毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第一章 ハッタリ猿 |
三 修道の旅へ 最初、美猴王は、帝王ほど素晴らしい職業はないと思い、 自分のこの地位に有頂天になっていた。 だから、自分は何とおめでたい野郎であろうかと 気づくまでには、およそ二、三百年もの歳月を 経過しなければならなかったのである。 或る日、群臣にかこまれて、宴会をしている最中に、 どうにも、悲しみがおさえきれなくなって、 猿王は、思わず知らず涙をこぼした。 「どうかなされましたか?」 と居並ぷ猿どもは恐る恐る伺いを立てた。 「いや、お前たちにはわからないことだ」 と猿王は言った。 「俺は喜びの中に悲しみを、 笑いの中に涙を見るようになった。 喜びの中には常に悲しみの種がひそんでいる!」 「大王は満足ということをご存じないと見えます」 と猿どもは笑った。 「私どもはこの美しい山間に住み、 立派な洞窟に居を構え、獣や鳥にも邪魔されず、 人間たちの干渉も受けていません。 この自由、この幸福が続く限り、 何の心配がありましょうか」 「なるほど、俺たちには人間様のように 自分をしばるヤヤコシイ法律なんかない。 鳥や獣の脅威も受けていない。 だが、年とともに老いぼれて、 そのうちに死んでしまうだろう。 俺は閻魔の前に引き立てられて行くのは嫌なんだ」 それをきくと、今まで慰め役にまわっていた猿どもも 顔を覆って泣き出してしまった。 「死を見ること生の如し」 などという世迷言は猿の世界には通用しないのである。 この時、群臣の中から一匹の猿がとび出してきた。 「大王がこの点に気づかれたのは、 悟りを開かれた何ょりの証拠と承わりました。 きくところによりますと、この世の中で、 閻魔の支配を受けないものが三種類あるそうでございます」 「閻魔の支配を受けないものがあると?」 「そうです。仏と仙人と神の三者です。 彼らは万物輪廻の圏外に身を避けて、 生死興亡と無関係に永遠の長寿を享楽していると申します」 「その連中はどこに住んでいる?」 「人間の世の中の、古洞や仙山と呼ばれるところに 住んでいるそうでございます」 「なるほど」 と頷きながら、 猿王は溢れ出る歓喜を禁ずることが出来なかった。 「俺は明日にも早速この山を下りることにしよう。 たとえ世界の涯まで行こうとも、必ず彼らを尋ねあてて、 不老長生の術を学びとるんだ。 そして閻魔大王と対等のつきあいが出来る仙人になるんだ」 まことに、この一言は タダの猿の口から出たものではない。 身のほど知らぬこの面魂こそは、やがて彼をして、 斉天大聖と仰がれる、生死を超越した 不滅の存在たらしめるそもそもの原動力なのである。 一旦決心をすると、 すぐにも実行に移さずにはいられないのが、 このセッカチ猿の気性であった。 翌日になると、猿どもは旅に出る彼らの王のために 盛大な酒宴を開いた。 これが俗世の最後とばかりに美猴王は 痛飲して日の暮れるのを忘れた。 さて、そのまた次の日、群臣に送られて海岸へ出た猿王は 松の枯木を集めて作った筏にとびのると、 竹竿に満身の力をこめて筏を動かした。 筏は砂浜を離れ、涯しない大海に向って滑り出して行く。 猿王は筏の真中に坐り、 来る日も来る日も波に運命を任せるよりほかなかった。 ちょうど、東南の季節風が吹いている最中で、 筏は西北の方向へ押し流され、 やがて南贍部洲の境界へ入って行った。 海岸では漁師たちが魚とりや貝拾いをしていたが、 異様な形相をした猿が現われたのを見ると、 驚きあわてて逃げ出した。 「ちょつと待った!」 と猿は手近にいた漁師の一人を捕えて、 着ていた衣服を剥ぎとると、それを自分の身につけた。 サルにも衣裳で、服を着ると、 一人前の人間らしく見えてくるから不思議なものである。 ゆらりゆらりと肩を動かして、村から町へ、 町から都市へと旅を続けて行くうちに、 知らず知らず人間の言葉や礼儀作法をのみこんできた。 しかし不滅の道を求めょうとする気持はいささかも変らず、 毎日毎日、それとなく人の話に耳を傾けているが、 聴けば聴くほど、見れば見るほど、 人間は名誉と富貴を追求する徒輩ばかりで、 求道者の影も形も見当らないのである。 こうして南贍部洲を隅から隅まで歩いているうちに、 八、九年の歳月を空しくすごしてしまった。 この上はと、今度は西洋海に筏を浮かべ、 西牛賀洲へと乗り込んで行った。 そこでもあちこち尋ね歩いたが、 或る日、遂にとある高い山の麓まで辿りついた。 頭をあげると、山は青々とした密林に覆われ、 鳥のなく奇矯な声がその中からきこえてくる。 