■■冨田さんのこれまで■■
1:途中でやめたロンドン音楽修業 |
サエキ |
まずは、今やってらっしゃる
活動について教えて下さい。 |
冨田 |
NHKラジオ第一で
「渋谷アニメランド」という番組の
パーソナリティーを
担当させてていただいています。
アニソンを作るクリエーターの方や、
アニソンシンガー、声優さんをお招きして、
お話を聞くという意欲的な番組です。
またTBSラジオ
「荒川強啓デイ・キャッチ!」にも
レギュラーで出てます。
「目利きの利き耳」というコーナーで
「最近、こういう音楽が流行ってるんですよ」
みたいのを紹介させていただいてます。
あと、雑誌「バウンス」
(タワーレコードのフリーペーパー)での
連載が3年くらい。
アニメソングについては
「リスアニ」という紙媒体を
ソニーマガジンズと企画して立ち上げて、
ずっと企画立案、原稿執筆などで
携わらせていただいてます。
あとはアーティスト・プロデューサーとして、
秋葉原にある「ディアステージ」というお店
(第292回に登場の喪服ちゃんのお店)の
黒崎真音や、アイドルの女の子たちの
パフォーマンス制作のお手伝いだとか‥‥
そんな感じですかね。 |
サエキ |
まだお若いですよね。 |
冨田 |
今、30ですね。 |
サエキ |
30というと、今、音楽ライターとしては若手。
そんな中で、冨田さんは
ブライテストホープなんだけど、
アニメ、アイドル、声優に詳しいけれど、
クラブ系の音楽にも詳しいのが変わり種ですね。
そんな冨田さんの青春は? |
冨田 |
僕は高校を出てからまず、
ロンドンに留学してるんです。音楽の勉強に。 |
サエキ |
ロンドンに音楽を勉強しに留学‥‥?
学校はどういうとこなんですか? |
冨田 |
確か3年制の専門学校みたいなところで。 |
サエキ |
日本の人とかっていました? |
冨田 |
むちゃくちゃいました(笑)。 |
サエキ |
たくさんいた!
なるほど、アメリカのバークレーみたいな
状況になってるんだ。
(註:渡辺貞夫、ミッキー吉野を生んだ
名門、アメリカのバークレー音楽院は、
今や日本人が1/3ほどいるいわれるくらい
日本人が多い) |
冨田 |
イギリスのロックカルチャーに憧れた人とか、
30過ぎて自分探ししてる、
みたいな人たちが大勢いたんですよ。 |
サエキ |
毎日なにをやってたんですか? |
冨田 |
僕はレコード屋いったり、
楽器屋いったりっていうのが
楽しかったですね。 |
サエキ |
学校では音楽理論を教えたり
ボイストレーニングしたり
してくれるんでしょう? |
冨田 |
ポピュラーミュージックの歴史とか、
基本的なプレイングメソッドとか。
すごく大きい専門学校だったので、
語学もちゃんと教えてくれるんですよ。
ギリシア人、イタリア人、
フランス人もいましたね。 |
サエキ |
言い方悪いですけど、
国際的にドラ息子が集まってきていると。 |
冨田 |
いろんな人がいましたよ。
会うたびにタトゥーの増えてる日本人とか。 |
サエキ |
どんな刺青が? |
冨田 |
男の人なんですが、友達ができると、
そいつの名前、すぐ彫っちゃう、みたいな。 |
サエキ |
うわー。あはは(笑)。
当然、ドラッグ関係とかもすごかった? |
冨田 |
おそらくそうだったと思いますね。
まあ、そんな雰囲気にちょっと嫌気がさして、
ドロップアウトしたんです。
30歳ぐらいの人間が、
親に金を出してもらって
延々と自分探しに
専門学校を転々としているのを見ていると、
「俺もこうなっちゃうのかな?」
とか考えてしまって。 |
サエキ |
はあ〜転々とするんですか‥‥ |
冨田 |
そうなんですよ。
一回日本に戻って、また行って、
みたいなのを繰り返して。
学費に年間100万ぐらい
かかったりするんですけどね。 |
サエキ |
その資金が、今欲しいよね!
僕らのやってることに。
大人になってからの活動資金に廻したい!
