毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第六章 一粒の麦

一 水に流す

新妻の名前を温嬌、またの名を満堂嬌と言った。
美人で育ちがよくて、オヤジは大臣ときているから、
この娘を射当てた陳光蕊は、文字通り三国一の花婿である。

若い夫婦はしばらくの間、大臣の邸で暮らした。
昨日までの貧乏書生が今日は一躍して
都スズメのゴシップの対象。
幾重もの垣に取り囲まれた深窓の出来事が
まるでこの目ででも見てきたことのように、
人々の耳から耳へと伝わって行く。
さらにそれに尾鰭がついて、
いや、実は花婿と花嫁は前々から恋仲であったのを、
父親に事後承認させるために打繍毬を手段に使ったのだ
というような噂まで立っている。
大体、いい事は長つづきのしないものだが、
羨望まじりの噂話が流れ流れて行くうちに
早くも悪党どもの耳にとまった。

やがて光蕊は太宗皇帝から江州の長官に任命された。
新妻を伴い、岳父母に別れて都を発った光蕊は途中、
海州の故郷へ帰り、母親に妻を引合わせた。
「お前が出世をしてくれたおかげで、
 私はほんとに鼻が高いよ」
と母親は涙を流さんばかりの喜びようである。
「それにまあ、大臣さまのお嬢さまを
 お嫁さんに迎えるなんて、何という仕合わせ者だろう」

息子としては母親も一緒に連れて任地へ赴くつもりで
帰ってきたのだが、母視はもう年をとっていて
長途の旅には耐えられないし、
隣近所の人々が皆大事にしてくれるから、
このままこの土地にとどまりたいという。
赴任の期間も追っていることだし、やむを得ないので、
陳光蕊は急いで旅装を整えると、再び故郷をあとにした。

海州から江州への道はかなり困難な旅程である。
朝早く出発して、日が暮れると、旗籠屋に泊る。
それを繰り返しているうちに間もなく
洪江という河の渡し場に到着した。

見ると、渡し場にはあらかじめ知らせでも
あったかのように、ちゃんと船の用意が出来ている。
「さあ、どうぞ」
と船頭が出て来て、下にもおかぬもてなしぶりである。
まず下僕が荷物をおろし、続いて夫婦が乗り移ると、
船は渺々たる流れの中へと動き出した。
やがて日暮れになると、船は蘆の生えた
淋しい岸辺へ紛れ込み、気がついて見ると、
あたりには一隻の船の影も見えない。
「櫓の音がきこえなくなったわね。
 船が動かなくなったみたいだわ」
と船窓からそとを覗きながら、満堂嬌が言った。
「どれどれ」
と陳光蕊が顔を出すと、突然、蘆の中から
水鳥の騒ぐけたたましい声が湧きあがった。

それと殆んど同時にいきなり扉が
はげしい勢いで押しひらかれた。
見ると、
舶頭が血に染った刀を片手に握ったまま立っている。
「な、なにをするんだ?」
「騒ぐな。騒ぐと生命がないぞ」
と海賊の親分は陳光蕊の腕をつかまえ、
押すようにして甲板へ連れ出した。
おろおろしながらも満堂嬌は、
「乱暴をしないで! 
 欲しいものは何でもあげますから」
と海賊にすがりついたが、
その手を海賊は荒々しく払いのけた。
「お前は部屋の中でじっとしているんだ。
 おとなしくしねえとタダじゃおかんぞ」

