毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第一章 ハッタリ猿

四 徒弟時代

菩提祖師には三十人あまりの弟子があった。
去る老は追わず、来る者は拒まず、
というのが老師の信条らしく、孫悟空の眼から見ると、
いかにもボンクラで気の利かない兄弟子たちばかりである。
そのボンクラを相手に毎日、字を教えたり、香を焚いたり、
天文地理の講義をしたりするのが老師の日課で、
その他の時間は畑を耕したり、花を植えたり、
薪をとってきたりする単調な生活の繰返しである。

或る日、いつものように、祖師が講義をしていると、
孫悟空は耳を掻いたり、足をガタガタ鳴らしはじめた。
退屈で退屈で我慢がならなかったからである。
祖師は閉じていた眼をあけると、いきなり、
「こらッ」
と怒鳴りつけた。
「講義がききたくなければ、出て行け。
出欠をとっているわけじやないんだから」
「お師匠さま」
と孫悟空は急に神妙な顔をして、
「どうかお許し下さい。
私はお師匠さまのおっしゃることがあまり素晴らしいので、
思わず知らず手の舞い足の踊るのを忘れたのでございます」
「素晴らしいって? 嘘をつけ。
ちょっとやそっとで儂の話の内容がわかるはずがない」
「でもお師匠さま。私は毎年山へ薪を集めに行きますが、
ここへ来てから山になっている桃を七回も食べました」
「ふむ、すると、もう七年になるか」
と祖師は頷いた。
「そんなに長い間辛抱していて、
お前は儂から何を習うつもりでいるのか?」
「仙術に関するものなら何でも習いたいと思います」
「仙術と一口に言っても、全部で三百六十の部門がある。
それぞれの部門に皆それぞれの奥儀がある。
お前はその中のどれを学びたいのだ?」
「どれでも、お師匠さまの方針に従います」
「じや、術の部門を教えようか」
「術とはどういうことでございますか?」
「占いの術で、未然に吉凶を予知する術のことだ」
「それを習えば、長生きが出来ますか?」
「それはちと無理な注文だな」
「じや、ご免蒙ります」
と孫悟空は答えた。
「それじや、流の部門を教えてあげよう」
「流とは何でございますか?」
「儒家、道家、墨家、医家
── つまり家元や教祖になる道だ」
「それを習えば、不老長寿がかないますか?」
「まあ、壁の中に柱を立てるようなものだ。
家を建てる際に長持ちさせょうと思えば
柱を塗り込むだろう。
柱を立てないよりは、幾分か長持ちするが、
いつかは崩れ落ちる時がある」
「そんなのは嫌です」
「じや、静はどうだ?」
「静を習えば、どんな得がございますか?」
「飯を食わないで、じっといつまでも坐っていられる。
坐ったまま天地の鬼神と会話が出来る」
「長生きの道に通じますか?」
「そぅだな。土で茶碗を作るようなものだ。
形は出来るが、ヤキが入っていないから、大雨にあえば、
やがて崩れてしまうだろう」
「まだまだそれでは不満足です」
「では動の道を教えよう」
「動の道とはどういうものでございますか?」
「静のちょうど逆の行き方だ。やりたいことは何でもやる。
ホルモンを十分に補給し、さあ、矢でも鉄砲でも来い。
こちらは百戦錬磨の多情仏心という奴さ」
「そぅすれば、長生きが出来ますか?」
「この生き方を、いつまでも永続させようと願うのは、
水の中の月を掬ぅようなものだね」
「それ、また来た。
どうもお師匠さまはやたらに比喩が多くて困りますよ」
「水に映った月の影はだね」
と菩提祖師はニヤニヤ笑いながら言った。
「いくら掬いとろうとしても
掬いとることは出来ないだろう」
「それなら嫌です。ご免です」
「何をいうか」
と祖師は壇の上からとびおりると、
手にもっていた物差しを孫悟空に向けながら、
「猿奴! 身のほど知らぬ猿奴!
贅沢を言うにも程があるぞ」

いきなり物差しで猿の頭を三ペン立てつづけに叩くと、
背中に手をまわして、そのまま奥へ入り、
中から扉をしめてしまった。

居並ぶ門弟たちは呆気にとられて眺めていたが、
「何という知恵のない猿だ。
せっかく、お師匠さまが秘術を授けて下さるというのに、
お師匠さまと言い争うなんて」
皆してひとくさり悪態をついたが、
当の猿はへラヘラと笑ぅばかりである。

さて、その晩、三星洞に夕陽が落ちて、
夜もかなり更けてから、
孫悟空は床からこっそり這い出した。
門を明けて庭へ出ると、
冷え冷えとした広い山間に白い月が昇っている。
頭の冴えわたる静かな夜であった。

