毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第七章 地獄道中記 |
三 地獄の沙汰 しはらく行くと、やがて幽冥府の城門が見えて来た。 近づいて見ると、烏帽子に黄金色の束帯をした一人の男が 城門のそばに立っている。 男は太宗の方へ向ってすり足で走ってくると、 「お出迎えにも参りませず、まことに失礼申しました」 と鄭重に頭をさげながら、 「私はむかし宮廷に仕えました崔でございます」 「あなたが元礼部侍郎の崔か」 太宗はあわてて答礼をかえしながら、 「実はここへ来る前に魏徴から 手紙をことづかってきましたよ」 と袖の中から信書をとり出して崔に手渡した。 崔が開いて見ると、次のように書いてある。 「賢兄が陽間を去ってより早くも数載。 愚弟は事あるごとに在りし日の賢兄を思い出し、 懐旧の念に耐えない。 陰と陽のカーテンを距てては昔日の如く 自由に往来も出来ないが、 幸い、夢の中で賢兄の消息を知り得て、 ひそかに安堵の胸を撫でおろしている。 この度、太宗皇帝が河竜王の事件に連坐して にわかに旅立つことになったので、 いずれお目にかかられるものと存じ、 この手紙をことづけた。 どうか在りし日の交情に免じて、 陛下が無罪放免になるようくれぐれもご尽力願いたい。 なお年々、 祭日の折に心ばかりのものをお送りしているが、 お受けとりのことと思う。 辱愛弟魏徴、頓首書拝」 判官は手紙を読み終ると、喜びをかくしきれず、 「魏丞相が夢に竜を斬ったことは、私も承知しております。 河竜王は陛下が約束をしながら、 それを果されなかったために、 閻魔大王のところへ訴えて来ていますが、 私がここにおりますからには、 微力ながら出来るだけのお手伝いはいたします」 「どうか宜しく」 と太宗は頭をさげた。 間もなく二人は城下へ入った。 見ると、街の中には乞食がうようよしていて、 その中には先主の李淵や先兄の李建成や 故弟の李元吉らがまじっている。 彼らは口々に、 「世民が来た!」 「世民が来た!」 と叫びながら、太宗の周囲をとりまいた。 李世民とは太宗の本名で、 若かりし日の太宗は帝位をめぐつて兄弟と争い、 兄と弟が自分を殺害しようと計画したのを察知したので、 機先を制して二人を殺したことがある。 そんないきさつがあるだけに、 建成と元吉は待っていましたとばかりに、 「さあ、ここへ来たからには、今度はお前が新入りだぞ」 とたいへんな喜びようである。 崔判官が部下の青鬼に命じて追っ払わなければ、 それこそ一歩も先にすすめないような 乞食の弥次馬なのである。 「どうして冥土はこうも不景気なんだろう」 と太宗は首をかしげた。 「これが陽間ならたちまち革命が起って、 共産主義の天下になってしまいますよ」 「冥土は昔から共産主義制です」 と崔判官は答えた。 「ご存じだと思いますが、 幽冥府のクレムリンは森羅宝殿と申しまして、 十代閻王という十人の実力者によって 集団指導されております」 「十人の実力者とは誰々ですか?」 「秦広王、初江王、宋帝王、件官王、閻羅王、平等王、 泰山王、都市王、下城王、転輪王の十人です」 「ずいぶんややこしい名前ばかりですね。 その中で、本当に実力を持っているのは誰ですか? やはり閻羅王ですか?」 「いやいや」 と崔判官は首をふりながら、 「ひところは閻羅王が勢力を得ていたことがありましたが、 衛星国めぐりをしている間に空巣をねらわれましてね、 今は秦広王が勢力を得ています」 「じゃ万事が秦広王の胸三寸の中にあるわけですか?」 「今のところは、まあ、そういったところでしょうね」 「秦広王は何がお好きですか? 酒などは飲みますか?」 「秦広王の大酒飲みは有名ですよ。 何しろウォートカのような強い酒を ジョッキになみなみとついで乾杯をやりますからね」 「そうと知ったら、 我が国の銘酒をうんと持参するんだったな」 と太宗は残念そうに崔判官の顔を見あげた。 