毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第四章 苦節五百年

二 大敗戦を喫す

話は変って、南海は普陀の落伽山に住む観世音菩薩は
王母娘娘から蟠桃大会の招待状を受けとると、
一番弟子の恵岸行者を連れて遙々と瑤池へやって来た。
ところが会場へ入ってみると、
どこもかしこも狼籍のあと生まなましく、
数人の仙人たちが腰もかけないでヒソヒソ話をしている。
事の次第をきくと、菩薩は、
「パーティがないのなら、
 いつまでここにいたって仕方がありませんから、
 皆さん、私と一緒に玉帝のところへまいりましょう」

一同菩薩につれられて通明殿へ赴くと、
そこにはすでに赤脚大仙をはじめ
天界の重要人物たちが集まっている。
彼らは玉皇上帝がことのほか腹をお立てになって、
十万の討伐軍を下界に派遣した模様を話してくれた。
「玉帝におとりつぎを願えませんか」
と菩薩は侍従長の邱弘済真人にいった。
やがて案内されて霊霄宝殿へ入ると、
そこには玉帝を囲んで太上老君と王母娘娘が坐っている。
「とんだ邪魔が入ったものですね」
と菩薩がいうと、
「いや、全く恐れ入った奴です」
と玉帝は冗談まじりに、
「前に弼馬温に任命してやった時は、
 私のことを人を見る目がないといっていたそうですし、
 今度、斉天大聖に封じてやると、ドロポーを働いた上に、
 ドロポーがなぜ悪いとうそぶいているそうですよ。
 いくら年輪を重ねて仙人の仲間入りをしたところで、
 猿の性悪は抜けきれないものですね」
「で、討伐軍の戦果は如何でございますか?」
「まだ報告がまいっておりません」
「では私の弟子を使いにやって見ましょうか」

菩薩は恵岸行者を呼ぶと、
意を含めてすぐ花果山に向けて出発させた。
恵岸行者はもともと李天王の第二王子である。
鉄の棍棒を片手に雲に乗ると、
たちまち花果山の陣地に下りて行った。
見ると天羅地網は山の周囲を幾重にも取り巻いていて、
文字通り水ももらさぬ警戒ぶりである。
「拙者は李天王の第二王子木叉、
 またの名は南海観音の大徒弟恵岸でござる。
 父君におとりつぎ願いたい」

営門前に立って行者が叫ぷと、
やがて雲が左右にひらいて衛兵が彼を奥へ案内してくれた。
「お前がここへ来るとは思いがけなかったな」
と李天王は久しぶりの対面を喜びながら
「お師匠さんは変りがないか?」
「ハイ」
と息子は微笑を浮べながら、
「お師匠さまのお供をして蟠桃大会へ赴いて、
 はじめて父上がこちらへまいっていることを知りました。
 御殿では軍中の報告が来ないので、
 玉帝をはじめ皆さんが心配しております。
 それでお師匠さまが様子を見て来いと
 私をよこしたのです」
「そうかそうか。こちらではいくらか成果があがってから
 報告しようと思っているんだが、
 この調子では持久戦になりそうなんだ。
 しかしまあ、儂から話をきくよりも、
 お前が自分で前線へ出て見た方がいいだろう」

すでに夜は明け放たれていた。
ほどなく前線から伝令がとんで、
孫悟空が一大猿群を率いて戦を挑んできている旨の
情報が入ってきた。
「父上」
と恵岸行者がいった。
「では私がちょつと小手しらべをやってきます。
 場合によっては一合戦やってもよいと
 お師匠さまからお許しが出ておりますから」
「お前は菩薩のもとでいくらか修行も出来たと思うが、
 相手が相手だから、十分気をつけるんだぞ」

