毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第七章 地獄道中記 |
一 夢に竜を斬る 「あなたの生命を助けることの出来る人は」 と守誠先生は筮竹を握りしめたままで言った。 「それはこの大唐長安国を治めている太宗皇帝だけです」 「太宗皇帝が?」 と美青年に化けた河竜王は不審そうな眼付をしながら、 「こう見えても私は この長安の都がまだ一面の荒野であった頃から 河を支配してきた一国一城の主です。 天地自然の序列から申せば、 私の方が大先輩であるばかりでなく、 恐らく私のなめた塩の方が 太宗皇帝の食べた米の飯よりまだ多いでしょう。 その私をどうして太宗皇帝が助けることが 出来るのてしょうか?」 「いくら水を鏡にしているとは言え、 あなたのナルシシズムは相当なものだ」 と占い先生は笑った。 「今やあなたは永遠に葬り去られようとしているのですよ。 それだのにまだ華やかなりし時代の夢が 忘れられないとは!」 「運命の不可思議について 私は何も知らないわけではありません。 でもなぜ、 私が太宗皇帝に頭をさげなければならないのか、 その理由が知りたいのです」 「明日の午後一時半にあなたは魏徴の手にかかって 殺されることになっているのです」 と守誠先生は真面目な表情に戻って言った。 「魏徴と言えば、 太宗皇帝の丞相をしているあの魏徴のことですか?」 「そうです。 太宗皇帝だけがあなたを助けうる立場にあると 私が申した意味がわかりましたか?」 「ハ、ハイ」 「では太宗皇帝に頼んでごらんなさい。 この際、皇帝の情だけが 利刀持つ手をゆるめさせることの出来る 唯一の力なのです」 来た時の勢いはどこへやら。 涙とともに占星館を辞した河竜王には、 今さら水府へ帰るい気にもならず、 さりとていきなり王宮にもぐりこむには時間が早く、 ただあてもなく長安の街を重い足をひきずりながら うろつきまわった。 すでに太陽は西に沈み、路人は旅籠へ、 鴉は巣へとそれぞれ姿をかくし、 遥かなる空には乱れとぷ星の光ばかり。 夜はいよいよ深くなって、ふと気がつくと、 たったひとり王宮の門のあたりを歩いていた。 やがて真夜中になった。 太宗は宮女の肱を枕に 「お前は可愛い女。 夢の中でも忘れない」 などと戯れていたが、 いつの間にか静かなイビキをかきはじめている。 すると、彼の魂はそっと肉体を脱け出し、 花の咲き乱れた庭園を通り抜け、 番兵の立った宮門をくぐって、夜の路上へと出て来た。 すぐその正体を見破った竜王は急いでそばに駈けよると、 その前にひざまずいた。 「陛下。 どうか私の生命をお助け下さい。お願いでございます」 「お前は何者だ」 と太宗はきいた。 「私は河竜王です。河の主です。 賭けに熱中したあまり、天命を無視して 降らすべき雨を懐にしまいこんでしまいました」 「なるほど、それで目から涙の雨というわけか」 「冗談を言っている時じゃありません。 明日になると、私はあなたの部下の魏徴に 殺されることになっているのです。 ご慈悲ですからどうぞ憐れみを垂れて下さい」 と竜王はコンリョウの袖にすがりついた。 「あなたが河の竜なら、私も人の竜。 お互いに竜よ虎よと言われる身のつらさがわかる同士だ」 と太宗はつぶやいた。 「魏徴に殺されるのが本当だとしたら、 私が何とかとりなしてあげられるだろう。 まあそう気をおとしなさるな」 「有難う存じます」 と竜王はにわかに顔を綻ばせながら、 「陛下こそは本当に竜の中の竜、 私は年輪を重ねただけの因業な竜にすぎません。 もし幸いにして私が首切り人の刀を 免れることが出来ましたら、 いつかまたご恩返しをする時もありましょう」 そう言って竜王は頭を地につけた。 さて、夢から醒めた太宗は、気がついて見ると、 美女に背中を向けたまま臥所の中に横たわっている。 夢とは思えないような鮮かな印象が、 まだ頭の中に残っている。 朝が来て、政事をきく時間になった。 孔雀模様の屏風を背景にした、 目もさめるような麒麟殿に太宗がおでましになると、 居並ぶ群臣が一せいに 「万歳」 を叫んだ。 帝王の萌を見る度に「万歳」を叫ぷ風習は、 その昔、この土地に漢という国があって、 その国を支配した武帝という皇帝が 嵩山という山の頂上に登った時、 群臣が思わず「万歳」を三唱して以来のことである。 しかし、いくら万歳を三唱しても、 千歳はおろか百歳の寿命を保った帝王すらかつていない。 いや、帝王業はあらゆる職業のうちで 恐らく最も平均寿命の短いものであろう。 それだからこそ「万歳」とオセジを言われるのだが、 それが習慣となって毎日毎日、 「万歳」と呼ばれるようになると 一向に嬉しくもないものである。 太宗は次々と重臣に謁見を賜わった。 