MUSIC
虚実1:99
総武線猿紀行

総武線猿紀行第78回
「我が愛しのモーむす」その2


僕が新宿ロフトプラスワンで行っているイベント、
コアトークの第62回「真っ昼間からDRIVEfrom2001」に
お越し下さったたくさんのみなさん、
ありがとうございました!
計15アーティストが午後3時から11時30分まで、
スゴイ流麗な転回でライブ&トークができました。
巻上公一さんのブ〜ンブ〜ン・ビョビヨと鳴らす
口琴(こうきん)がホントにすごくって、
口ひとつで奏でる本格テクノ?演奏には
会場がトランス状態に包まれました。
口で作るフィルターはテクノのエフェクターに酷似していて、
ハードフロアとか、テクノの演奏にホントに似ているのです。
8時間で15バンドってテレビみたいですが、
トークの会場なので、
ドラムを使わないバンドに限ったから可能なのです。
カラオケによるパフォーマンスのアーティストも
多かったですが、カラオケはバカにならない
パフォーマンス要素になってきています。
いわゆるボックスでの歌唱と違い、
ライブハウス、コンサートホールでのカラオケは
音がしっかりしているということもありますが、
パフォーマンス次第では
実演と同じような意味を持つ場合もあります。
グランドファンク・レイルロードという、
一時はレッド・ツェッペリンを凌ぐ人気だった
アメリカのバンドがありますが、
このバンドの全盛時に
来日が確か1971年に果たされました。
後楽園球場で、5万人を相手にする熱演で、
会場の外にいた血気盛んな客が、ゲートを破るという
事件もありました。(学生運動時代ですから・・・)
その公演がなんと「テープ演奏」であったという
根強い噂があります。真相はわかりませんが、
ホントかもしれない。
というか、そう仮定することは可能です。
実演のホントに演奏する、
やる気のない下を向いたパフォーマンスと、
やる気満々のカラオケ演奏、どっちがいいですか? 
そのグランドファンク公演は
外タレ史上稀代の名演と呼ばれているのだから、
仮にカラオケだったとしても問題ないのですよ、もはや。
カラオケって深い・・・。

そんなカラオケで1万5000人×4回の公演を
満員熱狂させたモーむすなのです。
いやあ、とにかくメンバー10人の舞い踊りは
ホントにステージが狭くなるほど。
なにせみんな個性がある。
その個性はもともと予期せぬ事件のような現場から
生まれたものだったのです。

僕のところに森高千里、シャ乱Qなどが在籍する会社の
事務所(あるいは桜井さん?)から電話があったのが
1997年の秋口のことでした。
例によって急いでいる話。
いつも組んでいるコーザ・ノストラの桜井鉄太郎さんが
作曲の曲で、テレビ東京のオーディション番組
「asayan」のアーティストの曲の作詞を依頼されました。
この「浅草橋ヤング洋品店」という名前だった番組の
一番最初開店時、オープニングテーマは我がパール兄弟の
シングル「君にマニョマニョ」でした。
テリー伊藤さんがからんでいたこの番組は大変面白く、
好感を持っていました。

グループの名前は「モーニング娘。」
オーディションでは、平家みちよがグランプリをとり、
武道館で初ライブをやるという大がかりな仕掛けが
行われていましたが、その中、モーむすは
オーディション残りの5人をかき集め
「もったいないから一応デビューさせておこう」(笑)
という調子で、番組の一部にコーナーが設けられ、
外部の作家である桜井さんと僕のコンビに
声がかかったのです。
ミーティングはけっこう殺伐としていて
「キャンディーズ」の「春一番」のような曲、
という注文がありますが、素人の5人ですから
あのキャピッキャピのボリューム感が出るはずもありません。
当時すでにDIVA系のアーティストで全盛の頃に、
この地味なメンツで
「ど〜すんだろう?」というのが正直な感想。
しかし、ここは無垢な気持ちで勝負するしかないだろう?
と書いたのが「愛の種」という詞で、
でも最初はDIVA全盛の当時、
日本語タイトルじゃダメだろうと思い、
ティアーズフォーフィアーズのシングルタイトル
「シーズ・オブ・ラブ」という題名で提出しました。
う〜ん、このタイトルだったら、
ひょっとして今のモーむすなかったような気がする。
タイトルは「愛の種」でいい!
といったスタッフのセンスは評価します。
そこには「面白い方がいい」という精神が感じられました。
歌詞内容にはずいぶんとスッタモンダがあり、
レコーディング現場に詞の直しに行き、
そこで同じく歌唱指導に悪戦苦闘している
桜井鉄太郎さんに会う。
「いや〜大変なんだよ〜」
そのころは華原のともちゃんなんかが全盛だったわけですが、
そのともちゃんなどの歌い方のクセが
ほぼ全員についていたわけですね〜
(今ならミーシャかな?)。
で、素直なこの曲調には合わなかったわけです。
一人ならば一回ですむ歌唱指導を
5人に1人1人やったおかげで、
歌のレコーディングはモロに5倍かかったのです。

