毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第二章 実力狂時代

四 冥土破り

或る日、いつもの調子で大宴会を開き、
六人の義兄弟を招待した猿王は、
国を挙げて至れり尽せりの大歓待をしたが、
宴会も終りに近づくと、
酒と気疲れでさすがにクタクタになり、
国賓を無事送り出した途端に、
松の木蔭でうとうとしはじめた。

すると、突然、彼の眼前に二人の獄吏が手に
「孫悟空」
と書いた逮捕状を持って現われた。
彼らは有無をいわさず、孫悟空の身体に縄をかけると、
「さあ、来い」
と孫悟空をひき立てる。
酒が全身にまわっているので、
抵抗しようにも足元がふらつき、あちらにふらふら、
こちらにふらふら、よろめきながらも、
あとについて行くよりほかない。
そのうちに次第に酔いがさめて来て、ふと見あげると、
すぐ目と鼻の先に城門が聳え、
「幽冥界」
と鉄の看板が立っている。驚きのあまり、
今までの酔いが一ぺんにどこかへふっとんでしまった。
「幽冥界といえば閻魔大王の居城じやないか。
 何のために俺をここへ引き立てて来た?」
「あなたの寿命がつきたのです」
と獄吏が答えた。

それをきいた途端に悟空は思わずカッとなった。
「俺様を知らないか!」
と彼は凄まじい血相をしながら、
「俺様は過去現在未来の三界を超越し、
 輪廻の運命のそとに遊ぶ神仙だぞ。
 人を見てから縄をかけろ」

いうなり、耳の中から如意棒を抜き出して、
グルリとまわすと、棒は見る見る大きくなった。
彼はそれを持ちあげて、軽く二人の頭をこづいた。
可哀そうに二人の獄吏は立ちどころにのし餅である。

自らの縄を解き、両手を大の字に開いた悟空は
片手で如意棒をプロペラのように回転させながら
城の中へ乗りこんで行った。
閻魔の部下たちもこの見慣れぬ怪物を見ると、腰を抜かし、
ほうほうの体で森羅殿に駈け込むなり、
「大へんだ。大へんだ。雷の来襲だ」

森羅殿に住む十代冥王は前代未聞の大事件に
あわてふためき、とるものもとりあえず、
外へとび出して見ると、
なるほど雷にも劣らぬ凶悪漢が立ちはだかっている。

十人の冥王は右へならえの一列を作って、
「ついぞお見かけしたことのないお方ですが、
どなたさまでございましょうか?」
「俺の名前も知らないで、どうして俺を捕えに来た。
 人権蹂躙も甚だしいぞ」
「それは、それは」
と冥王たちは互いに顔を見合わせながら、
「きっと獄吏が間違いをしでかしたのだと思います」
「俺は花果山水簾洞のあるじ、孫悟空だ。
 貴様らは一体何ものだ?」
「私どもは陰間を司る十代冥王でございます」
「王と名がついているからには、
 貴殿らも物の道理がわからん奴らではあるまい。
 この孫悟空と俗物の区別もつかんとは何ごとだ!」
「どうかひらにご容赦下さい。ご存じの通り、
 世の中には同姓同名のものがたくさんいますので、
 獄吏が間違えたのだと思います」
「莫迦も休み休みに言い給え、
 むかしから間違いを起すのは役人で、
 下ッ端に罪はないというじゃないか。
 さあ、生死簿を持って来て見せろ」

手に如意棒を持ったまま森羅殿に上った悟空は
上座にどっかと腰をおろした。
十人の王は書記に命じて、早速、
山のような書類をもって来させた。
一冊一冊めくって見るが、
毛虫や羽虫や昆虫や鱗介の類には彼の名前が見当らない。
やっと猿猴類の名簿が出て来た。
その部厚い書類をめくって行くと、
一三五〇号のナンバーに
「孫悟空 ── 天生の石猿、寿命三百四十二歳」
と書かれている。
「畜生奴!」
と孫悟空は舌打ちをした。
「いくらこの俺が人間離れをしているといっても、
 人間の中に入っていないとは!
 しかし、まあ、いいや。
 寿命をたとえもう千年のばしてもらったところで、
 千年は一瞬にしてすぎてしまう。
 それよりいっそのこと俺の名前を消してしまえ」

彼は書記に筆を持って来いと命じた。
そして、名簿を開くと、およそ有名な猿の名前は
片ッぱしから消して行った。
「さあ、これでご破算だ」

生死簿を投げ出すと、悟空はまた如意棒を片手に
悠々と幽冥界を引きあげた。

城門を出て暫く行くと、孫悟空は草叢に足をとられて
思わずひっころんだ。
「あッ」
と叫んだ途端に夢から醒めた。
ほッとして眼をあけると、
まわりには元帥大将がとりかこんでいる。
「あまりお酒を召し上がりすぎたせいでしょうか、
 ずいぶんよくお休みになりましたね」
と猿どもがいった。
「俺は惰眠を貪っていたわけではない」
と悟空はつぶやいた。
「ねている間に冥土へ行って、
 ちょっと他流試合をやって来たんだ。
 これであの世の奴らも俺がどんな男か
 少しは認識しただろう」

孫悟空のこの暴挙にょって、
猿の中には年をとってもなかなか死なない者が
現われるようになった。
猿の間に敬老思想がはびこるようになったのは
この時に始まる。
それ以前は、年齢に関係なく
もっぱら実力が物をいう世界であったのだが。

2000-09-13-WED

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