毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第六章 一粒の麦

二 母を尋ねて

さて、赤児を載せた木の板は
流れに沿って下の方へと流れおちて行った。

下流には金山寺という寺があって、
そこには法明和尚という住職が住んでいる。

ある日、和尚が河のふちをぶらぶら歩いていると、
突然、どこからともなく赤ん坊の泣き声がきこえてきた。

不思議に思って周囲を見まわすと、
声はどうやら蘆の間からきこえてくるらしい。
急いで裸足になると、老和尚は水の中へ分けて入った。
と、水草の間に板が一枚ひっかかっていて、
その上に赤児が縛りつけてある。
「やれやれ、また捨て児か」
とつぶやきながら、和尚は子供を抱きあげた。
見ると、赤児を包んだ肌着には血書がついている。
ひろげて読んでみると、
何と江州の長官と奥方の名前ではないか。
「こいつは何か特別の仔細があるに違いない。
 貧乏人のイタズラにしては少し度がすぎているようだ」

そう思って眺めると、生まれたばかりの赤ん坊であるが、
その顔立ちには何となく気品が備わっている。
法明和尚は子供を寺へ連れて帰ると、
里の人に頼んで育ててもらうことにした。

月日の経つのは早いもので、
それから十八年の歳月がすぎた。
河の中の捨て児は今では立派な青年である。
眉目秀麗で、頭がよくて、
もし彼を尋常な人間と同じスタートラインにつかせたら、
恐らく父親同様たちまち状元合格間違いなし
というところであろう。
しかし、生まれた時から父を知らず母を知らない
天性の孤児にとって、
人並みの立身出世は最初から問題にならなかった。
彼は育ての親ともいうべき法明和尚をただ一人の師と仰ぎ、
そのすすめに従って頭をまるめて坊主になった。
和尚は彼に玄奘といぅ法名を与えた。
これがのちの三蔵法師である。

若い玄奘は同じ坊主の中でも
いわゆる優等生の坊主である。
そして、どこの世界でもそうであるが、
この優等生も同僚の間では評判が悪い。
「や−い。牝犬の子!」
と坊主の同僚たちは喧嘩になると、
必ずのように彼に向って毒づく。
優等生は落第坊主など眼中にないから、
売られた喧嘩でも買おうとはしないが、
その度に人知れず悔し涙をのんだ。
「人には皆それぞれ父や母がいるのに、
 どうして私にだけは一人もいないのでしょうか?」
と、ある日、思いあまって玄奘は師匠にきいた。
「お前にだって勿論、父や母はいるよ」
と法明和尚は答えた。
「けれども出家というものは仏につかえる身だから、
父や母への愛に恋々としているようじや駄目だ」
「それはわかっています」
と玄奘は泣きそうな顔をしながら、
「私を捨てた父や母のもとへ
 今更帰りたいとは思いませんが、
 でもその名前さえわからないのかと思うと、
 つくづく世の中は
 不公平に出来ていると恨めしくなります」

法明和尚は端坐したまま若い弟子の表情を
じっとみつめていたが、何を思ったか、
「そんなに父や母のことが気になるのかね?」
と言った。
すると、今までこらえていた涙が
堰をきったようにドッと溢れ出てきた。
和尚は玄奘が泣きやむまで辛抱強く待っていた。
「そんなに俗世のことが気になるようでは
 到底立派な坊主にはなれまい。
 今までお前には知らせない方がよいと思っていたが、
 考えてみれば、お前ももう一人前の男だ。
 自分のことは自分で判断がつくだろう」

そう言って和尚は玄奘を方丈へ連れて行き、
自分で天井裏から一つの小箱をおろしてきた。
中をひらくと、もう古くなった女の肌着が一枚入っている。
「これがお前を包んでいた肌着だ。よく見てごらん」

言われた通り、玄奘は肌着をひろげた。
と、そこには黒く凝結したような文字で、
陳光蕊殷温嬌と書かれている。
「陳光蕊?」
と玄奘は思わずつぶやいた。
「陳光蕊というと、江州の長官ではありませんか?」
「その通りだ」
と和尚は大きく頷いた。
「では江州の長官が私の父親?」
と玄奘は反問した。
「どうして、どうしてそんなことがありうるでしょうか。
 もし私の父親が長官だったなら、
 どうして私を捨てたりするのでしょうか?」
「それは儂にもわからない。
 お前がこの肌着に包まれて儂のもとへ現われた時、
 とにかくこの文字が書かれていた。
 もし儂が探偵小説家なら
 色々とせんさくして見ただろうが、
 あいにくと儂は世俗の出来事には
 大して興味がないのでね」
「この肌着を私にいただけませんでしょうか?」
と玄奘はきいた。
「いいとも。もともとこれはお前のものなんだから」

