毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第七章 地獄道中記

四 遊魂かえる

森羅宝殿を辞した太宗は、
崔判官とその部下にあたる朱大尉の二人に導かれて、
来た時とは別の道を歩き出した。
「ぇらく悪い道ですな。
 なぜ来た時の道を戻らないのですか?」
太宗がきくと、崔判官はうしろをふりかえって、
「冥土の道はすべて一方通行で、
 折返し運転がきかないのですよ」

それから朱太尉にきこえないような小声で、
「陛下の寿命は本当はもう尽きていたのです」
「じゃ、あなたがうまくとりはからってくれたわけ?」
はそっと頷いた。
「バレたりするようなことはありませんかね?」
「心配には及びません」
「あなたには何とお礼を言ったらいいだろう。
 何か欲しいものがあったら、
 何でも遠慮なく申して下さい」
「私には個人としては何も欲しいものはございません」
と崔判官は言った。
「ただこれからお通りになる道を
 ごらんになったらわかります。
 私の力では全くどうにもならないことですが、
 実に言語を絶する地獄絵ですよ」
「あなたが地獄にも珍しい人物であることは
 かねがね私もきいていましたが」
と太宗は言った。
「しかし、一体私の力の及ぶことなのですか、
 あなたの望んでいることは?」
「まあ、そのことはまたあとでご相談致しましょう」

しばらく行くと、目の前に高い山が見えて来た。
雲が低く地まで垂れこめていて、霧は空まで包んでいる。
「あれが背陰山です」
と崔判官が指さした。
凸凹の激しい岩山で、勾配の急なこと、
とても地上に聳える山の比ではない。
もし道案内をしてくれる者がいなかったら、
とても登ることは出来なかったであろう。

山を越えると関所があって、
そこから先が話にきく十八地獄であった。
関所には牛頭馬頭の獄吏が頑張っているし、
門を入らないうちから早くも
餓鬼の泣き叫ぶ声が耳を覆うばかりである。
「十八地獄とは、吊筋獄、幽枉獄、火坑獄、
 これは生前罪深い行いのあった者の来るところ、
 都獄、抜舌獄、剥皮獄、
 これは不忠不孝者の来るところ、
 磨獄、礁搗獄、車崩獄、
 これは不公平な行いのあった者の来るところ、
 寒冰獄、脱穀獄、抽腸獄、
 これは詐欺師の来るところ、
 油鍋獄、黒暗獄、刀山獄、
 これは強盗暴行犯のおちるところ、
 それから最後に血地獄、阿鼻獄、秤扞獄、
 これは金のために他人を苦しめた
 欲張りの来るところです」
と崔判官は説明した。
きいていて、太宗は身ぷるいがとまらなかった。

またしばらく行くと、今度は河のほとりに出た。
「あの橋が奈河橋です」
と指さされた方角を見ると、なるほど橋がかかっている。
橋のたもとには肌をさすような寒風が吹いていて、
どこからともなく血腥い臭気がたちこめてくる。
流れは物凄い勢いで岩にぷっつかり、
とても船を渡すどころではない。
橋には手すりもなく、横幅といったら、
指幅の三倍ぐらいしかないのである。
「ここからおちたら、永遠に浮ぶ瀬がないでしょうね」
「あの通りですよ」
と朱大尉が無感動な表情で言った。
よくよく見ると、
橋のはるか下の方に無数の亡鬼が水に打たれながら、
死にもせずに泣き叫びつづけているのである。

橋梁使者が橋のたもとまで迎えに来ていた。
その助けをかりて漸く橋をわたった太宗は
今度は枉死城に案内された。

ここの餓鬼はいずれも跛脚や片眼の者ばかりで、
太宗の姿を見ると、いち早く、
「李世民だ」
「李世民が来た」
と大騒ぎをはじめている。
「俺の生命をかえせ」
「やい、俺をもとの身体にしてかえせ」

