毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第七章 地獄道中記

7章 地獄道中記

二 冥土への道

その夜から太宗は気が変になった。

夜、寝床の中に入っていると、どこからともなく
悲々切々と鬼の泣くような声がきこえてくる。
うつらうつらしていると、首のない河竜王が、
血まみれになった自分の首を両手にもって、
「出て来い。出て来い。
 さあ、俺の生命をかえしてくれ」
と叫んでいる。

それを見ると太宗は背を向けて必死になって駈け出した。
しかし、竜王はどこまででも執拗についてくる。
「お前は俺を助けると約束したではないか。
 約束はいつでも破ってよいというのが
 お前たち人間世界のならわしなのか。
 それとも約束を破ったものだけが
 お前のように帝王の地位を保つことが出来るのか。
 さあ、行こう。
 行って閻魔の前で白黒をはっきりつけてもらおう」

太宗は思わず顔を覆った。
身体中から汗がにじみ出るような気がした。
「助けてくれ」
と彼は大きな声で叫んだ。
「幽霊だ。幽霊だ。幽霊が出た!」

宮殿中がひっくりかえるような大騒動になった。
夜が明けるとすぐ侍医が呼び入れられたが、
やがて出て来た侍医は神妙な顔付をしながら、
「脈がくるい出して、
 心臓がだいぶお弱りのようでございます。
 恐らく二週間とはもちますまい」
それをきくと、重臣たちは生色を失った。

侍医と入れかわりに、徐茂功、秦叔宝、胡敬徳らの
武将が呼び入れられた。
太宗は寝床の中に横たわったまま、
「思えば十九の時から、
 卿らと兵を率いて東奔西走したなあ。
 あの頃は若かったせいか
 幽霊などに出会いもしなかったが」
「国を建てるためには無数の人間を
 殺すことさえ恐れなかったのに、
 何で幽霊ごときを恐れることがありましょう」
と胡敬徳が言った。
「卿らには笑われるかも知れないが、
 夜になると、瓦をふみくだきながら
 幽霊が泣き叫ぶ声がきこえてくるのだ」
「ご心配には及びません。
 今夜から私どもが不寝の番をやります。
 どんな顔立ちの幽霊か、ひとつ見届けてやりましょう」
と秦叔宝が言った。

夜陰に入ると、胡敬徳、秦叔宝の二将軍が
それぞれ甲冑に身をかためて宮門のそとに立った。
すると、その晩に限って幽霊の泣き声がきこえず、
太宗は安らかなねむりにつくことが出来た。
しかし、夜があけても食欲は一向すすまず、
病状はますます重くなって行くばかりである。

二、三日はそのまま無事にすぎたが、
今度は後門で瓦をふみくだく音がしだした。
恐怖のため一晩中、一睡も出来なかった太宗は
息も絶え絶えになっている。
「今夜から後門は不肖私が守りましょう」
と魏徴が自ら申し出た。

すると、その晩から、前後門とも鬼畜の悲鳴はやんだが、
太宗の体はすっかり衰えて、もはや死を待つばかりである。
宮廷では太宗なきあとの後嗣の問題で、
連日、重臣会議が開催されている。
いよいよ、崩御が近づくと、魏徴は太宗の前に進み出て、
「陛下、一言、陛下のお耳に入れたいことがございます」
「もう何事をきいても無駄だよ」
と太宗が力なげに答えると、
「いえ、あの世に行ってからのことなのです」
と魏徴は太宗の耳もとに口をよせた。
「ここに冥土で生死簿をあずかっている
 崔判官あての手紙がございます」
「崔とは誰のことだ?」
「先帝の時分に礼部侍郎をやっていた男でございます。
 私とは親交がありましたが、
 冥土へ行ってからは都判官、
 つまり人間の生や死を記録した帖簿を管理する役に
 任命されております」
「どうしてそのことがわかる?」
「今でも時々、夢の中で会っているのです。
 私のこの手紙をお持ちになれば、あの男はきっと
 陛下のためにうまく取りはからってくれるでしょう。
 金を山と積んでもなかなかウンと首をたてにふらない
 男だが、義理人情にはもろい男ですから」
「そうか。そんな無形文化財が今時、
 冥土にはまだのこっているのか」