「まあ、ご心配になるほどのことはありませんよ」 と判官は小声で言った。 「この冥土にも全く問題がないわけではありませんから、 秦広王は自分の地位を維持する必要上、 異国の君主に対しては案外寛大に振舞うと思います」 二人が話をしながら歩いているうちに、 いつの問にか森羅宝殿の前に着いた。 見ると、ききしにまさる大げさな建物で、 およそ人民の国とは思えないような貴族趣味である。 廂には美しい翡翠や玉が 惜しげもなく象眼に使われているし、 門前に並ぶ一対の大きな照明燈は黄金で作られている。 太宗が近づくと、赤い絨緞を敷きつめた階段から 秦広王を先頭に十人の閻王がぞろぞろと下りてきた。 秦広王は太宗のそばへ駈けよると、 いきなり太宗の小さな身体に抱きついて、 あっと思う間もなく、太宗の唇にキスをした。 太宗はびっくり仰天して あやうく階段から転げ落ちそうになった。 「よくぞおいで下さった。 われわれは同じ東洋人だから、兄弟のようなものだ」 と太宗の肩を物凄い力で叩く。 太宗はあわてて両手を組み合わせると、 「いやいや、罪を得て麾下に参じた今日の身の上。 何で兄弟の礼をお受け出来ましょう」 そんな君子の礼など薬にしたくもないような顔をしながら、 秦広王は先に立って太宗を殿上に案内した。 先代閻魔大王の大きな肖像画が壁一ぱいに並んだ 広い部屋に通されると、太宗は上座に坐らされた。 「時に河鬼竜から陛下が同盟を無視して 闇討ちにしたという訴えが来ているのですがね」 と秦広王が口をひらいた。 「それは実はこういう次第なのです」 と太宗は夢に竜王と出会って助ける約束をしたことから、 竜王を助けるために魏徴を将棋にひきとめたところ、 居眠りをしたほんの一瞬に 竜王の首を斬り落してしまった経過を述べた。 十代閻王は、世間に怖れられているわりには いずれも人の好さそうな風貌で、 太宗の話を疑う様子もなく、 いちいちもっともだというふうに領きながらきいている。 太宗が話し終ると、秦広王が言った。 「河竜王が魏徴の手にかかって横死を遂げることは、 生まれる前からちゃんと南斗星君の生死簿に 明記されていたんですよ。 ただ奴は自分の運命に不服で、 どうしても陛下を国連憲章違反だと言って 訴えるものですから、 わざわざご足労願ったような次第で。 いや、よくわかりました。 われわれは奴をいずれ陽間に送り出すつもりですから、 陛下にもお帰り願うことにいたしましょう」 秦広王は崔判官に 太宗の寿命を記録した生死簿を持って来るように命じた。 崔刊官が奥へひっこんで、 万国国王天禄総簿を開いて見ると、 南瞻部洲大唐太宗皇帝の寿命は貞観三十三年となっている。 崔判官は驚いて筆をとると、たてに二本線を加えて、 三十三を五十三に書きなおした。 それから何食わぬ顔をして、 生死簿を持ってもとの広間へ帰ってきた。 秦広王は生死簿を見ると、驚いて、 「陛下は即位されてから何年になられます?」 ときいた。 「今年で三十三年です」 「じゃまだ二十年の寿命があります。 事件も片附きましたから、追い立てるようで恐縮ですが、 急いでお帰り願いましょう」 太宗が好意を謝して、森羅宝殿を出ると、 十代閻王は玄関口まで送って来た。 「本日のご好意に対して 何か心ばかりのお礼を致したいと存じますが、 何かお喜びいただけるものがございませんでしょうか」 太宗がそう言うと、十代閻王はお互いに顔を見合わせたが、 「ではひとつ南瓜をいただけませんか?」 「南瓜を?」 と太宗は目を丸くした。 「当地には冬瓜も西瓜もあるが、 南瓜だけが生憎とみのらないのですよ」 「よくわかりました。 では帰りましたら、さっそく、お送り致しましょう。 それから、お口にはあわないかも知れませんが、 紹興洒と茅台酒はもちろん、忘れませんよ」 「あなたはやっばり話せるなあ」 と秦広王は思わずニヤリと笑った。 |
2000-10-05-THU
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