましょう。 185ページ 兵学(軍学)が、 多くの武士たちの教育にも用いられうる学として 太平の世に受け入れられるにあたって、 平和な社会の秩序維持には明らかに抵触する、 虚偽の肯定という教義が、 大きな障害となったことは想像しやすい。 とりわけ儒学者の中には、 「孫子の学、孫子の智は、 禽獣(きんじゅう)の智と云うべし」 と言い切った大田錦城(きんじょう 1765〜1825) のような人物もいた。 仁義を掲げる儒学者の目に、 「詭道」を掲げる「孫子」を聖典とし、 虚偽を肯定する兵法家が 軽蔑すべき対象と映ったことは想像しやすい。 <サエキの解説> 実際に役に立つ戦争の理論とは、相手をだましたり、 虚を突いたりするものが多く含まれる。 それは、明らかに平和な時代の社会秩序と反するのです。 戦争理論の先駆者、孫子の教えを、 「ケモノの智」という人もいた。 ケモノは戦争しないんですけどね。 道徳や、仁義を教える儒学者さん達にとっては、 ウソを戦術とする孫子の戦争の聖典は、 さげすむ対象だったわけです。 佐伯先生に質問を受け付けます! シリーズも10回を迎え、そろそろ 「ここはどうなってるの?」 という方もいらっしゃるでしょう。 気楽にメールをいただけるとうれしいです (お答えできるかどうかは、ケースバイケースですが) ほぼ日編集部まで「佐伯先生に質問」というタイトルで よろしくお願いします。
佐伯先生の「戦場の精神史」をサイン入りで販売します! (これは珍しいぞ) ギター侍ならぬ、ギター界のサムライ =窪田晴男の在籍する我がパール兄弟の 丸秘音源CDRも特別に付けちゃいます! 定価税込1176円のところ、 エエイ! 送料ともで1200円!(出血) お申し込みは Pearlnet pearlnet@nifty.com まで。 アマゾンなどでも売ってます。
|
サエキさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「サエキさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2005-02-13-SUN
戻る |