総武線猿紀行第81回
「追悼ピチカート・ファイヴ! の巻 その1」
ある人間の一生を見届けたことがありますか?
生まれてから死ぬまで。
人間の場合はそれを見届けられたということは
ちょっと悲しいことかもしれない。
だけど、バンドの場合は?
悲しいけれど、感慨としてはある種の長い映画を
見終えたような到達感? かもしれないし、
犬のようなペットの一生が
一番期間的には近い長さであるかもしれません。
ピチカートファイヴというバンドがありまして、
僕はその1985年のメジャー初ライヴから
先日、2001年3月31日解散ライヴまで
立ち会うことができました。
それは大変光栄なことだったのです。
小西君大変にお疲れさまでした。
考えてみるとこれはものすごく珍しいことなのです。
バンドとはいえ、なかなか誕生と葬式を
両方見られるわけではない。ましてや人間となると。
16年? これは長い。
ビートルズがメジャーデビューしてから解散状態になるまで
あれだけめまぐるしい業績を残して8年。
ストーンズは未だにやっててもうすぐ40年!
になるけどあのオッサンらは例外。
僕等がロックの黎明期にアイドルだったバンドは
ジミ・ヘンドリックスにしろ、
クリームにしろ数年だったし、
Tレックスやレッド・ツェッペリンのように
メンバーの悲しい不慮の死をもって終わる場合でも
10年ぐらいがその寿命の限界だった。
(ただし営業でやってるTレックスみたいなのは、除きます。
実は2年ほど前にスゥートベイジルに
ひっそりTレックスは来日! していますが、
偽マークボランの歌とサウンドは
本物とあまりにも似ていて、
非常に満足のいく物だった(笑)と聞きます)
16年さかのぼれば、ヴィデオデッキだって出たばっかし、
留守番電話が一般にやっと普及し始めたころです。
初めて見た彼らの誕生ライブは
今は亡き渋谷のライブインというライブハウス。
最初が渋谷で、最後のオンエアーイーストも
そこから数百メートルしか離れてない渋谷。
今のエクセル東急という
超キレイな井の頭線と付随したホテルのちょうど駅から
見て左側に面した雑居ビルにあった、
4〜500人を収容するライブハウスで、
この頃はやはり亡き新宿ルイードと人気を二分しており、
我がパール兄弟も良く出演しておりました。
気取らないパブっぽい雰囲気がとても良く、
アメリカっぽいライブハウスっぽいともいえた。
この日は有近真澄(現TVジーザス、あの大作詞家・
星野哲朗の息子!)率いるヴァリエテというバンドが対バン。
ヴァリエテは今野雄二氏の「天才とよびたまえ!」という
スゴイ・コピーでデビュー! しました。
ピチカートは5、6人編成でしたが
初代ボーカルの佐々木麻美子は独特のアンニュイな雰囲気、
まだ線は細かったが十分に「オシャレ」な人でした。
まだ日本には「オシャレ系」というバンド分野が存在せず、
せいぜいYM0関連でデビューした安野とも子さんとか
モデルが歌うというぐらいだったから、
その目指す方向は新鮮な手触りに感じた。
それまでのオシャレな感じといえば、
どうしても「カフェバー」の香りがしたといえば、
当時の匂いを思い出せる人もいるでしょう。
「カフェバー」=「プールバー」
なぜ、突然ビリヤードだったのだろう?
ちょっとズレてディスコの黒服、
そしてデザイナーズ・ブランド・・。
刈り上げのお姉ちゃん、夜霧のハウスマヌカン・・。
と連想をすれば気分はもう1980年代前半。
今80年代ブームだそうですが、
本気で80年代ブームやるんだったら
女なら刈り上げな!
男なら肩パッド入れた逆三角形みたいなスーツ着てみな!