太宗は魏徴の手紙を袖の中へ入れると、
そのまま遂に息絶えてしまった。
皇后や嬪妃や太子らに見守られながら、
太宗の屍体が白虎殿へ移されたこというまでもない。

さて、肉体を脱け出した太宗の霊魂は
五鳳楼の前を通り抜けると、
近衛部隊が整列しているところへ出た。
「そうそう。今日はこれから狩に出かけるんだったな」

用意された御車に乗り込むと、車は音もなく動き出した。
どのくらい行っただろう。
ふと気がつくと、あれだけたくさんいた兵隊も馬も
いつの間にか消え失せて、
彼はただひとり荒野の中を歩いていた。
「大へんなことになったぞ」

生まれてからこの方、
ひとり歩きなどたった一度も経験したことのない太宗は、
不安の色をかくすことが出来なかった。

すすきの生えた中を、
彼は泣きそうになって歩きつづけた。
すると、
向うから一人の男がすすきをかきわけて近づいてくる。
「太宗皇帝ではございませんか?」
見ると、黒い帽子に黒い装束、
足に脚絆をまいた下ッ端役人である。
「お前は何者だ?」
と太宗はきいた。
「冥土から迎えに参りました」
とその男は答えた。
「すると私はもう死んでしまったのか?」
「われわれと顔を合わせた時は、誰でも百年目ですよ」
と役人は黒い顔の中から白い歯を出して笑った。
あまり品のよさそうな風貌ではない。
懐中から縄をとり出すと、
役人は孫悟空を縛った時のように、
太宗の身体にも縄をかけようとした。
「私は長安大唐国の皇帝だぞ」
と太宗は大きな声で叫んだ。
「皇帝だろうが、法皇だろうが、
 そんな肩書には驚きませんぜ」
と役人は鼻先でせせら笑いながら
「あんたは陽間では皇帝だったかも知れんが、
 ここへ来たら、ただの乞食だ」
「そんなことがあるものか。
 私は地大博物の広大な領土と数億の人民を所有している。
 必要とあらば、顎を動かしただけで何千万両の金を
 たちどころに徴発するだけの実力を持っている」
「ハハハハ …… 」
と小役人は笑った。
「あんたはまだ天地宇宙の原理をご存じないと見えますな。
 近頃、陽間でも宇宙物理学者がようやく
 気づきはじめたらしいが、
 陰と陽は何から何まで逆になっていて、
 陽間の権力者は陰間の弱者ということになっている。
 陽間で一億円ためた人間は、
 陰間では一億円の借財になって現われるのですよ」
「もしそれが本当だとしたら、陽間には貧乏人が多いから、
 陰間にはずいぶん金持が多いことになるじやないか」
と太宗は反駁した。
「どう致しまして。
 貧乏人はここでもやっぱり貧乏人ですよ。
 なぜって、
 貧乏人の借金なんてたかが知れていますからね」
「なるほど」
と太宗は我を忘れて感心している。
「ところで、どうだね、
 ひとつ私をこのまま放してくれぬか。
 もし私を無罪放免してくれたら、
 お前の欲しいだけの金を、
 お前の指定したところへ送金してあげるよ」
「そうは行きませんよ。
 あんたを連れて帰らなかったら、
 明日から私は失業ですからね」
「だからさ、失業しても一生、
 左団扇で暮らせるだけの金を
 送ってやると言っているんだ」
「今、ここで金を並べてみせるなら話は別ですがね」
と小役人はニヤニヤ笑いながら、
「人間が困った時にした約束などあてになるものですか」

太宗は相手の態度を見て与しやすしとふんだ。
そこで懐中に手をつっこんで見たが、
生憎と持ち合わせがない。
袖の中に手をやると、何やら書類が手にふれた。
魏徴が別れ際に渡してくれた手紙であることを
彼は思い出した。
「よし、縛れるものなら縛って見ろ」
と太宗は急に強気になった。
「私は悪いこともずいぶんやったが、
 いいこともたくさんやってきたはずだ。
 閻魔大王のもとで働いている高位高官の中には
 昔の私の部下が何人かいる。
 もしお前が私に無礼を働いたら、
 お前が金を欲しがったと言いつけてやるぞ」
「まあ、そう腹を立てないで下さい。
 さっき言ったことは冗談です」

小役人は急におとなしくなって、
いったん出した縄を再び袖の中へしまい込むと、
「ではご一緒に参りましょう」
と先に立って太宗を案内した。

2000-10-04-WED

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