毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第六章 一粒の麦 |
三 出 奔 玄奘を送り出した満堂嬌はその場に坐りこんでしまった。 何で十八年前のことを忘れることが出来よう。 門前に立った若い僧侶の姿を一目見た瞬間、 彼女は良人の亡霊が突如現われたのではないかと 思ったほどだった。 古い肌着を見せつけられるまでもなく、 あの坊さんが自分の子供であることはわかっている。 しかし、今の彼女はもはや十八年前の彼女ではなかった。 陳光蕊をカタる劉洪は 彼女の最初の良人を殺した悪党であったが、 今の彼女はその悪党の連れ合いである。 十八年も一緒に暮らせば、 喪服でも朱く染まろうというものだ。 それに劉洪は陳光蕊をカタっても バレないだけの才覚を持った男であった。 領内での評判もそう悪くはなかった。 もう昔のことを殆んど諦めてしまった今になってから、 突然、息子の立派に成長した姿を見た彼女は、 一体喜んでよいのか、それとも悲しんでよいのか、 自分でも解らなかった。 けれども母であり子であることを お互いに名乗り合う機会もなく、 そのまま玄奘を追いかえしたことは 彼女としては胸をしめつけられる思いだった。 それだけに、息子と二人だけになる機会をつくって 人には言えないこの胸のうちを打ち明けたいという希望は、 何にもまして強かった。 翌日から彼女は病気になった。 床に寝ついたきり、飯も茶も一切受けつけない。 劉洪は城下の名医を呼んだ。 薬が盛られたが、彼女の胃袋はそれを一切受けつけない。 「困ったことになったな」 と劉洪は頭をかかえた。 「どうして病気になったのか私は自分で知っています」 と夫人は言った。 「子供の頃、私はお寺さんに坊さんの穿く靴を 百足奉納する願い事をかけたことがございます。 ところがそれを怠けていたら、 この間の晩、 坊さんが手に刀を持って夢枕に立ったのです。 その晩から急に具合が悪くなってしまいました」 「なあんだ、そんなことなら早く言えばよかったのに」 劉洪は役所に出ると、早速、領下の百姓に命じて、 百足の僧靴をととのえさせた。 「この江州の領内で有名なお寺といえば 金山寺と焦山寺とあるが、どちらにするかね?」 と彼は、妻にきいた。 「金山寺ってのは好いお寺だときいていますから、 その方にしましょうかしら」 「でも金山寺の方が遠いぞ。身体は大丈夫か?」 「ええ、靴を納めることにきめたら、 急に元気になりましたわ」 そこで、劉洪は部下に船の用意をさせ、 夫人は腹心の下女を連れてそれに乗り込むと、 一路、金山寺へと向った。 すっかり意気沮喪して金山寺へ戻ってきた玄奘が 茫然としているところへ、 突如、長官夫人がお寺参りに来るという知らせが入った。 彼は法明和尚に従って、長官夫人の行列を迎えに出た。 夫人は山門を入ると、まず菩薩の前に額づき、 続いて盆の上に靴と靴下を載せて法堂へ進んだ。 そこで、焼香をして礼拝を終えると、 夫人は喜捨の品々を僧たちに頒ち与えるよう 法明和尚に伝えた。 手に手に品物を渡された僧たちは 一人ずつ法堂から出て行く。 最後に玄奘と長老と夫人だけが残された。 「あなたのお靴は大分いたんでおりますね」 と夫人は言った。 「私がとりかえてあげましょう」 「いいえ、そんな勿体ないこと!」 と玄奘はあわてて足をひっこめた。 「折角のご好意だから、この場でかえたらいいだろう」 と脇から和尚が口添えをした。 「それでは失礼してかえさせていただきます」 玄奘は自分で靴を脱ぎ、続いて靴下をぬいだ。 すると、左足の小指の先が欠けているのが現れた。 「ああ、やっばり…… 」 と言ったきり、夫人の眼からポロポロと 大粒の涙がこぼれおちてきた。 「じゃ、やっばりお母さん…… 」 と玄奘は母覿のそばに駈けよった。 母と子は抱きあって、二人とも声を立てて泣き出した。 「私はね、お前に向って、 お母さんだといえる資格はないんだよ。 お前に合わせる顔はないんだよ」 「いいえ、そんなことおっしゃらないで下さい。 そんなこと…… 」 「でも私の気持はわかっておくれ。 そうする以外にお前を助けることが出来なかったんです」 母親は遠い昔の話をした。 それをききながら玄奘の顔は怒りのため カッカッと燃えた。 平和と慈悲を信条とする僧侶の表情というより、 それは闘争と復讐心に燃えた夜叉の顔つきであった。 「お前の無事な姿を見たから、もう私はいつ死んでもよい。 もう思いのこすことはないよ。 ただどうか長老様のご恩を忘れないでおくれ。 お前の生命の親は、私でもなければ、 お前のお父さんでもない。 長老様こそほんとのお前の親です」 そばできいていた法明和尚は、 「さあ、奥様、早く外へ出て下さい。 他人に気づかれると、 折角の再会が水の泡になってしまいますよ」 とせき立てた。 「では長老様のお教えに従って 立派な坊さんになるんですよ」 法堂を出ながら、夫人はうしろをふりかえって言った。 「それから私のことは心配しないでおくれ。 自分のことは自分で始末をしますからね」 涙と共に母親を送り出した玄奘は、 事の真相を知れば知るほど怒りが頭にのぼってきた。 聡明というだけで世間知らずの二十前の青年には、 女の気持など到底理解出来る筈がない。 母親から良人を奪い、 自分から父親を奪った悪党に対する憎悪だけが 雲のように湧きあがってくる。 それを完全に抑えるだけの人間的修行は まだ彼のものではない。 「出家というものはいかなる場合でも 殺戮とは反対の立場をとるものだ」 と法明和尚は言った。 「この頃のお前の表情を見ていると、 どうも殺気が漲っている。 当分、お前は山門から出てはならぬぞ」 「ハイ」 と答えはしたものの、 玄奘の心はすでに山門の中にはなかった。 お経を読んでいる時も坐禅を組んでいる時も、 また夜寝ている時も、彼の頭にこびりついているのは 復讐ということだけであった。 このままではいくら修行をしても無駄である。 生命の恩人であり、育ての親でもある 師匠に対して申し訳がないが、 時と共に、この気持はますます強くなっていくばかり。 とうとう彼は決意を固めた。 そして、ある日、ふだんの服装のまま山門から脱け出すと、 そのままうしろもふりかえらずに、 俗人どもの歩く道へ向って駈けおりて行った。 |
2000-09-30-SAT
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