毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第五章 宗教大攻勢

三 猪 八 戒

二人は再び低空飛行をつづけながら、
東へ東へと旅を急いだ。
よほど行ってから、
雲をつくばかりの高い山にぶっつかった。
見ると、妖気が山のいただきまで漂っていて、
その嶮しいこと。
とても徒歩でよじのぼれそうにない。
「雲に乗ることにしようか」
と菩薩は言った。

二人が雲を呼んで、
ちょうど山のいただきにさしかかると、
突然、狂風がまきおこり、
一人の妖魔がスウッと目の前に現われた。
「わあッ」
と思わず恵岸行者が叫んだ。

これはまたキテレツな表情をした妖怪である。
耳はまるで扇のように天をつき、
歯は鋼鉄を削ったょうに鋭く、
長い嘴を開いたその有様はまるで燃えさかる火の盆を
いきなり眼前につき出されたよう。
その醜怪な口をあんぐりとあけたまま、
手に握った熊手をふりあげながら、
いきなり観音めがけて襲いかかってくるのである。
「無礼者奴!」
と恵岸行者は素早く鉄棍をとりなおした。
「何を、生命知らずの糞坊主め!」

相手も熊手を両手に握りしめ、クルリと方向をかえると、
恵岸行者に向って突進して来る。
その熊手を動かす手の早いこと早いこと。
いやはや、これは武術などといった代物ではない。
いくら天下に勇名高き木叉太子でも、
こう目茶苦茶な相手では、
鉄棍を打ちおろす隙がないのである。

二人が死闘をつづけている間、
観音は中空から静かに観戦していたが、
なかなか勝負がつきそぅにないので、
手に持っていた蓮の花を怪物めがけて投げおろした。

すると、蓮の花はゆらりゆらりとまるで
美人がスカートをひろげたように落ちてくる。
怪物は呆然として一瞬、熊手を動かす手を忘れたが、
落ちて来たのを見ると、一輪の花にすぎないではないか。
「誰だ。俺の目を欺こうとするのは?」
と怪物は怒鳴った。
「お前のような目やにでかすんだ目には、
 そこにどなたがいらっしやるかも見えないだろう」
と木叉が言いかえした。
「われこそは南海菩薩の大徒弟、
 あすこにおいでになるのはほかならぬわが師匠」
「南海菩薩だって?」
と驚いて怪物はききかえした。
「南海菩薩といえば、
 三災を清め、八難を救うあの観音大菩薩のことか?」
「お前のような化物でもそのぐらいのことは
 知っていると見えるな」

言われて怪物は熊手を地上に投げ出した。
「兄貴よ。菩薩はどこにいらっしゃる?
 一目でいいから、俺をひきあわせてくれ、な、頼む」
「お前のすぐ目の前にいらっしゃるじゃないか」