木叉王子は武装を整えると、
手に鉄棍を握って勢いよく軍門をとび出した。
「斉天大聖とやらはどこにいる?」
 大声で叫ぷと、
如意棒を持った孫悟空がすぐそれに応じた。
「斉天大聖と叫んでいるのはどこのどやつだ」
「我こそは李天王の第二王子木叉太子、
 観音菩薩の大徒弟恵岸行者だ」
「菩薩の弟子ならお経でも読んでいる方が身のためだぞ。
 何用あってここへまいった?」
「いわずと知れたこと、
 今日おやじのところへ使いに来たが
 俺に会ったのがお前の百年日。
 さあ、覚悟をせい」
「何を猪口才な。お前こそ、この痛棒を食らえ」

孫悟空はいいざま如意棒をふりあげたが、
木叉も鉄棍を持ちあげてこれに応じ、
たちまち展開される一大熱戦。

如意棒と鉄棍は中空にとびかい、
火花を散らすことおよそ五、六十回。
勝敗はいずれともつかなかったが、
しまいに恵岸行者は精魂がつきはて
手足がいうことをきかなくなったので、
隙を見て走り出した。

ほうほうのていで味方の陣地に逃げ帰ると、
恵岸行者は悟空が敵であることも忘れて、
「すごい、すごい。大した腕前だ」
と手放しで感心している。
李天王はすっかり驚いて、
すぐ援兵を乞う信書を部下の大力鬼王に持たせると、
恵岸行老に同行させた。

天界へ戻った二人はすぐ御殿に参上した。
玉皇上帝は李天王の手紙を開くと、
苦笑しながら、
「なるほどこれでは見る目がなかったといわれても
 仕方がないな。
 李天王は十万の天兵ではまだ足りないと
 いってきているが、どこの軍隊を動員したものだろうか」
「ご心配には及びませんよ」
とそばにいた観音菩薩は
「私がひとりいい人を推薦致しましょう。
 あの人ならきっとあの猿を生捕りにすることができると
 思います」
「誰ですか?」
と玉帝はきかれた。
「陛下の甥御さんの顕聖二郎真君でございます。
 ただいま、灌洲の灌江口に祭られておりますが、
 あの人なら前にも六怪を退治したことがありますし、
 梅山兄弟をはじめ千二百の豪傑を食客に持っております。
 ただご存じのようにあの人は命令されることを
 嫌いますから、陛下からお使いを出して、
 助力を乞われたらいかがでございましょう」
「なるほど」
と玉帝は領き、
早速親書をしたためると大力鬼王にもたせて
灌江口に急行させた。

二郎真君が親書を開くと次の如く書かれている。
「この度花果山の妖猿斉天大聖が謀叛を起し、
 天界の桃、酒、丹を盗んで蟠桃大会を撹乱したので
 十万の天兵を派通し、十八重の天羅地網を以って
 これを包囲しているが、
 未だに勝を制することができない。
 朕は賢甥及び義兄弟が
 天地無双の勇士であることを思い出し、
 この手紙を使いの者にもたせる。
 どうか天界の平和のために花果山に赴いて
 逆賊の駆除に助力してもらいたい。
 重ねていう天界の平和のために」

根が侠気のある真君は親書を見ると、
涙を流さんばかりに感激しながら、
「ご聖旨よくわかりました。
 必ず妖猿を捕えてまいります故、
 どうぞ宸襟を悩ませ給わぬようお伝え下さい」

大力鬼王が戻って行くと、真君は直ちに梅山の六兄弟
即ち康、張、姚、李の四大尉と郭申、直健の
二将軍を召集し、自分の心中を打ち明け、同行を促したが、
もちろん、誰一人として異存のあるものはない。
そこで鷹を駕し犬を連れ、部下に弓矢を整えさせると、
すぐさま狂風に乗って東洋大海を横断し、
花果山へとやって来た。

