毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第四章 苦節五百年

 三 万事休す?

応戦に夢中になっていた孫悟空がふと下をふりむくと、
猿軍は総崩れになっている。
「逃げるな。逃げるな」
と絶叫しても、もう間に合わない。
すっかり泡を食った悟空は魔術をといてもとの姿へ戻ると、
いきなり駈け出した。
「待て、待て。逃げるな」
と真君はそのあとを追うが、
戦意を失った猿王はあとをふりかえりもしない。
息もつかずに走って、ようやく洞門に辿りつくと、
そこには康、張、姚、李の四太尉と
郭、直の二将軍が頑張っていて、
「それッ。逃がすな」
と口々に叫びながらつかみかかって来る。
猿王はますますあわてて、如意棒を耳の中へ蔵い込むと、
揺身一変、あっと思う問に姿を消してしまった。
「逃げたぞ。逃げたぞ。おかしいぞ」

草の根を分けるようにして探しまわっているところへ
二郎真君が追いついてきた。
「どこへ逃げた? どこで見失った?」
「ここんとこだ。
 皆でうまく包囲したと思った途端に
 見えなくなったんだ」

真君の立っているすぐそばに樹が一本聳えていた。
真君が見あげると、梢がかすかに揺れ動いていて、
さらによく見ると、雀が一羽とまっている。
「フーム。さては雀に化けたか」

真君は手にもっていた弓矢を捨てると、
これまた揺身一変たちまち鷹になって地上から舞いあがった。
それを見ると、雀はすぐ大鳥に変って
空高くとびあがった。
真君また大海鶴に化けて雲の中をつき抜け、
そのうしろを追跡する。
遮るもののない大空を上へ下へと
生命がけの攻防戦を展開しているうちに、
悟空の化けた大鳥は急旋回をしたかと思うと、
そのまま川の中へ真逆さまに落ちて行った。
真君の化けた大海鶴は川辺へおりてあちこち
探しまわったが、悟空の姿がどこにも見あたらない。
「猿め、きっと魚に化けたに違いない。
 よしよし、今に見ていろ」

真君は素早く一羽の魚鷹に変身すると、
波の上で低空飛行をしながら相手が出てくるのを待った。
一方、魚に化けた悟空は流れに沿って悠々と泳いできたが、
ふと見ると、すぐ目と鼻の先に鳥が一羽とんでいる。
灰鷹にしては毛が青くないし、鷺にしては
頭に飾りがないし、といって鸛にしては腿が紅くない。
「ハハン、鳥に化けて俺を待っているって算段だな。
 その手にのるものか」

悟空はクルリと方向転換をすると急いで逃げ出した。
「おやおや」
と二郎魚鷹もすぐそれに気がついた。
「今の魚は鯉にしちゃ尾鰭が紅くない。
魚にしちゃ背鰭にトゲがない。
それに俺を見た途端に逃げ出したところを見ると、
てっきり猿が化けた魚に違いない」

真君の魚鷹はさあッと翅をひろげると、
いきなり嘴をつっこんで一つきにつきさしたが、
それより早く水中深くもぐった悟空は
そのまま一匹の水蛇になって岸へ向って泳ぎ出した。
そして、水から這い出すと一目散に草叢の中へ
もぐりこんで行く。

水蛇が這い出るのを見た真君は、
今度は灰鶴になってその鉄のような長い嘴で、
水蛇のあとを追いかけた。
しかし、水蛇は身をくねらせると、
たちまち一羽の花鴇に化けて素知らぬ顔をして
汀に立っている。
「何という下劣な野郎だ」
と二郎真君は舌打ちをした。
というのはヤリテ婆のことを花鴇というぐらい、
この鳥は相手をえらばないで交尾する。
鳥の姿のままで近づけば、
こちらの気がへンになってしまうだろう。

仕方がないので二郎真君はもとの姿に戻ると、
急いで弓矢をとりに走り出た。
ところがさっきのところへ帰ってくると、
花鴇の影も形も見えない。
おかしいと思ってあたりを見まわすと、
崖の上にさっきまでは見えなかったはずの土地廟が
一軒立っている。
廟のうしろには幟が一本風にひらめいている。
「バカ猿め!」
と真君は笑い出した。
「廟はこれまで山ほど見て来たが、
 幟のたった廟は生まれてはじめてだ。
 あの野郎、尻尾のもってゆき場に困ったに違いない。
 俺がそれに気づかないで、
 廟の中へ奴をさがしに入ったら、
 パクリと一口でかみつくつもりなんだろう。
 が、そうは問屋が卸さんぞ。
 まてまて。
 入るようなふりをしてまず窓をこの拳固で一打ちして、
 それから門扉を足で蹴ってやろう」

この独り言をきいて、びっくり仰天したのは孫悟空である。
「何というおそろしいことを言う野郎だ。
 門扉は俺の歯で、窓は俺の眼じやないか。
 そいつを力一杯殴りつけられた日にゃ
 たまったものじゃない」

あわててはねおきると、
土地廟はたちまち中空に消えてなくなり、
同時に孫悟空の姿も見えなくなってしまった。
そこへ四太尉と二将軍があたふたと駈けつけてきた。
「兄貴。うまくつかまえましたか?」
「おかしい。おかしい。
 たった今、廟に化けていたのに、
 殴りこみをかけようと思った途端に
 消えてなくなっちゃつた」

