総武線猿紀行第70回
「20世紀の終わりに・・
そして誰も思い出さなくなった」
どんづまりにこの原稿を書いている。
もうみんな自分のことで忙しくて、
ほぼ日のエッセイ読んでる場合ではないのだろうか?
僕の部屋はゴミ、いやソフトなどの山である。
そして思い出せない…20世紀のことが。
本当に終わるのだろうか?
これじゃ夏休みと変わらない。全然節目になってない。
子供のころ(60年代)想像していた
20世紀の終わりとはアトムがやってくる、
タクシーがビルの間をかけめぐる空中都市の来訪。
中学生の頃(70年代頃はじめ)想像していた
20世紀の終わりは、核武装し、
強力な再軍備している日本がアジアで
緊張関係を増幅させているキナくさい21世紀の前夜。
終末論一色だった1980年
(ニューウェイブの最盛期)に描いた図は
ノストラダムスよろしくパニックが
おこるほどの天変地異を射程にいれたヒドイ状況の地球。
(「ヒカシューの20世紀の終わりに」
という曲はギリギリで79年末の発売だったことに
僕は注目する。
79年末の気分の濃厚さと来たら、
これまた特別なものがあった)
ベルリンの壁が崩壊した1990年代はじめは、
いちおう東西冷戦の終了から光りが指したかと思ったら、
あのブチャムクレ猫君のような
エリちんの登場で暗い気持ちになった。
しかし、、総じてモザイク状のキナくさかったり、
ヤワかったりの、神経症的くり返しで90年代は、
自分の気持ちをスゴしてきたと思う。
ようするにだんだんワケがわからなくなってきたのだ。
メディアの演出を受けとめてきた僕にとっての
「世紀末」は、ようするに子供の頃に読んだ60年代の
「少年マガジン」のパニック図絵
(戦争や天変地異のイラストが何回も載ったように思う)、
平井和正原作 石森章太郎漫画の「幻魔大戦」のような
漫画に刺激されて登場したのだ。
そうして「世紀末=とんでもなくスペクタクルなこと」
としてインプットされ、それはパニック映画や
五島勉のようなものにより増幅され、
そして最終的には湾岸戦争の不気味さ、
オウム真理教の登場で、現実を限定規模で裏打ちされ、
頭脳に静かに定着、沈静していった。
世紀末地獄絵…そうなるといわれれば、
そうなるような気もしたし、
湾岸戦争の状況やオウムの被害を最大限に拡大すれば、
実際に具現化されないこともない。
なにより、オウムの人々はその図絵の中心に
自分を位置づける作為的な陶酔があったのではないか?
自分や人々の心のなかには
「パニック願望」や「終末願望」があり、
それはメディア商品(新聞も含めて)の中の
重要なセールスポイントというか
モチベーションになっている。
戦争中に扇情的、ファナティックだった
メディアの対応自体は人間の本性に根ざした
部分もあるのだろう。
それ自体は大変に不健康なモチベーションであろう。
ズバリ必要悪だ。
そしてこれからも、パニックが実際に
起きるかもしれないわけだから、否定もできない。
死や破滅に対する予感や欲求はごくごく健全なものであり、
常在菌のように体にあることのほうが普通でもある。
それあってこその健康であり、平和なのだ。
しかし、本気で具現化し、
さらにあおってはもちろん死。本当の死。
ただちに大規模な死。
それがわかりすぎるほど身近にわかってしまった。
そこがポイントだ。
そこでサーモスタットのような、リサイクルにも似た
「終末願望の社会循環」が、
新しい形で必要になる。
終末願望を人類がセルフコントロール
(by TMネットワーク)
できれば良いのだという論になるのだろう。
芸能や祭りがそれに貢献することはいうまでもないが…。
そんなことって完璧に可能なのかいな?
終末願望が循環障害を起こすと怖い事件や事態が起こる。
思えば70年代や80年代に起こった世紀末ブームは
(たとえば73年頃には「終末から」という雑誌があった)
19世紀末の退廃な文化をその下味や
根拠にしていたような気がする。
それは西洋からの受け売りであり、
日本独自のものはあまり育たなかったのではないだろうか?
また、欧米でも20世紀末の「世紀末文化」は
まるで育っているとは思えない。
そういう意味では旧式の世紀末感のリサイクルは
失敗したのだといえるだろう。
この20世紀末の不気味さとは、
だれもが総括を全くできなくなっている
精神状態にあると思う。
20世紀の断罪みたいのは、
80年代前半頃に流行り終わってしまったということか?
80年代ごろは20世紀末が
メチャクチャになっているから、
今のうちに考えられることとを考え、
享受できる快楽をむさぼっていこうとするような
風潮があったような気がする。
(エゴンシーレなどの流行は、
そんな風潮の象徴だったと思う)
世紀末の今、すすんでいる病理はすすんでいるし、
それは、アゴがはずれるような平和というか
凡庸とした日常をもてあます郊外住宅地
(今や日本全国がほとんど田舎ではなく
サバーバン〜郊外と化している)
の退屈と、分極している。
その2つはもちろん底で結び合っており、
ときおり少年などの起こす「驚くべき事件」として
顕在化するのでは。
世紀末を祝い、呪えない現在。
それは平和の結果だから心して感謝するべきだと思うが、
20世紀が思い出せない今というのはどうなのであろうか?
パニック予感に震えたあの心はどこにいったのだろうか?
どうしてここにたどりついたのか、
年表のように僕は自分を説明できるのだろうか?
今、死の予感はどこにリサイクルされ、
活力となって還元されているのだろうか?
8月の終わりに、一夏を振り返る、
必ずしも暑さがそれで終わるわけではないのに・・。
夏は夏、冬は冬、ゴージャスな熱の季節には
かならず人生の何かが消費され、なにか消化不良が残る。
だからとりあえず
8月の終わりには何かを振り返ってしまう。
9月になってしまったら、
確実に新しい何かが始まってしまうから。
必ず…。
21世紀になったら…。
何かが…。
しかし、20世紀の終わりに、
なぜかふだんの8月の終わりほどの感慨も持てないのだ…。
(世紀末もあとわずか、
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