口々に勝手なことを叫ぶので、
驚いた太宗はあわてて崔判官のうしろにかくれた。
「ここにいる人たちは皆、
 戦争のために無実の横死をとげたものばかりです」
と崔判官は悲しそうな顔をしながら言った。
「ここを通る度に私はいつも、
 なぜ人間は戦争をしなければならないのだろうか
 と考え込まされてしまいます。
 お互いにやむを得ない動機からだとは言え、
 このように多くの人が犠牲になり、
 しかも骨を埋めたり、祭ってくれる人がいないために、
 いつまでたってもここから脱け出すことが出来ません。
 せめていくらか金があれば、
 何とか空腹をおさえる方法もあるでしょうが …… 」
「金さえあれば、どうにかなるのですか」
「そりゃどこの世界でも変りはありません。
 金のある連中は牛頭馬頭に
 多少は手加減をしてもらっているようです。
 私たちも見て見ぬふりをしていますが、
 全くかわいそうなものですよ」
「何とかしてやれないものだろうかね」
と太宗は腕を組んで考え込んだ。
「金を持って来ておれば、
 せめて金でもやりたいんだが …… 」
「陽間の人で冥土の銀行に
 預金をしている人があるんですよ」
と崔判官は言った。
「もし陛下がお帰りになってから
 本人に返済される旨借用証書に署名されたら、
 私が連帯保証人になってさしあげてもよろしいです」
「ずいぶん手まわしのよい人間があるものだな。
 一体、そいつは誰です?」
「相良という名前で、河南の開封府の住人です。
 ここに全部で十三庫の金銀を持っております」
「どのくらいあれば、さしあたりの用に足りるだろうか」
「そぅですね。一庫もあれば十分でしょう」
「ではそうして下さい」

太宗は借用証書に署名すると、判官に手渡した。
判官は更にそれを朱大尉に手渡し、
「では皆の衆、
 この通り陛下がお金を下さることになったから、
 陛下を通してさしあげなさい。
 陛下は陽間に帰ったら、
 皆の衆のために水陸大会を催して、
 再生がかなうようお取りはからい下さるそうです」
それをきくと、衆鬼は黙って
太宗のために道をあけてくれた。

枉死城を出ると、あとは坦々たる大通りになっている。
「六道輪廻」の役所が途中にあって、
そこを通りすぎると、
いよいよ「超生貴道門」に辿りついた。
「ではここで失礼させていただきます」
と崔判官が言った。
「お帰りになったら、どうか水陸大会を開いて
 遊魂にその落着く先を与えて下さい。
 地獄の役所が閑になって、
 本日休業の看板が出せるようになるのが、
 私の唯一の願いなのです」
「よくわかりました。
 必ずご期待にそうよう努力いたしましょう」

崔判官に別れると、
太宗はさらに朱太尉に導かれて門をくぐった。
門の中には栗毛の馬が一頭つないである。
太宗が馬上にあがると、
馬は矢のような速度で疾走しはじめ、
たちまちのうちに渭水の畔についた。

ここはもはや人の世との境である。
静かな流れには時々、魚の跳ねる音がきこえてくる。
太宗は馬上からしばらく見惚れていたが、
「早く馬を進めて下さい」
と朱太尉に催促された。
それでもまだぼんやりしているので、
朱太尉がうしろから押した。
危うく落馬しそうになった途端に太宗は息を吹きかえした。

よく見ると、狭い棺桶の中にひとりねかされている。
「お−い」
と太宗は叫び声を立てた。
「俺を殺すつもりか。早くあけろ、早く」

棺桶の中からききなれた太宗の声がしてきたので、
まわりにいた皇族や群臣は腰の抜けるほど驚いた。
大急ぎで釘抜きをもって来て棺をこじあけると、
太宗はまぶしそうに目をしょぼつかせながら、
「ひどいじやないか。こんなところにねかせるなんて」
「お気づきになって本当にようございました。
 陛下が息をおひきとりになってから、
 これで三日三晩になります」
と群臣が言った。
「そうか。そうか」
と太宗は嬉しそうに笑いながら棺の中から起きあがった。

喪服はその日のうちに脱ぎ捨てられて、
宮廷の中はたちまち笑い声と華やかな服装で埋まった。

病気が全快すると、太宗は大赦令を出し、
四百人にのぼる死刑囚に減刑の恩典を与えたり、
また官女三千人にひまを出して、
それぞれ配偶者を選択する自由を与えた。
一方、天下に号令を発して南瓜と酒を買い集め、
これを供えて盛大な祭事を行うとともに、
尉遅公胡敬徳を河南開封府へさしむけた。

長安を出発した胡敬徳将軍の一行は開封府へ入ると、
府令に命じて相良という者をさがさせた。
土地の豪門顕族の中には
そんな姓の人間は一人もいなかったが、
草の根をわけるようにして、
ようやく相良という男を探し出した。
尉遅公の物々しい行列が山のような金銀を積んで、
この家だと言われてとまったところは、郊外にある、
見すぼらしい屋根の傾きかけたあばら家である。
安瀬戸物を並べた店先に坐っていた相良の女房が
あわてて立ちあがった。

2000-10-06-FRI

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