その親の金。
10万の資金だって大きいですよ! |
冨田 |
ほんとにそう思いますよね。
でも、僕はあまり家族と
コミュ二ケーションをとるタイプじゃ
なかったんですよ。
家では、口ごもるタイプだった。
だからいきなり「ロンドン行きたい」と
僕が言い出した時、
親はめちゃくちゃ驚いてましたね。 |
サエキ |
それが今では、
プロデューサーになって、
こうやって明朗に
よくしゃべるように成長した!! |
■■冨田さんのこれまで■■
2:アパレル、そしてタワーレコードへ |
冨田 |
結局、1年半で日本に戻って、
自主制作で友達と曲とか作って
デモテープとか作ってたんですけど、
それもなかなか芽が出なくて。
それでロンドンに行ってた友達と
アパレルの店をはじめて、
僕は店長みたいなことをやってたんですよ。 |
サエキ |
なんとアパレル店を起業!
意欲的な仲間ではありますね。 |
冨田 |
すごい友達で、
今もその会社は大きくなり続けています。
僕がいたのは1年弱くらいですね。
それでもやっぱり
音楽やりたいってなって思って。 |
サエキ |
アパレル時代に対する感慨は? |
冨田 |
ファション好きな女性の欲深さですか? |
サエキ |
ふはははは(笑)。 |
冨田 |
クレジットカード5枚くらい持ってきてて、
それがすべてレジで使えない、
っていうような女性がいるんですよ。 |
サエキ |
うわっ! すっごい(笑)!! |
冨田 |
限度額いっぱい。
二十歳そこそこの方達でしたから、
衝撃でしたね。
景気のいい時代でもなかったですから、
みなさんギリギリの中で。
それなりに高いブランドを
扱ってるお店でしたからね。
この世界は僕の住むとこじゃないなって
すぐに思ってしまった。 |
サエキ |
そしてタワーレコードに行くと。 |
冨田 |
21歳の終わりくらいから働いてました。 |
サエキ |
まだ20歳ちょい過ぎか。若い! |
冨田 |
タワーレコードには中途採用はなくて、
アルバイトとして入るしかないと言われて。
よく通っていた新宿店に
アルバイトで入ったんです。
品出しとか、接客、
レジ打ちみたいなことを含めた、
ただのアルバイトから始めて。
そのうち「お前、何やりたいんだ?」
ということで
いろいろ適性を測られていったんです。 |
サエキ |
バイトから社員になった? |
冨田 |
はい。1年半くらいで契約社員に。 |
サエキ |
早いですね〜。 |
冨田 |
早いっていわれましたね。
普通は3年くらいかかると。
僕は、お金を惜しまず
CDを買うタイプだったので、
そういうのが気質として
買われたんだろうな、と。 |
サエキ |
好きこそものの上手なれ。 |
冨田 |
でもタワーに入って、
自分がどれだけ井の中のかわずか
思い知らされたんですよ。 |
サエキ |
ほ〜、たとえば? |
冨田 |
僕もCDを1000枚くらいは持ってて、
コレクターという自負はありました。
でもレコード屋にはいってみると、
化け物みたいやつらがいっぱいいるんですね。 |
サエキ |
あ〜。こわい(笑)。 |
冨田 |
ボブ・ディランだけで100枚、
ビートルズだけで200枚持ってる、
みたいのがいるわけじゃないですか。
そういう1万枚とか2万枚とかの
CDコレクターみたいなやつらばっかりで。
ものすごくカルチャーショックを受けたんですよ。
専門知識があってこそ、
バイヤーとして認められるんだという、
怖さと面白さと。 |
サエキ |
その人たちは怖い? 優しい? |
冨田 |
ああ、また若いのが入ってきたよ、
みたいに。
無茶苦茶、かわいがってもらえました。 |
サエキ |
それは良かったね!! |
冨田 |
話しをさかのぼると、
小・中くらいの時に僕の兄が
渋谷陽一さんのファンで、
それを参考にしながら中学生の頃から、
50年代のロックから
ずっと順番に聞いてきたんです。
それで「お前、若いのに、
なんでこんな古い音楽を知ってんだ?」
みたいな感じで、かわいがられましたね。 |
サエキ |
昔は、若い子はいじめに近い形で
鍛えられたもんですけどね〜。 |
冨田 |
当時からCDはもう売れないとか、
若者には音楽の知識欲求がない、
とか言われていて。
そういう中で、
面白い人間だと思われたんじゃないか?
