虚実1:99 総武線猿紀行 |
総武線猿紀行第226回 「え、その場面ホント? 『ラストサムライ』を2倍楽しもう!」 〜佐伯先生と新春・武士の勉強〜その13〜 「忍者は盗人とその品同じ、 しかれども忍は物を取らず」 なんだそうデスヨ! 先日は、友人でもある、 中尊寺ゆつこさんが亡くなりました。 また、今年早々、小学校の男友達が、亡くなりました。 40代、このところ、 ちょっと過労死のようなの目立ちます。 その昔、昭和30年代世代は、食品や環境問題から、 40歳までしか生きられない‥‥、 とかおっしゃる先生がいらっしゃいましたが、 それに近いようなことが起こっているのか? と汗。 中尊寺さんは、亡くなる前に、 「食べ物が大事なのよ‥‥」 と僕におっしゃってました。 本当に気をつけたいものです。 死と密接にからめられて語られる武士道。 しかし、死と向き合うことは、 実は、歴史と向き合うことにも似ていると思います。 文末の、「戦場の精神史」を読むコーナー、 今回も必読です。 レンタルDVDに純米酒、柿の種でも片手に、 佐伯先生による、確かにお得なウンチク、 新春、新しいジャパネスクなひとときを貴方に‥‥。 先生、こんにちわ。 「こんにちわ」 それでは、質問の続きです。主婦A子さんからです。
ラストサムライでも基本的には個人戦っぽかったですね。 答えていただきましょう。 「そもそも、日本の武士が ‘一騎打ち’だけで戦争していたというのは大嘘ですが、 馬上で弓矢で戦う戦法が、 鎌倉中期頃まで合戦の中心だったことは事実です。 これは時によって、一騎打ちのような形になります。 また、その頃の武士は極めて個人主義的で、 戦いの目的は、 いかに自分が功名をとげるかということでした。 従って組織的な集団戦法は未発達で、 元の歩兵には苦しめられたようです。 でも、南北朝以降、合戦がうち続く時代を経て、 集団を操る戦法が発達し、 個人戦の形態は姿を消してゆきます。 敵将の首を取る、 といった形での功名争いは最後まで残りますが。 そのあたりは、『戦場の精神史』に詳しく書いたので、 ご参照頂ければ幸いです。 また、江戸時代は平和が続いたので、途中からは、 現実の戦争を体験した日本人は一人もいない、 という状態になります。 その中では、 剣術を過大に尊重する人が出てきたのも事実でしょう。 「戦争を知らない剣術家たち」でしょうか。 そういう人たちの中には、 「刀だけの戦争」 というようなものを夢想した人もいるかもしれません。 そんなものは、たぶん、 歴史上一度も存在しなかったはずですが。 なお、弓矢と刀の役割については、 近藤好和『弓矢と刀剣』(吉川弘文館) 鈴木眞哉『刀と首取り』(平凡社新書) などをご参照ください」 なるほど、僕らがラストサムライとか、 戦国物の映画で見ているような刀中心、 馬上での合戦のありかたは、 鎌倉中期頃までのイメージだったのですね。 南北朝以降で、もうそういう戦いは姿を消している、 よろしいでしょうか? では次、しましまさんからです。
日本人もそうですが、葉隠の好きな外人は多いですね。 しかし、葉隠の術、忘れてました! 答えていただきましょう。 「『ゴースト・ドッグ』は知りませんでした。 『葉隠』から ‘葉隠(木の葉隠れ?)の術’を連想する人、 いるんですよねえ。 私達にとってはびっくり仰天なのですが、 先日、私の教えている学生の中にも そういう人がいました。 まあ、何の関係もないと思いますが、 ‘木の葉隠れ’という言葉自体は、 もともと和歌などで、木の葉の間から月を見る というように使う言葉です。 そこから派生したという意味では、 遠い遠い関係はあるのかも‥‥。 また、江戸時代には、幻想的な物語の言葉として、 身を隠す術という意味での ‘木の葉隠れ’はあったようです。 その源流として、中世の軍記物語の類には、 幻想的な技がいろいろ出てきます(忍術とは無関係)。 霧を吹いて身を隠すとか、 海の底を歩いて対岸に渡ってしまうとか、 “そんなことができるかあ!” って言いたくなるような‥‥。 先日、大河ドラマにも出てきた、 義経と弁慶の五条の橋の対決でも、 義経はとても高く飛び上がっていましたが、 室町時代の『義経記』ではもっとすごくて、 義経は、三メートル近い塀の上に飛び上がり、 そこから飛び降りたかと思うと、 空中で引き返したなんていう、 空中浮遊を披露しています (あんたはどこぞの教祖様か!)