女をもとの部屋へ押し込むと、
海賊は陳光蕊を船尾に引き立て、
うしろからバッサリと袈裟切りにして、
そのまま水の中へ押しおとしてしまった。

良人のうめき声と、続いて水しぶきの音をきいた満堂嬌は、
驚きのあまり息がとまりそうだった。
「さあ、これでよし」
と言いながら海賊の親分は扉をあけた。
満堂嬌は本能的に身を構えると、
急いで外へとび出そうとした。
が、その前に手を拡げて男は立ちふさがった。
「お嬢さん、お前さんを殺すつもりはないんだから
 心配するには及ばないぜ」
「いえ、離して下さい。
 私を行かせて下さい。
 私を死なせて下さい」
「お前さんを死なせるわけには行かないよ」
と親分は不逞不逞しい笑いを浮べながら、
「お前さんが死んでしまっちゃ、折角、
 苦心惨憺して計画したことがフイになってしまうからな」
「私を生かしておいてどうするつもりです?」
「そんなに怖い顔をして俺を見るなよ。
 お前さんは今まで通り陳光蕊夫人だ。
 そして、今日から江州長官陳光蕊はこの俺だ」
と親分は言った。

親分の本当の名前を劉洪といった。
劉洪は陳光蕊の辞令を盗み、衣冠を身につけ、
さらに嫌がる満堂嬌をむりやり女房にすると、
陳光蕊になりすまして、
江州へと乗り込んで行ったのである。

江州のお役所と長官の邸宅は
河の流れに沿ったところにある。
満堂嬌は邸の中から河を眺めながら、
涙に明け暮れる毎日を送っていた。
「何故、あの時、
 思いきって河の中へとびこんでしまわなかったのかしら」
と時々、後悔されてくる。
が、もう今となってはとりかえしのつかないことだった。

ここへついてしばらくの間は、
いっそあの河へ身投げしてしまおうと
何度考えたかわからない。
しかし、その度に彼女をひきとめるものがあった。
ほかでもない、
彼女の身体の中で新しい生命が成長しつつあったのである。

この新しい生命、短かった幸福のただ一つのカタミを
無事守り通すためには、彼女は生きなければならなかった。
不本意でもニセモノの陳光蕊とも
協力しなければならなかった。
母親の本能が彼女に女としての羞しさを忘れさせた。

一方、ニセモノの陳光蕊の方でも
殷丞相のバックあってのこの地位だと知っているから、
満堂嬌には思いのほかやさしくしてくれる。
やさしくされれば、徹底的に憎みきれないのが女の悲しさ。
そうこうしているうちにやがて臨月がきて、
ある日、彼女は産褥の床についた。
すると、耳元で
「満堂嬌よ」
と夢うつつのうちに自分をよぶ声がきこえてきた。
「私は南極星君だが、観音菩薩のお使いで、
 お前に子供をさずけにまいった。
 他日、この子は天下に名をなすことを約束されている。
 けれどもこの子は生まれながらに世のあらゆる悪党を
 敵にまわすだろう。
 悪党からこの子の生命を守るためには、
 生まれたらすぐ水に流せ。水に流すんだぞ」

目がさめると、
傍らには玉のような男の子が横たわっていた。
「この子を水に流すなんて、ああ」
と思わず涙がにじんでくる。
でももし水に流すことを躊躇していたら、
きっとあの男に殺されてしまうに違いない。
まだしも水に流す方が助かる可能性があるのだ。

満堂嬌は自分の指をかみきると、
着ていた自分の肌着を脱いでそれに子供の父親と
母親の名前を書きしるした。
そして、それで子供をくるんだ。
それから何を思ったか、
子供の足の小指に口を持っていくと、
力いっばいかみきった。
寝ていた赤児は火がついたような声をあげて泣き出した。
母親も泣きながら、赤児を抱きあげると、
すぐ裏手にある河の畔まで歩いて行った。
「もし天が私たちを憐れんでくれるなら、
 いつかまた顔を合わせる日があるでしょう。
 どうか許してちょうだい。
 おッ母さんを恨まないでちょうだい」

母親は木の板に生まれたばかりの赤児を縛りつけると、
ままよと歯をくいしばりながら河の中へ押し流した。
板の上の子供は目をとじたまま
すやすやねむりつづけている。
まるで河の流れが
彼に与えられた天然の揺り籠ででもあるかのように。

2000-09-27-WED

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