と。なんでも吸収するし。 |
■■冨田さんのこれまで■■
3:いよいよアニメが仕事に!? |
サエキ |
アニメ方向にはもともと興味があった? |
冨田 |
小学校の頃から。
月に一度、兄に連れられて
代々木で理容室をやっている
叔母さんの家に行って、
おこずかいもらって、
帰りに秋葉原でゲームを買って、
それで松戸に帰る、
みたいな生活をやっていました。
秋葉原の風景も見てましたし、
アニメ、ライトノベルの世界なんかも
すごく好きで。 |
サエキ |
具体的な作品は? |
冨田 |
「ロードス島戦記」とか
「スレイヤーズ」とかのライトノベルとか、
ゲームだと「女神転生シリーズ」とか
「ファイナルファンタジー」とか。
で、中学校の頃に「エヴァンゲリオン」があって。
先鋭的なアニメに触れてショックを受けたと。
そうこうしながら中学の頃から
バンドもやっていたので、
ロックも並行してましたね。
オアシスの
「(What's the Story) Morning Glory?」とか。
中学時代はUK派でしたね。 |
サエキ |
パートはベースですよね。
他の人たちはどうしてるんですか? |
冨田 |
仲間は、今はもうやっていないです。
お寺のお坊さんやってるやつもいますし。 |
サエキ |
あー坊主ですね? 多いなあ。
(註:サエキのパール兄弟の
ベースのバカボン鈴木は、
高校から自力で仏教系に入学し、
坊主に。その他、東京タワーズの
ギターの清水君もバンド経験後、
自力で坊主に。その他、寺院関係者多し) |
冨田 |
多いですねー。
その坊主の息子の家の地下室で練習して‥‥。 |
サエキ |
お寺の息子さんは何やってたんですか? |
冨田 |
ギターですね。
でもピアノやドラムセットも
地下室にあったんです。 |
サエキ |
まさにドラ息子(笑)!
ちなみにその時に、
さすがにアニメソングをやるという
アイディアはなかったですか? |
冨田 |
なかったですね。 |
サエキ |
そういう風なロック人間が、
アニメ・ソングを好きっていうのは、
タワーレコードにはいってからも少なかったと。 |
冨田 |
ほとんどいませんでしたね。 |
サエキ |
やっぱりいないんだ! |
冨田 |
後にタワーレコードで知り合う人間で
唯一ひとり、同じような
カルチャーの方に会ったんですけど。 |
サエキ |
タワーでアニメに
関わるきっかけになったのは? |
冨田 |
2006年からです。仕事にしてから、
まだ5年くらいなんですよ。
それまではすべて仕事は洋楽のみ。
家に帰ってアニメ見るとかくらいでした(笑) |
サエキ |
ところが、今は仕事のほとんどがアニメで、
家に帰ると洋楽を趣味で聞いてるみたいな。 |
冨田 |
そうですね(笑)。 |
サエキ |
きっかけは? |
冨田 |
2006年に『涼宮ハルヒの憂鬱』
の放送がありまして、
当時僕は新店舗を開発する担当になり、
錦糸町店のオープン立ち会ったりしたのですが、
しばらくして『ハルヒ』のEDテーマだった
「ハレ晴れユカイ」というシングルが
リリースされることになって。
このシングルがブレイクするのは
100億パーセント間違いないと踏んだんです。 |
サエキ |
100億パーセント! |
冨田 |
アニメを知ってる人間なら
だれもがそう思っていたんですよ。
ただ音楽の業界では全く知られてなかった。
そんな博打に金なんかつっこめるかというのが
大方の姿勢だったと思います。
僕はほうぼうに
「これは、やばいですよ。
すぐにイニシャルあらためて、
バックオーダーかけとかないと、
速攻で品切れします」と主張したんです。 |
サエキ |
5年バイヤーやってきたしね。 |
冨田 |
でも、アニメやアニソンの
地位も低かったので、
誰もアニメのことなんて分かろうとしない。
今はお店の扱いもよくなりましたけど、
当時は「アニメなんて」って、
みんながそう思っていたんです。
で、やっぱりタワーレコード全店で
「ハレ晴れユカイ」は品切れになりましたし、
他のアニメショップさんに
お客さんがとられるという状況になった。
結局、上の人間から
「こんだけ売れてんのに
誰もチェックしてなかったのか、
始末書書け!」
とどのバイヤーもいわれたわけです。
そんなことがあって。 |
サエキ |
主張しても、通らなかったと。 |
冨田 |
あれはかなり悔しかったですね。 |
サエキ |
これからは、
大きく書いて貼っといたほうがいいですね。
これが来ますって。 |
■■そしてアニソン評論界のパイオニアに!■■ |
サエキ |
アニメ方向にはもともと興味があった? |
冨田 |
実はその前年、2005年の段階で、
アニメロ・サマーライブの
第一回が行われてたんですよ。
代々木国立第一体育館ですね。 |
サエキ |
いきなり1万人クラス。 |
冨田 |
僕は2年目の2006年の
