毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第一章 ハッタリ猿 |
二 山猿の建国 一度、食い物の味を覚えると、もはやじっとうずくまって 天の一角ばかり睨んでいるわけには行かなくなった。 食い物を求めて、枝から枝、谷から谷へと わたり歩かねばならなくなったからである。 山の中には既に猿が群をなして棲息していた。 彼らは人間どものように戸籍謄本を要求したり、 名門の出であるかどうかを問題にしたりしないから、 石の猿が紛れ込んで来ても異端者扱いにするようなことは なかった。 或る夏の暑い日に、石猿は群猿の中にまじつて 松の木陰で遊びたわむれていた。 木によじのほったり、おハジキをしたり、石蹴りをしたり、 或いはトンボ返りをやったり、虱をとったり、 それから相手をうしろから押したり、肩を叩いてみたり、 全く人間のやりそうなことは何でもするのである。 やがて遊びにあきると、猿どもは水を浴びるために 谷間へ下りて行った。 そこにはよく澄んだ谷川がしぶきを立てて流れている。 「この川は一体どこから流れてくるのだろう? どうせ閑で閑で時間を潰すのに弱っているのだから、 ひとつ探検に行って見ようじやないか」 一匹の猿が言い出すと、 「そうだ、そうだ」 と忽ち賛成の声が起こり、男は女の手をとり、 兄は弟を呼び、流れに沿って山をさかのぼり出した。 やがて轟々と耳を覆うような響きがきこえてきた。 すると見よ ── 眼前には巨大な滝が山の遥か上から 白い虹のように、また雪が乱れとぶように、 流れ落ちて来るではないか。 「凄い水だ!」 「素晴しい滝だ」 口々に感嘆の声を発しているうちに、 誰の口からともなく、 「この滝の中をくぐって、中がどうなっているか 見てくる勇気のある者はいないか? いれば、彼を我々の王としよう」 「そうだ。彼こそは我々の王だ」 「我々の世界では勇気が唯一絶対の掟だ」 という叫び声が高くなってきた。 しかし、このスサマジイ水の勢いと 鼓膜の破れるような激しい音を前にして、 誰一人として名乗り出る者はいない。 「ヨシ、俺が行くぞ!」 見ると、それは今まで片隅にいた石猿であった。 皆の者が目を見張った。 石猿は両の拳を握り、一瞬、眼をつぶった。 この一瞬 ── 生命の危険を無視して 未知の世界へ敢然と挑もうとする瞬間 ── こそは猿の仲間にも入れてもらえないような、 名も知れぬ一匹の猿が、文字通り一躍して 猿の中の猿に出世するかどうかという分かれ目であった。 もちろん、成算があったわけではない。 成算を度外視することの中に王者への道があったのである。 静かに眼をあけると、彼は跳躍の姿勢をとった。 そして、思慮するよりも先に、 彼の身体は、瀑布の中へおどり込んでいた。 彼の眼はとじられていた。 彼は激しい水の奔流を予期していた。 だが、そこには渦巻く波はなくて、そっと眼をあけると、 すぐ前に橋が一本かけ渡されている。 橋は鉄板で出来ていて、渓の水はその下の岩にあたって 逆流して流れ落ちているのである。 橋の上に立って見ると。向こうは人家らしく、 庭には竹や梅や松が植えられ、 石の椅子や寝台が奥の方に覗いている。 左見右見しながら橋を渡ると、そこに石の碑が立っていて、 「花果山福地、水簾洞洞天」と大書してあった。 石猿はすっかり喜んで、再び滝をくぐって外へ出ると、 カラカラと笑いながら、 「不思議! 不思議!」 と叫んだ。 猿どもは素早くまわりを取りまいた。 「中はどうだった? 水の深さは?」 「水なんかあるものか。橋が一本かかっていて、 その向うは天然自然の住居だ」 「住居?」 「そうだとも。素晴しい住居だ。夜露に濡れて暮らすより あの中に住む方がどれだけましか知れない。 広さは広いし、優に幾千百の老幼を収容するに足るだろう」 「本当か。そいつは有り難い」 と猿どもは大喜びで、すぐにも案内しろとせき立てる。 石猿はまたも眼をつぶると、一跳びに滝の中を跳び越えて、 「さあ、ついて来い」 と奥から呼んだ。 それッと大胆な猿は直ちに跳び込み、 臆病な猿も頭をもたげたり、首をちぢめたりしながら、 キャッキャッと声を立ててあとへ続いた。 だが、橋を渡ると、途端に財産の奪い合いがはじまった。 石ころひとつでもあっちへ転がしたり、 こっちへ転がしたり、それをまた奪いかえしたり、 畜生の浅ましさで、片時もジッとしていられないのである。 先刻からその有様を見ていた石猿は、 やおら立ちあがると、 「皆の衆!」 と大きな声を張りあげて、叫んだ。 「さっき諸君は何と言ったか、もう忘れてしまったのか。 諸君にこの安住の地を探し出してやったのは誰だ。 何故家来らしく振舞わないのだ?」 石猿の声には凄味があった。 群猿は忽ち鳴りを鎮めて、その場に頭を伏せると、口々に、 「大王万歳!」 を唱えた。 この日以来、石猿は帝位に登り、 自ら号して美猴王と称した。 彼は配下の猿どもをその能力や年齢に応じて それぞれ文武百官に任じ、位階勲等を与え、 朝は花果山に遊び、夕は水廉洞に帰って、 鳥や獣を相手とせず、 独リ王者の歓楽にふけるようになった。 |
2000-09-06-WED
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