毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第三章 天の反逆児

二 斉天大聖

さて、その翌朝、張天師に連れられた御馬監の下役が
玉帝のところへ怖そる怖そる訴えて出た。
「新任の弼馬孫悟空は官職を捨てて天界を出て行きました」
「ホオ? どういうわけで?」
と玉帝は目を丸くした。
「現職に不満だったように思います」
「身の程知らぬ妖猿め! 思い知らせてくれよう」

玉帝はただちに軍中の托塔天王李靖を
降魔大元帥に任命し、
その息子の太子を三壇海会大神に任命し、
三軍を率いて下界に赴くよう命じた。

南天門を出た討伐軍は花果山に到着すると、陣地を構え、
まず先鋒隊の巨霊神に挑戦を言いつけた。
巨霊神が武装をととのえ、
手に斧を持って水簾洞のほとりに近づくと、
洞門のそとには猿や虎や豹の化け物が
手に手に武器を握って、剣舞のまっ最中である。
「耳ある者はきけ!目ある者は見よ!」
と巨霊神は大音声を張りあげていった。
「我こそは、玉帝の旨意を奉じて
 不逞の徒孫悟空を討伐に来た上天の大将。
 汝らの妖主に告げよ、
 早々に降参して無辜の殺傷を避けよ、と」

驚いた妖怪は奥に駈け込んで悟空に事の次第を告げた。
「俺の鎧を出せ!」

海底の東海竜王からユスリとった
紫金の兜と黄金の鎧を身につけると、
悟空は手に如意棒を握り、部下を引連れて洞門を出て来た。
「やあやあ悪猿め!」
と悟空の姿を見つけると巨霊神が叫んだ。
「俺が誰だか覚えているか」
「お前がどこの馬の骨だか俺にわかるものか。
 早々に名乗りをあげろ」
「俺を覚えとらんと? この嘘つき猿め!
 覚えがないとあらば教えてつかわそう。
 我こそは托塔李天王の先鋒巨霊天将だ。
 玉帝の聖旨を奉じ、汝を引き立てに参った。
 おとなしく荷物をまとめてついて来るならそれでよいが、
 いやのいの字でもいって見ろ、
 立ちどころに粉砕してウドン粉にしてくれるぞ」
「何をちょこざいな」
と悟空は怒鳴りかえした。
「大きな口は休み休みに叩くがいい。
 長い舌は少々ひっこめた方がいい。
 お前を叩き殺すぐらいは朝飯前だが、
 それじや報告に帰る奴がいなくなってこちらも不便する。
 命だけは助けてやるからさっさと引きかえして、
 お前らの玉帝にいうがいい。この俺様を馬丁に使うとは、
 いよいよ人を見る目のない御仁だ。
 俺のこの旗をよおく見ろよ。
 この旗印の通りに俺を封じてくれるなら、
 これ以上兵を動かすまいが、
 もし俺の要求を蹴って見ろ、霊霄宝殿まで暴れ込んで、
 奴の椅子をひっくりかえしてくれるぞ!」

いわれて巨霊神が顔をあげると、
なるほど洞門の空高く立てられた旗竿に
「斉天大聖」
と書いた四大文字が風になびいている。
「ノボセやがったな、気違い猿め!
 いざ、この斧の味見せてくれよう」

巨霊神は手に持った宣花斧をふりあげるや、
悟空に向っておどりかかった。
悟空は如意棒片手にゆっくりと受けて立つと、
たちまち展開される一大決闘。
斧は鳳が嘴もて花をつつくよう、棒は竜が水に戯れるよう、
左に右に、前に後に、しばらくもみ合っていたが、
天下にその名を知られた巨霊神も、
もとより孫悟空の敵ではない。
悟空がいとも軽々と如意棒を廻転させると、
巨霊神は一歩一歩後退し、
あわや如意棒の下敷になるかと見えたその瞬間、
斧をふりあげて防いだのはよいが、
そのままポキリと柄の真中から二つに折れてしまった。
巨霊神はあわてふためいてうしろに退き、
辛うじて一命をとりとめた。
「さあ、許してやるから早く報告に行って来い」
と猿王は笑った。

営門まで逃げ帰った巨霊神は托塔天王の前に脆き、
フーフーと荒息を吐きながら、
「聞きしにまさる大した野郎です。
 私ではとてもかないません」
「緒戦早々、士気を挫くとは何ごとだ」
と李天王は激怒した。
「ひきたててただちに斬罪にせよ」
「まあ、ちょっとお待ち下さい。
 私が一戦交えてみますから」
と息子の太子がなだめた。
「処分はその上からでも遅くないでしょう」

そこで今度は太子が出陣することになった。
この若武者、さすがは李天王の麒麟児、
身に六種の兵器を帯び、見るからに非凡なる風格、
甲冑に身を固めると、急ぎ水簾洞へ突進して行く。
「こらこら」
と悟空が怒鳴った。
「お前はどこの坊やだ。
 俺のところへ何用があってやって来た?」
「俺を知らんのか、ボケ猿め」
と太子はやりかえした。
「俺は托塔天王の第三太子と申す者、
 玉帝の命によってお前を捉えに来たのだ」
「可愛い坊ちゃんよ」
と悟空は笑いながら、
「お前はまだ歯も抜け代っておらんのに、
 どこからそんな言葉が出てくる?
 悪いことはいわんから早くお帰り。
 帰って玉帝に孫悟空を斉天大聖に封ずるように
 進言しなさい。そうすれば、平和共存で我慢してやるが、
 さもなけりゃタダではおかんぞ」
「何を!」
と太子は剣をふりあげたが、
「俺はじっとしているから、
 どこからでもかかってくるがよい」
と悟空は頭から相手をなめている。
太子は大喝一声
「変れ!」
と叫ぶと、たちまち三頭六臂に変り、
その六本の腕に或いは剣、或いは刀、
或いは手まりを持ち、見るからにトリ肌の立つ形相。
悟空は内心びっくりしながら、
「小僧なかなかやりおるわい。
 よし、俺の腕前を見せてくれる」
とこちらも
「変れ!」
と一声、これまたそっくり同じような三頭六臂に変って、
三本の如意棒を六木の手に握り、
まこと山を揺すり地を動かす一大血戦。

