虚実1:99 総武線猿紀行 |
総武線猿紀行第155回 「大瀧詠一トリビュート」にテロ! 11分の『オンド・メドレー』収録! その5 <ザ・ダークサイド・オブ・ナイアガラ> こんばんわ。 ゆえあって、新大久保のデニーズにて 午前3時にこれを書いております。 今すすめておりますパール兄弟のレコーディングも 佳境であります。 店内は、やはり、若い韓国人女性の集団、 金髪(ロシア人風)太目の美人と、 いかにもなパトロン風というか、 アフターに連れ出し成功風オヤジ日本人男のカップル、 中国人風男の集団、そして仲の良い韓国人カップル数組・・ など絵に描いたように多彩であります。 まさに馳星周の「不夜城」風の世界。 いながらにして海外旅行気分。 おまけに背広を着た支配人風の人が 始終ウロつきまわって(治安に務めて?)おり、 しごく快適かつ安全であります。 しかし正直、これらのむき出しの外国人勢は 原宿・明治通りのデニーズの若者なんかより、 マナーがはるかに良く、外人なのに人間同士として、 けっこうほっとします。 後ろの一人女性はSONY・VAIO・UのようなPCで 何事か打ち込み続けております。 時代は変わりました。 新大久保の夜中、けっこう、オツです。 さて、続きます。 ナイアガラ音頭コンテストに出場したときには 色々面白いことがおきました。 まず、ニッポン放送のエレベーターで 細野晴臣さんに初接近遭遇、 細野さんは大滝さんがそこにいることは 知っていたようでしたが 「ナイアガラ音頭コンテスト」なるもの をやっていたと聞いてビックリした顔をしていいました。 そして、僕の持っていた布谷文夫さんの似顔絵が描かれた 「ナイアガラ音頭ウチワ」にサインをしていただきました。 それは世にも不思議な組み合わせのウチワになりました。 また、当時のナイアガラファンクラブ(のようなもの?) の面々とも知り合いになりました。 ファンクラブ会長の後藤さんは、 ユーモアのあるドスの効いた女性でしたが、 確か中国(台湾)語で有名な 二松学舎の学生さんだったように思えます。 その関係の大学友人がファンクラブ周辺にいましたが、 二松学舎とナイアガラ・・という組み合わせも 味わい深かったです。 その後藤さんがその後、 森進一事務所に就職されたらしいことには もっとビックリしました。 (さらにその後は消息不明・・ だれかご存知の方いませんか?) ナイアガラファンの昔、 ドメスティックなサムライ揃いでした・・・。 その一年前に、ナイアガラ・アーティストであった 山下達郎さんのシュガーベイブが 解散ライブを荻窪ロフトで行いましたが、 そのころの大滝さん&細野さん系のファンは、 たいてい中央線沿線にタムロしていたように思います。 青山なんて考えられない。 僕も、生涯でそのころほど、 中央線方面に足を運んだ時期はなかったです。 荻窪の住宅街の中にある、薄ら寒い荻窪ロフトの路上には、 顔見知りのファンがいつも行列を作っていました。 お互い話しかけることもせず。 そんなわけで山下さんの「ダウンタウン」を聞くと、 荻窪、吉祥寺が思いだされるのです。 山下さんはよく高円寺のライブハウス、 次郎吉にも顔を出されていました。 その後、大滝さんも、山下さんも、 そんな中央線臭さなど微塵も感じさせない アーティストになっていったわけですが、 70年代中盤の彼らの活動と、 雰囲気にはどうしてもホロにがくも下町っぽい、 他の地域よりは、今とあまり変わらない中央線 (新宿から吉祥寺、大滝さんはさらに飛んで福生) の雰囲気がカムっていたわけです。 URCフォーク歌手であった友部正人さん歌うところの 「一本道」という歌の詞、 「ああ、中央線よ、空を飛んで、あの娘の胸につきさされ」 というような漫画雑誌「ガロ」のような 哀愁ある薄暗い世界の隣にいたというわけです。 ここが今から70年代の彼らのいた現場を見つめるときに、 なかなかイメージが結ばないポイントでしょう。 中央線沿線各駅とナイアガラやシュガーベイブ、 ティンパン・アレイ・・ その薄暗くもトロっとした暖かみのある関係を、 想像してみてほしいです。 さて、大滝さんはその後「ゴーゴーナイアガラ」という、 同名ラジオ番組をパックしたようなオリジナルアルバム、 また「CMスペシャル」という スマッシュヒットアルバムを出します。 しかし、同時期に音頭に系統が近い 「多羅尾伴内楽団」というドメスティックな インストアルバムを2枚出したり、 趣味の路線も突き進みます。 