「仙人という奴は案外こんなところに 棲んでいるのかも知れんなあ」 そう思いながら、林の中をかきわけて行くと、 何やら人の声がきこえてきた。 声のする方へ駈けよって見ると、 一人の男が斧をふりあげて薪を切っている。 薪を切りながら、 斧を片手に山路を辿り 薪を集めて売りに行く 帰りに米の三升もあれば 結構楽しい人生さ 仙人さまの朝晩も まあまあ、こんなものだろう と口ずさんでいるのである。 この最後の文句をきくと、 猿王はいきなり茂みの中からとび出して、 「仙人さま」 と呼びかけた。 男は思わず斧を落して、 「とんでもない。私はタダの樵夫です。 ごらんの通りタダの素寒貧です」 「じや何故、仙人の話をしていた?」 「仙人の話?」 と男はききかえした。 「たった今、歌っていたじやないか」 「ああ、あの歌ですか」 と男は微笑を取り戻して、 「あれは或る仙人から教わったのです。 その仙人は私の家の隣りに住んでいて、 私が貧乏で毎日コボしていたら、 この歌を歌ってごらんと言って教えてくれたのです」 「その仙人の家はどこにある? ここからよほど遠いのかね?」 「いや、そう遠くはありません。 この山の一つ向うの山で、山の名前は方寸山、 その中に斜月三星洞という洞窟があって、 菩提祖師という仙人が住んでいます。 この道を南へ七、八人里も行けば、すぐわかりますよ」 「そうか。そいつは有難い」 教えられた道を登って、山をひとつ越えると、 なるほど、松林に囲まれた岩屋が見える。 大急ぎで駈けつけて見ると、洞門は堅く閉ざされていて、 杳として人の気配はしない。 ふと見あげると、 すぐそはの松の木に実が一杯なっていたので、 途端に空腹を思い出した猿王は、 素早く樹上によじのぼると、ムシャムシャやり出した。 少時して門をギーッとあける音がして、 一人の童子が現われた。 「誰だね。そこいらを散らかしているのは!」 猿王は樹からとびおりると、一礼して、 「お師匠さまにお弟子入りをお願いに参った 修道者でございます」 「やあ、あんたですか」 と童子は笑頗を作りながら、 「今、お師匠さまが、外に一人お前らの仲間が来たから、 迎えに出ろと言われたんですよ」 童子に案内されて洞門をくぐると、 中は素晴らしい楼閣が幾重にも重なっていて、 その奥まったところに菩提祖師が台の上に坐っていた。 「菩提祖師さま」 と猿王は仙人の前に跪いた。 「私を、どうか弟子にして下さい」 「お前の名前は?そして、本籍は?」 と祖師は尋ねた。 「私は東勝神洲、傲来国、花果山、水簾洞氏と申します」 それをきくと、祖師はいきなり声をはりあげた。 「出て失せろ、この嘘つき野郎奴!」 激しい剣幕に、紅い猿の顔が一瞬青くなった。 「私は嘘などつきません。決して嘘イツワリは申しません」 「さっきお前は何と言った? 東勝神洲からここまで、どれだけの距離があると思ぅ? 大洋を二つも距てているんだぞ」 「私はその大洋を筏に乗って はるはる渡って参ったのでございます。 ここまで尋ねて来るのに十年の歳月がかかりました」 「ではお前の姓は?」 「私には性はありません。だからヒステリーも起しません。 怒鳴られても、叩かれても、ただ頭をさげるだけです」 「その性のことじやなくて、お父さんやお母さんの姓だ」 「私には父も母もありません」 「じゃ樹のマタから生まれたとでも思っているのか?」 「いいえ、私は樹から生まれたのではありません。 私は自分が生まれた時のことを覚えています。 石です。花果山の頂上にあるあの石です」 「そうか」 と内心喜びながら、祖師は言った。 「つまりお前はほかの猿どもとは 生まれが違うと主張したいんだな。 どれどれ、そこいらを歩きまわって見せてくれ」 猿王が立ち上って、洞の中を二まわりまわって、 とんだりはねたりすると、 祖師は思わず笑い出してしまった。 「お前の風体はいかにもみっともないが、 しかし、正真正銘の猿に間違いはない。 姓がなければ、儂がつけてやろう。猿はともいうし、 同じ猿でも、仙人の修行を心掛けるからには、 いつまでもケダモノではあるまい。 のヘンをとって孫と名乗ったらどうだ」 「有難き仕合わせに存じます。 ついでに名前の方もつけて下さい」 祖師は暫く考えていたが、 「悟空という名前ではどうだ。 修道者らしいいい名前じやないか」 「ハア」 と猿王は頭をさげた。 「では今日から私は孫悟空と名乗らせていただきます。 皆さん、どうぞ宜しく」 と、今まで尻の方ばかり向けていた 読者たちの方に向きなおると、 孫悟空は愛想のよい会釈をして見せたのである。 |
2000-09-07-THU
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