。 そういう幻想的な技は、 もともと‘忍者’とは何の関係もなく、 義経自身がやってたりするわけですが、 近代になって忍者物の大衆文学が作られた時に、 ‘忍術’の中に取り入れられていったものも あるようですね。 先日、中国から来た留学生に聞いたのですが、 現在では、中国でも、 日本の武士と忍者の区別が付かないという人が 非常に多いそうです。 たぶん世界中そうなってきているんでしょうね。 せめて日本人は、 近代(しかも多くは昭和以降ないし20世紀後半) に作られた話と、 歴史的な実像とを区別してほしいのですが。 なお、忍術の基本文献とされる、 江戸時代の『万川集海』という書物には、 “忍者は盗人とその品同じ、しかれども忍は物を取らず” とあるそうです。 敵地に忍び込んで情報をとってきたり、 デマをとばしてきたりするのが ‘忍び’だったんでしょうね」 木の葉の間から月を見る‥‥から葉隠かあ。 もともとは優雅だったんですね。 それにしても、中世の作り話もすごいですね! 海中を歩いて対岸に渡る? 泳ぐほうが楽そうですが。 相手に見つかるからでしょうか? 体が浮いてきちゃうと思うんですが‥‥。 それにしても、 「忍者は盗人と品性が同じようなもの、 だけど忍者は泥棒はしない!」って驚きですね。 それでは佐伯先生の著書、 「戦場の精神史」を前回に引き続き、読んでみましょう。 253ページ 新渡戸稲造は後々、こう述べている 「僕は度々この文字(武士道)の 出所を尋ねられたけれども、 実は始めて用いた時分には 何の先例にも拠った訳ではなかつた」(平民道) (以下、新渡戸氏の文例など省略) 新渡戸は、「武士道」の用例を 知らなかっただけではなく、 そもそも日本の歴史や文化そのものに あまり詳しくなかったようである。 (中略) この本の歴史的貧困さについては、 早く津田左右吉の書評 「武士道の淵源について」などによって指摘されており、 最近では西義之や大田雄三らが厳しく批判している。 筆者の視点から一点だけ付け加えれば 熊谷・敦盛の話について 「かかる場合組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、 若しくは組み敷いた者に比し 力量劣らぬ剛の者でなければ、 血を流さぬことが戦の作法であったから・・・ (武士道・第五章)」 というが、そんな作法が一体どこにあったというのか。 そんな作法を守っていたら、 合戦も軍記物語も成り立たないことは明らかである。 (中略) 「武士道」はあまり日本史に詳しくない新渡戸が 自己の脳裏にある「武士」像をふくらませて創り出した、 ひとつの創作として読むべき書物であって、 歴史的な裏づけのあるものではないことは、 改めて確認しておかねばなるまい。 <サエキの解説> 「青年よ大志をいだけ!」で有名な クラークの札幌農学校で学んだ新渡戸さんは、 卒業後、すぐにアメリカに7年留学し、帰国するが、 同校に教授就任6年後再び療養に渡米。 その最中に書かれたのが「武士道」だったということです。 新渡戸氏ご本人も 「私は武士道といふものについて、 30年前に少し書いてみたことがある」 と書かれており、 そうした軽妙なアプローチで書かれた様子です。 (その辺は、「戦場の精神史」253〜260ページを ご参照ください) それが欧米で大うけし、 逆輸入の形で日本にはいってくると、 武士道論の中核になってしまいます。 それは今にいたります。 書かれてから数十年後、アメリカとの開戦、敗戦を迎え、 その後、アメリカ的な文化を享受する中、 「ラストサムライ」の公開を迎えた‥‥、 ということになります。 歴史は、軽い足どりで認識を変えるのですね‥‥。 佐伯先生に質問を受け付けます! いよいよ質問受付もあとちょっと! 「ほぼ日」までよろしくお願いします。
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2005-03-01-TUE
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