乞われるままに法明和尚は肌着を玄奘に与えた。

肌着を胸に抱きしめて玄奘は自分の部屋へ戻った。
たとえ他人のイタズラであったとしても、
自分の父親と母親について新しい事実を知らされたことは
大きなショックだった。
色々な妄想が若い玄奘の心をとらえる。
当然のことながら、由分の出生にまつわる謎を
解きあかしたいという衝動が湧き起ってくる。
「お師匠さま」
と玄奘は法明和尚の前におそるおそる申し出た。
「一週間ほど托鉢に出たいと思いますが、
 お許しいただけませんでしょうか?」
「江州の城下へ行くのかね?」
「ハイ」

さすがに嘘は言えなかった。
法明和尚は静かな微笑を浮べながら、
「行ってくるがよい。
 しかし、世の中には真相を知ることが
 かえって仇になる場合があるものだ。
 真実に耐えるだけの勇気と覚悟は持っているだろうね?」
「持っているつもりです」
「それなら儂としては何も言うことはない。
 利口なお前のことだから十分承知だと思うが、
 この秘密の鍵を握っているものは、
 まず男ではなくて女だろう」
「私もそう思っております」

玄奘は師匠に別れを告げると、托鉢僧に身をやつして、
河沿いの道を江州さしてのぼって行った。

江州の役所は探すまでもなくすぐ見つかった。
「衙門は八字に開かれている、
 金のないものは入るべからず」
と諺にもあるように、役所の門は誰にとっても鬼門である。
玄奘は門前を素通りすると、
すぐ隣りにある官邸の私用門の前へ立った。
鐘を叩きながら、お経を念じはじめると、
なかから一人の中年の女が顔を出した。
年恰好や服装から見て、どうやらこの邸の令夫人らしい。
「あなたはどこから参りました?」
とききながら、何気なく玄奘の顔を覗いた夫人は、
突然、ハッと驚いたような表情になった。
「私は金山寺の法明和尚の弟子でございます」
と玄奘が答えると、
「ああ、金山寺の …… 」
驚きをかみ殺すようにして夫人は言った。
「今、ご飯の用意をさせますから、お急ぎでなかったら、
 中へ入ってちょっとお休みになりませんか」
「ハイ、どうも有難う存じます」

夫人に案内されて、玄奘は邸の中へ入った。
すぐ精進料理が運ばれてきた。
玄奘がそれを食べている間じゅう、
夫人はそばに坐ったまま、じっと様子を眺めている。
見れほ見るほど、二十年前の良人によく似ているのである。
「お坊さんは子供の時に出家されたのですか?
 それとも最近になってから出家されたのですか?」
と婦人はきいた。
「私ですか」
と言いながら玄奘は夫人の顔を見つめた。
「私には父も母もございません。
 お師匠さんに拾われて育てられたのです」
「どこで?」
「お寺のそばを流れている河だそうです」
「まあ、いつのことなんですの?」
「十八年前です」
「十八年前!」

夫人は低い叫び声をあげた。
そして、そのまま卒倒しそうになって
危うく椅子にもたれかかった。

玄奘は自分の懐から十八年前の肌着をとり出して見せた。
しかし、それを見ても夫人は見覚えがないのか、
にわかに立ちあがると、
「お坊さんがお帰りだよ」
と奥へ向って叫んだ。
下女たちがあわててとび出してきた。
「お坊さんはこれからどちらへ参ります?」

下女たちのいる前で夫人はきいた。
「金山寺へ帰ります」
「じゃ道中くれぐれも気をつけて」

皆に送られて外へ出た玄奘は、
うしろをふりかえってお礼を言おうとした。
だが、夫人はすでに奥にひっこんだらしく、
そこには姿が見えなかった。
「やはり俺の思い過ごしだったのか」

さすがに失望の色を禁ずることが出来ず、
玄奘は黙々として重い足をひきずった。

2000-09-29-FRI

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