皆、愕然として、周囲をさがしまわったが、
どこにもそれらしい姿は見当らない。
「皆の衆、ここで監視していてくれ。
 俺はちょっと上の方へあがってくるから」

真君は雲にとび乗ると、中空へあがった。
見ると李天王が照妖鏡を一生懸命操作している。
「妖猿の姿を見かけませんでしたか?」
と真君がきいた。
「いや、上へあがってはきませんよ。
 私はさっきからずっとこうして
 ここに頑張っているのですから」
「そうかな。それにしちゃ不思議だ。
 たった今までこの下にいたのが
 突然見えなくなったのですよ」

李天王はそれをきくと、
照妖鏡を持ちあげて四方八方を照らしていたが、
やがてカラカラと笑いながら、
「真君、ご足労でも早く家へ一走りしてきた方が
 よさそうですぜ。
 あの猿は隠身法を使ってここからぬけ出したが、
 どうもあなたの灌江口へ行ったらしいですよ」
「えっ、ほんとですか。そいつは大へんだ」

真君は大鋒をとりなおすと、
あわてて留守宅へ向って駈け出した。

さて、一足先に灌江口に着いた悟空は揺身一変、
難なく二郎真君に化けると悠々と廟の中へ入って行った。
手下の者は誰一人ニセモノとは気がつかないから、
すぐ本殿へ迎え入れる。
悟空は真者の座に坐ると、お供物を食べたり、
信者たちの願いごとをきいたりしていたが、
そこへまたもう一人の真君が戻ってきた。
「斉天大聖とやらいうのが来なかったか」
「やあ、大へんだ」
と部下のものは目をまるくして
「真君が二人になってしまったぞ」

それをきくと、本物の真君は物もいわずに戸を押し開いて
中へ入った。
本物を見ると孫悟空はすぐ本性を現わし、
「やい、今頃何をしにきやがった。
 ここはもうとっくの昔に代がわりをしたんだぞ」
「何を」
と真君は鋒をふりあげた。
その鋒先を巧みにかわした孫悟空は
耳の中から縫針を抜き出すと、敢然と立ち向って行った。
二人は武器をふりまわしながら、廟門をとび出し、
追いつ追われつしているうちに、
またもとの花果山まで戻ってきた。

一方、天界では二郎真君が出馬した報告には接したが、
その後の戦況報告がさっばり入って来ない。
そのため二郎真君もやられたらしいという流言蜚語まで
とんで、民心は大いに動揺している。
これにはさすがの政府の要人たちも頭をかかえこんだが、
もちろん、玉帝にはひたかくしにかくして
真相は知らせていない。
ただ玉帝は敏感な神さまであったから、
よほど心配になっていられると見え、
「ひとつ南天門まで皆で様子を見にまいりましょうか」
と菩薩がさそうと、すぐさまご賛成になり、
老君、王母娘娘以下諸仙卿をぞろぞろと引きつれて
わざわざ南天門まで行幸になられた。

折しも下界では天兵たちが遠くから包囲陣を組み、
二郎真君が妖猿と一騎打ちの死闘をつづけている
真最中である。
「どうです。私の推薦したあの真君の武勇ぶりは?」
 と菩薩は誇らしげに笑った。
「しかし、まだ勝負はつかないようだね」
と太上老君がいった。
「私のこの花瓶を投げてやりましょうか」
と菩薩がいった。
「うまく猿の頭にあたれば、
 死なないまでも脳貧血ぐらいは起すでしょう」
「うまくあたればですがね」
と老君は笑いながら
「万一、あの鉄棒にあたろうものなら、
 あなたのその花瓶ではひとたまりもありますまい。
 それより私が助けてあげましょう」
「ですが、何か武器をお持ちになりましたか?」
「へへへ……元来私は平和主義者ですがね」
と道徳経の著者は皮肉な笑いを浮べながら、
左手を袖の中へつっこむと
中から一本の丸い輪をとり出した。
「この鉄の輪は私が多年かかってりあげたもので、
 肌身離さず持っている保身具です。
 人は先の尖ったものや刃のよく切れるもので闘いますが、
 私はむかしから丸いもので闘うことにしています。
 まあ、私のこの金鋼套の威力を見て下さい」

太上老君が南天門から彼の金鋼套を投げると、
それは空とぶ円盤のようにグルグルとまわりながら
はるか下の方へとおちて行った。
そんなこととは知らない孫悟空は、
二郎真君とその六人の義兄弟を相手に死闘をつづけている。
そこへ鉄の輪がおちてきて見事、猿の脳天にあたった。
猿は思わずよろめいた。あわてて立ちあがろうとすると、
今度は真君の犬に腿のところをガブリと食いつかれた。
「イタタタ …… 畜生」
と叫んだ途端に皆の者にとりおさえられた。
そして金縛りにされた上に、
刀を肋骨に突きさされてしまったのである。
いくら神通力のある孫悟空でもこれでは化けようとしても、
もう化けることができない。

それを見届けた上で老君は金鋼套をとり戻し、
また何食わぬ顔をして袖の中へしまい込んだ。
やがて、玉帝の御車が霊霄殿へ戻ると、それと前後して、
「妖猿を引っとらえてまいりました」
と四天王から報告があった。
玉帝は大力鬼王らに命じて孫倍空を斬妖台に引き立て、
処刑の上、さらし首にするようお命じになった。
ああ、悪逆無道の限りを尽した一世の雄も
ここにおいて万事休すか。
と思う人はもちろん一人もいないだろう。
ここで孫悟空が死んでしまえば『西遊記』は
始まるはずがないし、第一、天界の連中は
自己矛盾におち入ってしまうだろう。
なぜならば、孫悟空が無銭飲食をした仙桃や仙丹は
永遠に死せざることを彼に約束しているからである。

2000-09-21-THU

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