李天王と四大天王は営門まで迎えに出、
討伐本部へ案内すると時を移さず敵情の説明に入った。
天王がこれまでの経過を述べて
悟空の神通力の凄さを語ると、真君は笑いながら、
「私が来たからには奴と化けくらべをやってみますよ。
 ただ何分にもこの天羅地網は邪魔になりますから
 振り払って、四周だけを固めて下さい。
 それからもし私が負けても、私の兄弟たちが
 助けてくれますから皆さんは手を出さないで下さい。
 またもし私が勝っても縛るのは私の兄弟たちが
 やりますから、皆さんはだまって見ていて下さい。
 ただ李天王にひとつお願いがあります。
 それは中空から照妖鏡を
 照らしておいていただくことです。
 万一、猿が敗走した場合、
 よそへ逃げられるとまたあとが面倒ですからね」

こうして作戦の準備がととのった。
二郎真君は六人の義兄弟を率いて営門を出ると、
それぞれ部下を所定の位置に配置した。
それから水簾洞の門外へ近づくと、
なるほどそこには一群の猿どもが、
「斉天大聖」
と大書した旗を囲んで見事な蟠竜の陣を布いている。
「斉天大聖とはつけもつけたりだ。
 大風呂敷とはこういうふうにひろげるものだろうな」
真君が感心していると、
「感心ばかりしていないで、まず一合戦やろうぜ」
と梅山六兄弟がせきたてた。
七人が洞門に近づくと、
奥から甲冑に身を固めた猿王が
肩を怒らせながら出て来た。
猿王は目の前の男たちを見るとカラカラと笑いながら、
「俺に戦を挑む生命知らずは誰だ?」
「俺が誰か見分けがつかねえとは、さては、めくらの猿か」
と二郎真君は怒鳴りかえした。
「我こそは玉帝の甥、
 泣く子もだまる昭恵霊顕王二郎真君。 
 上命をおびて、天の逆徒、馬丁の親方、
 孫悟空を捕えにきた。
 さあ、覚悟をせい」
「ハハン」
と孫悟空は鼻先で笑った。
「玉帝の妹がよろめいて子供を生んだときいていたが、
 仙人と人間の混血児というのは、手前のことか。
 道理で顔の色が線香でいぶしたように黒いと思ったよ。
 もう少しからかってやりたいが、
 生憎とお前さんとは何の恨みもない。
 理由のない殺生は俺も好かんから、
 生命のあるうちに早く帰って四天王と入れ代るがいい」
「何を無礼千万な」
とカンカンになった真君は大鋒をふりあげるや、
悟空目がけてまっしぐらに突進してきた。

悟空はヒラリと身をかわすと、如意棒を打ちかえす。
真君がまたそれを受けとめる。
後方では敵も味方も旗をふり、太鼓を打ちならし、
ワーワ、ワーワと、大喚声をあげながら
たちまち野球場の応援団に早変り。

こうして鋒と棒を打ちかわすこと三百余回。
それでもまだ勝負がつかないので、
二郎英君はぶるぶると武者ぶるいをすると、
あら不思議、背丈が見る見るのびてこれはまた、
天を衝くばかりの大巨漢。
目をむき、牙を鳴らし、
血のように真赤な髪をふりみだしながら、
三叉の鋒をふりあげると、
鉄も砕けよとばかりに打ちおろした。
あわやと思ったその瞬間、
カチリと相手の鋒をうけとめた悟空はと見ると、
これまた、真君と寸分違わぬ大巨漢、
その手に振られた如意棒は崑崙山の大石柱のように
ビクリともしないではないか。

驚いたのは猿軍の大将たちで、
途端に腰をぬかし旗をふろうにも手が動かず、
刀を握ろうにも手がいうことをきかない。
「それッ」
とばかりに梅山兄弟は鷹や犬を一せいにしかけたので、
一瞬にして猿軍は大混乱におち入り、野も原も死屍累々、
生きのこった猿どもは蜘蛛の子を散らすように、
山へ駈けのぼる者は駈けのぼり、
洞中へ逃げ込む者は逃げこんで行く。
まさに猿王国始まって以来の大敗戦であった。

2000-09-20-WED

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