いつもなら、目をあけているのか、とじているのか、 一体きいているのか、きいていないのか、 自分でもわからないょうな謁見ぶりだが、 今朝は昨夜の夢が頭にこびりついているので、 群臣の顔を一人一人注意して眺めている。 すると、不思議なことに魏徴の姿だけが見えないのである。 太宗はお気に入りの徐世勣をおそば近く呼びよせると、 「実は昨夜、こういう夢を見たのだが」 と小さな声でうちあけた。 「夢というものは信用出来るものかどうかわからないが、 ついうっかり安請合いをしてしまったのでね、 今更、前言を取り消すわけにもいかないのだ」 「恐れながら、陛下には “荘子”をお読みになったことがございましょうか」 と徐世勣は答えた。 「ある時、荘子は蝶になった夢を見たそうでございます。 ひらひらと花から花へと舞いおりて 実に楽しかったのですが、 間もなく目がさめてしまいました。 これが俗人なら、ああ、さっきのは夢だったかと 簡単に片附けてしまいますが、 荘子は、待てよ、さっき蝶になっていた時、 自分には人間という意識はまるでなかったではないか。 とすれば、今の自分は 蝶が人間になった夢を見ているのかも知れないぞと 考えなおしたそうでございます。 アレが夢で、コレが現実だなどと、 そうやすやすと片附けられるものではございません」 「いや、私もそう思っていたところだ」 「それならば、ともかく、 今日一日、魂徴をお召しになって、 ずっとおそばにひきとめておかれては いかがでございましょうか。 そうすれば、夢の中でお会いになった竜王を 助けてあげることが出来るかと存じます」 「そうだ。そうすることにしよう」 太宗皇帝はさっそく、使者を魏徴邸につかわされた。 魏徴は風邪気味で床についていたが、 宮中から迎えが来ると、 あわてて服を着かえてただちに参内した。 麒麟殿にはまだ群臣が控えていたが、 太宗は、御簾をおろさせて退朝を宣すると、 ただひとり魏徴をあとにひきとめた。 「御老体をわずらわしてまことにお気の毒だが、 今日はひとつ私とつきあってくれぬか」 「有難き仕合わせでございます」 と魏徴は太宗のあとについて居間の方へ入った。 丞相の方では太宗が何か経国の策について 特別の相談でもあるのだろうと思っているので、 まず外交から始まって内政軍事万般にわたって、 私見を述べはじめる。 太宗はウムウムと柏槌を打っていたが、 それもひとわたり終ると、十二時に近くなっていた。 「久しぶりだから、一局やろうじやないか」 と太宗は官女たちに命じて、 大きな将棋盤を持って来させた。 二人は将棋盤を間に挟んで向いあった。 魏徴は年をとったせいか莫迦に息が長くなって、 一つの駒を動かすにも長い間考えつづけている。 まだ一局が終らないうちに時計は早くも 午後一時半にさしかかっていた。 と、その時、魏徴はにわかに眠気を催して、 将棋盤に顔を伏せたまま居眠りをはじめた。 「お年寄り、よほどネジがゆるんだと見えるわい」 と太宗は笑いながらも、相手がいびきをかくに任せている。 そのうちに魏徴はハッとして目をさました。 「ああ、とんでもない粗忽をしてしまいました。 全く不覚でした。どうかご容赦のほどを」 「容赦するもしないも、 さあ、あとをつづけることにしよう」 と太宗は促した。 「今度は、大長考だったようだから、 いい手が見つかっただろう」 「いやはや」 と頭をかきながら魏徴が駒を持ちあげようとすると、 宮門のあたりで何やら大騒ぎをしている声がきこえてくる。 やがて秦叔宝と徐茂功の二人の武将が 息せききってとび込んできた。 「申しあげます。申しあげます。 世にも不思議なことが起りました」 見ると、二人の手に血まみれの竜頭が抱えられている。 「さきほど、千歩廊の南にある十字路に この竜頭が天から落ちてまいりました」 「何だって!」 と太宗は顔色を変えた。 「実は私め、さっきうつらうつらした途端に 竜を斬った夢を見たところでございます」 と魏徴がそばから言った。 「そんなバカなことがあるものか」 と太宗は叫んだ。 「さっきご老体がいびきをかいているのは見ていたが、 ここから一歩も出て行ってはいないぞ。 な、そうだろう」 「ハイ、確かにその通りでございます。 でも目をとじている間に、 私はいつの問にか雲にのせられて 上空へのぼって行きました。 見ると、俎板のような断頭台に 竜が一匹縛りつけられているのです。 それで、私が刀をふりあげて、えいッと打ちおろすと、 確かに手応えがあって竜頭はそのまま 遙か下の方へとおちて行きました」 「ウーム」 と太宗は大きな唸り声を立てながら、 どッかと椅子の上に尻餅をついてしまった。 |
2000-10-03-TUE
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