そしてベスト盤をはさんだ後、 四季、12ヶ月を曲で表した 「ナイアガラ・カレンダー」という、 ナイアガラ集大成的なアルバムを出し、 第一期ナイアガラレーベルとしては最後の 「レッツ・オンド・アゲイン」 というアルバムを発表するのです。 このアルバムは、とりあえず レーベルの最後を飾るアルバムだったのですが、 内容はオンド。 (一応多羅尾伴内楽団vol3ということだったらしい) しかも、ディスコサウンドを意識した 派手な「ナイアガラ音頭」調ではなく、 より本格的な音頭に接近したものが中心だったのです。 ここには「竜ケ崎宇童」という名前でクレジットされていた シャネルズが見出されます。 「禁煙音頭」 (宇崎竜童さんのダウンタウン・ブギウギ・バンドの 「スモーキン・ブギ」の替え歌) を歌って歌手デビューし、 後にシャネルズとしてブレイクします。 ラッツ&スターが紅白歌合戦で数年前 「大滝詠一さんに捧げます」といって 大滝さんの「夢で逢えたら」を歌いましたが、 それは「レッツオンドアゲイン」の経過もあったからでは? と思われます。 泥臭くもホロにがいオンドサウンド。 そのアバンギャルドなレコーディング風景を見て、 伊藤銀次さんは「とうとう大滝さんも気が狂った」 ともらしたといいます。 僕は浪人の身で、駿台予備校にいっており、 図書館、学食で食べ、生活用品を買うなど寄生していた 中央大学生協で「レッツ・オンド・アゲイン」を購入。 「う〜〜ん、シブい内容」とは思いましたが、 「これはこれ」とも思いました。 そんなファンは多かったと思ってました。 しかし、状況は思ったより切迫していたのです。 90年代にリマスターされてCD発売された 「レッツ・オンド・アゲイン」の 大滝さんのライナーによればこのアルバムはなんと 「300枚ぐらい」しか売れなかったというのです。 これは、そうとうにキビしい数字であります。 僕は名誉ある300人のうちの一人に なれたということですね・・。 この復刻CDのメインライナーは あのピーター・バラカンさんが書いていますが、 彼は 「日本のアルバムの中で、もっともこれが好きだ、 このオリジナリティあふれるアルバムが 日本の未来を背負ったら日本のロックは明るくなる (要約)」 といっておられます。 しかし、ライナーの結末を 「でもこの売れ行き枚数じゃ、無理だったかもね」 ともしめくくられています。 表題曲の歌詞は 「Let's Ondo Again あの夏の日のように あれは3年前 覚えてるかい 故郷の空を Let's Ondo Again Ondo タイム イズ ヒア Let's Ondo Again あの時の興奮を 音頭の季節だよ」(中略) この中には、大滝さんの故郷、岩手へのノスタルジアと、 自分の活動に対するある種の想い (不動のポリシー、そしてその結果に対する 諦念のようなもの) が交錯しているように思えます。 それは、明るくメロディアスな大滝ポップス精神の 裏側を支える強固な風土的構造であり、 そうした魂の暗黒?を 惜しげもなくさらけだす大滝さんに対して、 コアなナイアガラファンは畏怖に近い愛情を 覚えているわけです。 「レッツ・オンド・アゲイン」発売後、 ナイアガラレーベル閉鎖の報が伝わり、 う〜〜ん、とファンはウナりましたが、 さらにウナらされたのが ミュージック・マガジンの増刊号です。 「死者のカタログ」という名の、その不吉なムック本は、 ジミ・ヘンドリックスやジム・モリスンなど、 死んだロックスターを特集したものでした。 そこに、大滝さんは「生きた死者」としてただ一人、 生存者としてインタビューを受けていたのです。 依頼するほうも依頼するほうですが、 受けるほうも受けるほうでしょう。 ここで大滝さんは、 自分のアーティストとしての浮沈に際し、 沈んだときに「だれが僕の親の面倒見てくれるの?」 というような発言をしておられ、 ファンとしてはただウナるしかありませんでした。 確かにファンは、好きなアーティストとはいえ、 親御さんのご面倒までは見られません。 大滝さんはどうなるのだろう? と考えさせられました。 こうした、とてつもなく暗い日々は、ナイアガラの影。 そして影あっての光。 そんな光と影を、共有するのがファン冥利。 それは、オツなものですよ。と今はいえるのです。(続く)
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2003-01-26-SUN
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