その模様は当時のアサヤンでも紹介されましたが、
ホントに激務だったのです。
歌は阿倍と福田が一歩リードし、
中澤が数歩遅れをとっていたようです。
今となってはやめてしまった福田の逸材ぶりは惜しまれます。
なんといってもスタジオロビーにいったときの
5人ハムスターのように固まっている姿は忘れられません。
田舎から身一つで出てきて
「これからどうなるだろう?」という様子は
番組で中継されていた通りで、
薄暗いホテルに泊められながらの毎日は
不安で一杯だったと思います。
なんといっても福田の子供(ガキ)ぶりがすごく、
篠原涼子や安室の全盛時に
ほっぺたの赤いこの子がデビューするのは、
いくら歌がうまいとはいえ、無謀なのではないか?
と思いました。
また、中澤の何故か一目でわかる「大阪のお姉さん」ぶりも
すごく、まあ、吉本らしい投げやりな企画!
と思えた部分もありました。

しかし、こうした朝摘みトマトのような
新鮮で素朴なキャラクターがTVに出るのは新鮮なのだ、
という気持ちが、彼女達に出会って、
僕に生じたことは確かです。
まさに「愛の種」を歌ってくれるにふさわしい
アーティストだったといえるでしょう。

当時、すでに男性週刊誌、漫画週刊誌には
(今もずっとそうですが)サイボーグのように可愛らしい、
規格品のようなアイドルが満載ですが、
親近感があまりわきません。
電車の中にはアイドルみたいな顔を
ちょっと落としたような娘は死ぬほど乗ってます。
全く、架空のできごとのように
日本に増えているこうしたカワイイ子も悪くはないが、
歌を聴く気にいまいちなれなくなってきたのでした。


「愛の種」シングル裏ジャケ。
表ジャケ(前回掲載)と比べると
ワンレンだった中澤が髪を切っているのがわかる。
つまり、彼女だけ、その後髪を切ったのを撮ったのだ。
(表ジャケの中澤)
確か、番組上で、
「アーティスト写真問題がもめて、撮り直した」
という報道があった、と記憶する。
その後中澤がワンレンになったことはないから、
「愛の種」の表ジャケは貴重ということになる。
全員のみずみずしい表情は今見ると、
まるで将来への道のりを予見しているように見えます。
写真には、常にキリっとした表情で写っておきたいものですね。


しかし、重要なのは、この時点まで、
スタッフのだれもこのユニットがブレイクするということを
予測していなかったということです。
福田も中澤も石黒も
「暴発」するように出てきたキャラクターなのです。
まさにアクシデントだったといえるでしょう。
中澤は、当時TV中継されていたように歌には大変苦戦し、
メンバーのヒエラルキーは当時、
会った印象では横並びという感じでした。
その個性のランダムさは、まさにストリート、
それも池袋とかミナミとか釧路とか・・、に
どこでも抽出できそうなもので、
それが全員味があったことを発見したのは
他ならぬ視聴者なのだと思います。
その意味でこのアイドルはインタラクティブな存在なのです。

「5カ所5日間の手売りで
 5万枚『愛の種』のシングルを売れ!」
という命令は僕には当然無理! と思いましたが、
放送初回から、1万枚を越してしまったのです。
(続く)

2001-04-30-MON

HOME
戻る