武道館から行ったんですけど、
前年からすごいフェスが始まったと注目していて。
その頃には、新世代のアニソンシンガーを中心に
新しいアニソン・シーンができあがってたんです。
なのに音楽として認められない状況で、
音楽誌にも出てこない、
お店にも並ばないとか、
それは非常に不幸だと思っていました。 |
サエキ |
そのタイミングの「ハレ晴れユカイ」。 |
冨田 |
売れるべき商品があるのに、
小売店の理解がないばっかりに売れないなんて、
なんて不幸なんだろう、と。
音楽として評価されていない、
一般に認知されていない。
この状況をなんとかしないといけない、
と思って。
アニソンの「評論軸」みたいなものを
つくらなければいけない、と思ったんですよね。
ジャズにはジャズの、
クラシックはクラシックの、
ロックにはロックの、
みなさんそれぞれに作法があって、
その中で評価というものが
確立されてきているので。
しかし当時、
まだアニソンにはそれがなかった。
外の文化からは測れないような文脈と、
その良さみたいのが
アニソンにはたくさんある。
そういうのを文章化しないといけないと。
そこで「2000年代の今、聞くべきアニソン50」
っていう企画書を書いたんです。
それをいろいろな出版社さんに送ったのですが、
洋泉社さんから連絡があって
「オトナアニメ」のVol.3で
その特集をやらせていただいたんです。
そしたら、ものすごく反響があった。
その時僕がやったのは、
音楽評論の手法でアニソンを、
アニソンの文脈に則って語る、
ということです。 |
サエキ |
なるほどね。 |
冨田 |
すごく大きな反響があって。
それで「アニソンマガジン」というのを
作ったのが2007年の春。
2006年の末の段階で、
僕はもう会社を辞めました。
もともとタワレコに勤めながら
文筆業はやっていたのですが、
アニソンの評論を始めてからは、
ますます会社員仕事が
できなくなってしまったので。 |
サエキ |
それで、完全なる
パイオニアになってしまったわけですね。 |
冨田 |
そうですね。
それまでアニメソングの評論や
インタビューについては、
音楽の話なのに、
音楽の話ができない人がやっていた。
だからやりにくかったんだけど、
僕が入っていったことによって、
いろいろと変わりましたと
関係者の皆さんにいわれました。
アーティスト、作家さん、
プロデューサーも話しやすくなりましたと。 |
サエキ |
とはいえ、そんな仕事が商売になるとも、
だれも思ってなかったんですね。 |
冨田 |
アニメソングが今のような状況になるなんて、
2006年でも誰も思ってなかったんですね。
しかも、2006年にアニメのバブルって
一度はじけてるんですよ。 |
サエキ |
ええ? |
冨田 |
はい。アニメのパッケージを出せば
何でも売れると言われていた時期は、
もう終わったと。
それがあったので、業界的には
「このあとどうなるのか?」
みたいなことを皆考えていて。 |
サエキ |
えええ?
それからアニメソングの
社会的地位は高まったというのに、
その時にバブルもはじけてた?
業界事情ってホントに複雑!!
そんな冨田さんとサエキは、
2007年末に知り合い、
TOgetherというアイドルイベントを
一緒にやっていただいたり、とか、
お世話になってます。
最後に冨田さんのおススメ
3つをあげていただけますか? |
冨田 |
そうですね〜。えっとですね、
曲でいうと、堀江由衣さんの
「インモラリスト」。
清竜人(きよし りゅうじん)さんという
非常に哲学的だったり
内省的な歌詞を書く
シンガーソングライターの方が
初めて人に曲を提供してる。
非常に面白い曲です。
そしてSound Horizon。
もう7年くらい追いかけてるんですけど、
こないだ12月に最新アルバムが出て、
オリコン週間チャート2位に入ってました。
これだけ売れているのに、
その実態は一般の人にはよくわかってないという。
今後は日本固有の文化として、
彼らは海外にも
どんどん出て行くんじゃないかと。
そして、自分がプロデュースした
黒崎真音のアルバム「H.O.T.D.」。 |
サエキ |
こちらは、例の秋葉原ディアステージの
トップアーティスト黒崎真音が
「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」の
エンディングテーマを全12曲、
回によって違う曲で担当したという、
稀代の企画をアルバム化した、
冨田さんワークの精髄ですね。
彼女の歌唱力、
パフォーマンス能力は、ダントツです。 |
冨田 |
ありがとうございます!
最新シングル「メモリーズ・ラスト」も
3月2日に発売になりますので、
そちらもぜひチェックしてください! |
サエキ |
いいですね!
ありがとうございました。 |