太子は手にもった縄を、蟒のようにとばし、
大杵をふって、狼のようにかみつき、
また火焔を吐く輪を、稲妻の如く廻転させるが、
猿王の三木の如意棒は巧みにそれをうけとめて、
なかなか勝負がつかない。
太子は心焦って六種の兵器を一せいに繰り出し、
猿王また如意棒を縦横にふりながら呵々大笑、
いささかもひるむところがない。
驚いたのは山野の妖王鬼妖で、
戸を閉め、頭を埋めてブルブルブル …… 。

およそ三十数合打ち合わせているうちに、
悟空は素早く毛を一本抜きとり、
「変れ!」
と叫ぶと、自分と寸分違わぬ猿が現われ、
太子に立ち向って行った。
そして、彼自身はこっそり太子の背後にまわり、
柏手の左股めがけて、
「えいッ」
とはかりにうちおろした。

風の鳴る音をきいた太子は急いで身をかわしたが、
間に合わず、
「アイタタタ …… 」
と叫びながら、もとの姿に戻って逃げ出した。

李天王は手助けをせんものと、
さっきからやきもきしていたが、息子が敗れるのを見ると、
度胆を抜かれてしまった。
「これじや到底勝てそぅもない。困った、困った」
 
頼みとする息子が負傷しては、
さすがの天王も戦意が湧いて来ない。
「仕方がないから、一旦天界へ戻って、
ありのまま報告しよう。もっと援軍を仰いで、
その上で生けどりにしても遅くはない」

李天王が兵を引き払ったので、
猿王は凱歌をあげて山洞へ戻った。
戦勝祝賀会に駈けつけた七十二洞の洞主と
六人の義兄弟に囲まれた孫悟空は満面春風、
底なし樽のように、いくら酒を注がれても、
足りたとはいわない。
酒に酔った赤ら顔を綻ばせながら、六人の義兄弟に向い、
「俺も斉天大聖と称することが出来るのだから、
 あなたたちもそれぞれ大聖を名乗ってはいかがです。
 悪い気持のしないものですよ」
「そりゃそうだ」
と牛魔王が叫んだ。
「俺はこれから平天大聖と称することにしよう」
「じや私は覆海大聖だ」
と蛟魔王が応じた。
かくて、鵬魔王は混天大聖、獅駝王は移山大聖、
猴王は通風大聖、王は駆神大聖と、
蛇や虎畜生が一夜にしてたちまち聖人君子に早変り、
天を小バカにした夜郎自大の時代が始まったのである。 

一方、敗軍の将李天王は天界へ戻ると、
敗戦の経過を報告して、さらに援兵を乞うた。
玉帝は驚きながら、
「思いあがった妖猿め! すぐ息の根をとめてくれよう」 

すると、また太白金星が群臣の中から進み出て、
「あの猿は上下の見境いもつかないケダモノですから、
 これと戦うとなると、簡単にはすみすまい。
 むしろこの際、相手の要求を容れて
 斉天大聖の肩書をくれてやっては
 いかがでございましょう。
 有名無実の肩書なら、実質上の損害はないかと存じます」
「というと?」
「名は斉天大聖を与えても、仕事を与えず、
 従って禄も与えなければよいのです。
 それで天地の平和を保つことが出来たら、
 安い代償ではございますまいか?」
「それもそうだ」
と思案を重ねた末に
「ではよきようにとりはからえ」
と玉帝はいわれた。

そこでまた金星が特命全権大使となって
和平談判に赴くことになった。
金星が水簾洞のほとりへ来て見ると、
以前と違い、あたりには殺気が漲り、
まことに物々しい警戒ぶりである。
妖怪たちは金星の姿を見ると、
ワッとばかりに周囲をとりかこんだ。
金星は少しもたじろがず、
「行ってお前らの大聖に告げるがいい。
 太白老人がまた玉帝のお使いで参りましたと」
 
部下の者がその通り伝達すると、
悟空はニヤニヤ笑いながら、
「いよいよやって来たか。
 あの時は、ずいぷん見限った官職だったが、
 おかげで天界の様子が一通りわかった。
 今度また来たからには悪い話ではあるまい」
 
猿どもに命じて儀杖隊を整え、
自らも盛装をこらして洞門へ出ると、
「お迎えにも参上せず、まことに失礼致しました。
 さあ、どうぞお入り下さい」

洞中に入ると、金星がいった。
「天界ではあなたを討つ議論が強くて
 なかなか大へんだったのを、
 私が力説してようやく玉帝のご裁可を得たのです」
「それはそれは有難う存じます」
と悟空は頭をさげた。
「ですが天界に斉天大聖という官職がありましょうか?」
「ご裁可を仰いでから参ったのです。
 嘘イツワリがあれば、もちろん私が責任を負います」
「それならば、あなたの言葉を信じて、
 もう一度だけお供致しましょう」
 
かくて悟空は金星のあとについて再び天上の門をくぐつた。

天界では蟠桃園の隣りに斉天大聖府を新しく建てて、
ここに孫悟空を住まわせることになった。
彼を懐柔するために玉帝から特に御酒二本、
金花十本の御下賜があり、即日、新居に移ると、
悟空は酒瓶をすっかり空にしてしまい、
寝台に大の字になって高いびきをかきはじめたのである。

2000-09-16-SAT

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