彼は細い路地を通って、裏門の方へまわると、
果たして裏門は半開きになっている。
音のしないように門をくぐって中へ入ると、
寝台の上に祖師が横になっているのが見えた。

孫悟空は祖師のそばに近づくと、跪いたままの姿で、
じっと待っていた。
ややあって祖師は寝返りを打ち、
「ああ、ああ、一人として見込みのある奴はおらん。
口が酸っぱくなるばかりだ」
とひとりごちた。
「お師匠さま」
と悟空は呼んだ。
「私はずっと前からここにこうして待っております」
声をきいて、菩提祖師は身体を起こした。
「猿奴!誰がお前にここに来いと行った?」
「昨日、お師匠さまは私に三更に裏門から入って来いと
おっしゃったじゃありませんか。
三つ叩かれて背中を向けられた時、
私はそう解釈致しました。」
「なかなか油断のならない猿だわい」
と祖師は舌打ちをしながら、寝台の上に座りなおした。
「どうか私に不老長生の術を授けて下さいませ。
このご恩は決して忘れません」
「どうもお前のようにシツッコイ奴にあうとかなわんよ」
と言いながらも、祖師はまんざらでもない様子である。

それから夜の明けるまで祖師は孫悟空に
長生の妙道を口授した。
その内容がどういうものであるかはもちろん、
我々のあずかり知るところではないが、
要するにそれは肉体と精神の問題で、
精神という奴は一つの肉体に
いつまでも宿っていたがらない傾向がある。
その精神をいかにしていつまでも肉体に
しばりつけておくか、
ということに集中されているらしいのである。

やがて東の空がほのばのと明るくなって来た。
師匠に別れてもと来た迫を大部屋へ戻ると、
孫悟空は自分の寝台をガタピシ鳴らして、
「おい、夜が明けたぞ。起きろ、起きろ」
と叫んだ。

それから三年の歳月が経った。
或る日、いつものように菩提祖師は
弟子たちを前に講義をしていたが、
突然、思い出したように、
「孫悟空」
と呼んだ。
「ハイ」
と悟空が進み出ると、
「お前はここへ来て、多少は修行が出来たかね?」
「ハイ、この頃は、おかげさまで、
いささかその道に通暁するようになりました」
「そうか。しかし、
まだお前は三災の凄さを知らないだろう」

三災とは何だろう、と悟空は考え込んだ。
不老長生とは、
魂が肉体から逃げ出そぅとするのを引き止める術だ。
精神が肉体から逃げ出さねば、肉体は減びない。
肉体が滅びなければ、
生き物は天地とともに悠久に生きる筈ではないのか。

不服そうにしている悟空の顔を見つめながら、
祖師は言った。
「お前自身は滅びないでおこうと願ぅだろう。
だが、天がお前を滅ぼそうとして、
五百年後には雷をお前の頭の上におとすだろう。
あらかじめ災害を予知して身を避ける衝を心得なければ、
タダの一撃でお前はコナゴナになってしまう。
仮にそれをうまくかわしても、
さらに五百年後には天が火災を起して
お前を焼こうとするだろう。
この火たるや、普通の火ではなくて、
陰火といって身体の中から燃え上って来る火だ。
一旦、陰火が燃え上がれば、
どんな薬を使っても間に合わない。
五臓六肘が灰となって、千年の苦行も一瞬にして水の泡だ。
それからさらに五百年たつと、今度は風災がやって来る。
この風たるや東西南北の季節風でもなければ、
官僚風でも空ッ風でもなく、
ましてや垂れ柳に春の凰などといぅ風流なものでもない。
一度、この風が吹くと、頭のてっペんから六腑に吹き込み、
骨も肉も立ちどころに分解してしまう。
それほど、怖ろしい風なのだ」

きいていて、悟空は身体中がゾクゾクしてきた。
「お師匠さま、
どうかその三災とやらを逃がれる術を教えて下さい。
お願い申します」
「術そのものはそれほど、困難ではないが、
お前はどうも人間らしくないからな」
「でも私だって五臓六腑を持っています。
頭は丸くて、上に天をいただき、
足はちゃんと地についています」
「しかし、お前にはアゴがないよ」
「アゴはないかも知れませんが」
と猿は口をもぐもぐさせながら、
「普通の人間に比べれば袋がひとつ余計にあります」
と首の上のところを撫でて見せた。
「それも理屈だな」
と祖師は頗をほころばせて笑った。
「お前はどういぅのが習いたい?
変化には三十六変化と、七十二変化の二通りがあるが」
「どうせ習うなら、多い方がよいです」
「それじゃ望み通りに教えてやろう」
と、早速、その日から七十二変化の修行が始まり、
苦心惨澹の末にどうやらそれが身につくようになった。

2000-09-08-FRI

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