やってみな! といいたい。きっとまだ違和感ありますよ〜。
そんな状況の中に現れたピチカートファイヴは
カーディガンやデッキシューズが似合いそうな、
というか大学の学食、
文化系サークルの部室で会いそうな人たちであった。
大学の学食からフランス映画の主人公を目指そうという
彼らのサウンドは、テクノ系であったが、
水商売の匂いがするプールバー的オシャレから
ニューヨークを夢見るそれまでの
テクノ・ニューウェイヴの匂いとは本質的に違っていた。
90年代を席巻することになる渋谷系とは、
ここに秘密があったような。ブランドはともかく、
たとえば日本水商売系ファッションの現実と
ニューヨークへの憧れの落差に、
80年代前半のオシャレ系の限界があったように思える。
大学生系日常を選んだピチカートは、
今にして思えば堅実、むしろ地に足がついていたのだと思う。
そんな大学生的雰囲気には背景がある。
彼らが生まれた母体のサークル
青山学院大学のベターデイズは
あのサザンオールスターズを先輩に持つ軽音楽系同好会で、
僕の千葉の高校時代の友人も大挙して参加していた。
その中の1人、ドラムの宮田繁男は、
後にピチカートファイヴを脱退した田島貴男と
オリジナルラブを結成するが、
宮田はこのサークルの部長を務め、
サザンの紅一点原由子のハラボーズにも参加していた。
そして頭がいいのに、その活動が忙しすぎて
大学を卒業できなかったという、
音楽サークル冥利につきる?? 人生を歩んだ。
宮田はサザンからピチカート、
オリジナルラブとバンドをつなぎ、
このサークルから派生する流れに
重要な役割を果たすことになる。
その流れはまさに僕にとって憧れであった。
僕は徳島という田舎の大学を選んだために、
当時悔やまれたことは「オシャレで楽しい大学生生活」が
過ごせなかったということがあった。
千葉の高校から徳島へ。
昔の仲間がシティ(マッドネスの宣伝で有名な軽自動車)
とかに分乗して湖のホトリにテニスをしにいっている頃、
僕は徳島のカエルが響き渡る風呂のないアパートで
骨の名前を覚えていた。
青学ベターデイズといえば、
まさにそういう憧憬の最高峰に位置しても
おかしくないサークルであった。
その中の1人が(断じてピチカートではないですよ)
下宿で美人の部員とジャンケンキスゲーム
(ただ負けた方がキスされるという実もフタもないゲーム)
をやって顔がベチャベチャになったという情報を得たときは
「ああ、なんて東京は楽しそうなんだ!」と
嫉妬で狂いそうになった。
(その報告はその友達の下宿を2〜3人でのぞき見している
仲間からなされたのであるから、学生はヒマである)
その中にあって、きっと穏健な生活をおくっていただろう
ピチカートの2人、
小西康陽と高浪敬太郎(そして宮田繁男)は
大学を卒業してもそのまま就職せずに
「作曲同好会」を作って
ピチカートファイヴ結成に至ったという。
モラトリアムの極北というか、
初期ピチカートに潜むなんともけだるい幻想的な感覚は
そうした生活感覚から出ているような気がする。
70年代のフォークやロックも
そうした人たちが多くいたと思うが、
多くはバリケードを横目のライブ体験者であるのに比べ、
学生運動の匂いも完全に消えた
明るい軽音ライフとの差は大きい。
そうしたキャンパスに生まれ、
テクノポップの残像が香る渋谷から
とりあえずピチカートファイヴはスタートしたのだと思う。
(この項続く)
サエキけんぞうとパール兄弟窪田晴男のギターなどによる
ライブが6月2日(土)に午後7時から
青い部屋で行われることに決定いたしました!
ヴァイヴ奏者テルリンちゃんも一緒にやります。
対アーティストは、クラブシーンで話題の
ドラアグクイーン・パフォーマンス、エルナ・フェラガーモ。
そしてさらに特別ゲストに桜井鉄太郎(COSA NOSTRA)の
登場も決定しました。
なんと新曲発表!
午後11時には終了するイブニングタイムのライブです
http://i.am/aoiheya
サエキのHPにも来てね!
http://run.to/kenchan
サエキけんぞうのインターネットラジオ
「お宝音源御開帳」に
元ピチカートファイヴの高浪敬太郎登場!
(6月4日月深夜1時から、1週間オンデマンドで聴けます)
http://www.radiat.net/
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