目をあげると、なるほど、
すぐ目と鼻の先に観音菩薩が立っている。
怪物はあわてて膝を折った。
「お前はどこの何という豚だ」
と菩薩は言った。
「なんで私たちの邪魔をする?」
「私は豚でも猪でもありません」
と怪物は両手を合わせながら
「私はもともとは天の河で水師の提督をつとめていた
 天蓬元帥でございます」
「天蓬元帥が何でこんなところでウロチョロしている?」
「恥しい話ですが、酒に酔った勢いで、
 月の中の嫦娥さんにモーションをかけたのです」
と怪物は耳を扇のように動かしながら、
「全く運が悪かったのです。いやいや、
 相手が悪かったのです。
 どうせ私にとってはどの女だって美人に見えるのに、
 選りに選んで、
 あの高慢チキな嫦娥に言い寄ってしまったのですから。
 美人なんて若いうちが花なのに、
 どうして相手を送り好みしたりするのでしょうね。
 私なら男に言い寄られたら、
 自分がもてている証拠だと思ってとても喜びますよ。
 たとえ嫌いでも、他人に口外したりしませんよ。
 だのに、あの女は私が手籠めにしようとしたなんて
 臆面もなく訴えて出たんですからね。
 おかげで私は官職を剥ぎとられた上に、
 尻っペたを二千も叩かれ、
 下界へ追放されてしまいました。
 あんまりあわてたものだから、人の腹の中へ入るのを
 間違えて牝豚の腹の中へもぐりこんで、これこの通り、
 醜い顔立ちになってしまいました。
 私は根はやさしい男なのに、女たちは私の顔を見ると、
 すぐ逃げ出します。
 どうしてだろうと思っていたら、
 漸くその理由がわかりました。
 私が腹を借りたあの豚めが私をこんな姿に
 してしまったのです。
 あんまり癪にさわったから、
 家じゅうの豚どもをかみ殺してやりました。
 そうしたら、他の豚どもが私を親殺しだと言って
 馬鹿にします。
 ますます癪にさわって、
 豚という豚を皆かみ殺してやりました。
 ああ、一体、誰が私をこんな姿に生んだのだ? 
 天を恨んだらよいのか、それとも地を恨んだらよいのか!
 菩薩さま、どうか私に教えて下さい。私に教えて下さい」
「この山は何という山だね?」
と菩薩はきいた。
「福陵山と申します」
と怪物は相手がききもしないのに、ペラペラと喋り出した。
「この山の中に雲桟洞という洞窟があります。
 もとは卵二姐というのがこの洞窟の主でした。
 もういい年をした姥桜でしたが、
 私が多少、武芸の心得があるのを知って、
 私に入婿をすすめてくれたのです。
 婆さんでも女には違いないし、
 その上、金持と来ていますから、
 いやとは言えませんやね。
 来て一年も経つと、彼女、
 パッタリと死んでしまいました。
 私が毎晩毎晩無理な要求をしたせいじやありませんよ。
 要求したのはむしろ向うの方なんです。
 考えても下さい。
 女もいい年になると、男が顔を覆いたくなるほど
 厚かましくなるものですからね。
 だから死ぬ時も、わたし、本望ですよ、
 とニッコリ笑って死にましたよ。
 おかげで家ぐるみ財産が私の懐に
 ころがり込んできました。
 しかし、こういう山の中では働こうにも
 働きようがありませんから、坐食すれば何とやら、
 月日が経つにつれて、次第に貧乏をし、
 今では旅人をとって食うよりほか
 手段もなくなってしまいました」
「昔から
 “前途が欲しければ前途を絶つょうなことをするな”
 といわれているだろう。
 天法を犯した上に、またまた殺生を繰り返すのでは、
 自らの手で自らの前途を絶つようなものではないか」
「前途、前途、何が前途です?」
と怪物は口をとがらせた。
「あなたのおっしやる通りにしていたら、
 風でも食って生きるんですか?
 あなたが格言を持ち出すなら私にも格言が山ほどある。
 昔から
 “官法に従えば殺される、仏法に従えは飢死する”
 といっているじやありませんか。
 もうたくさんだ。
 さあ、とっととここから出て行ってくれ。
 俺は今まで通り、人をとって食っている方がいい。
 一つ罪を犯しても、天から見離されるなら、
 干犯しても万犯しても同じことだ」

「お前はもう天界に帰りたいとは思わないのか?」
と菩薩はきいた。

天界ときくと、
今まで鼻息の荒かった怪物は急に悄げかえった。
「天界か。ああ、懐しいなあ」
と怪物は耳を垂れながら、
「しかし、罪を犯した身ではいくら祈っても無駄な話だ」
「お前が本当に天界に帰りたいなら、
 その方法がまったくないわけではない」
「本当ですか?」
と怪物は眼を輝かせた。
「もしそれが本当なら、私はどんなことでもいたします。
 正直のところ、
 私は世の女たちにはいささか食傷しました。
 菩薩さま。
 どうか私をこんな目にあわしたあの残酷な嫦娥に
 もう一度会えるようにして下さい。
 お願いです」
「何というお前は性懲りのないバカだろう。
 再び天に帰るためにはお前は頭をまるめて
 坊主にならなくちゃならんのだよ」
「坊主だろうが、尼さんだろうが、
 何だろうが喜んでなります。
 坊主といったって、生臭坊主もいるのですから」
「じゃ西方へ経典をとりに行く聖人の
 お供をする気はあるか?」
「あります、あります」
と怪物は叫んだ。

そこで観音菩薩は彼に猪悟能、
またの名八戒という法名を与え、
今後は一切の生臭物を断ち、
精進料理だけで日を送るようにと言いつけた。

2000-09-25-MON

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