毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
実力狂時代の巻 第八章 真理を求めて |
四 出発 しかし、同じ人間でも玄奘はそうではなかった。 玄奘はだいいちまだ年も若かったし、 真理に対しては異常な情熱を燃やしていた。 そして、何よりもまず彼は 父も母もいない世捨人なのである。 当時の大唐長安国には、 仏教がようやく盛んになりつつあったが、 各人各説でどれが人生の真相を説いたものか まったくわからない。 名僧と言われている人たちは それぞれにさとりきったような顔をしているが、 そのどれをも玄奘は信じていない。 何故ならばこれらの人々の中にはたとえば、 「人は何のために生きるか」 といったもっとも単純な質問にさえ、 満足な回答をあたえ得る人間がいなかったからである。 これでは駄目だと玄奘は思っていた。 かねてから西方に新しい思想が抬頭しつつあると きいていたので、それにあこがれていた。 しかし、この国では 本国の人民が外国へ行くのを禁止している。 真理には国境がないのだから、 場合によっては密出国もあえて辞さないぞ、 と玄奘は考えたことがある。 そんな矢先に 観音菩薩が太宗皇帝の眼前に現身を見せたのだから、 欲望にパッと火がついたとしても無理はない。 「陛下」 と玄奘は太宗皇帝の御前にひれ伏した。 「私は徳の薄い僧侶ですが、 陛下のために大乗経をとりに行きたいと存じます。 お許しいただけますでしょうか」 「あなたが行って下さるか」 と太宗は喜びをかくそうともせず、 急いで玄奘の身体を抱きおこした。 「ここから西方天竺国まではずいぶん遠いそうではないか」 「ハイ。十万八千里あるということでございます」 「十万八千里!」 と太宗は大そう驚きながら、 「想像も出来ない遠い道のりだなあ。 途中には恐らく人も通らない深山幽谷が多いことだろう。 普通の人間では目的地まで行かないうちに 意気が沮喪してしまうだろう」 「大丈夫でございます。 真理をさがし求めるという目的がある限り、 私はどんな困難でも怖れません」 「あなたがその気持なら、 私はあなたと兄弟の契りを結ぼう」 と太宗皇帝は言った。 「水陸大会は今日限り中止して、 あなたが大乗経を手に入れて帰ってくるまで待とう。 その上で改めて盛大に行う方がいいとは思いませんか」 「身にあまるお言葉でございます」 と玄奘は丁寧に頭をさげた。 「お許しを得ましたからには、 どんなことがあっても必ず西方天竺国まで行きます。 万一、目的地に到達せず、 また万一、お経を手に入れることが出来なかったら、 たとえ死んでも 再びこの国へは戻ってこない覚悟でございます」 そう言って玄奘は仏前で香を焚き、誓いを立てた。 太宗は喜んで、 「では吉日を選んで出発をするように」 と言って御殿へひきあげた。 玄奘は化生寺をひきはらって、 今まで住んでいた洪福寺へ戻った。 すると、早くも噂をききつたえた寺の者が 彼のまわりをとりまいた。 「天竺へ行くと誓いを立てたそうですが、本当ですか?」 「そのとおりです」 「大へんな誓いを立てたものだ。 天竺の道は遠く果てしなく、 途中には虎や狼や妖怪変化が うようよしているそうですよ。 とても生きては帰れんかも知れませんぜ」 「この旅行が私にとってよい結果になるか、 それとも悪い結果になるか、 それは私自身にもわかりません。 でも行かずにはいられないのです。 それが私のような人間の宿命なのです」 と玄奘は答えた。 それから、うかぬ顔をしている弟子たちに向って、 「そう心配しないでもよろしい。 この山門の裏にある松の枝によく注意をして、 もしこの枝が東へ東へとのびるようになったら、 その時は私が帰ってくる時です。 私はきっと戻ってきますよ」 そうは言ったものの 玄奘はさすがに興奮をおさえることが出来なかった。 その夜、彼は不思議な夢を見た。 海の中に蘇迷蘆の山がそびえているのである。 その山は、麓から山のいただきまで宝石で出来ていて、 キラキラと輝いている。 あまりもの美しさに、何とかして登りたいと思ったが、 麓には波が逆巻き、渡ろうにも舟がない。 思い切って海の中にとびこもうとすると、 突然、蓮の花が波の何からふんわりと浮かび出してきた。 それに足をおくと、 そのとなりにまた蓮の花が浮いてくる。 もう一方の足をのせると、また次の蓮の花が浮いてくる、 といった調子で、ついに山の麓に辿りついた。 しかし、登ろうとしても山は険しくて 到底登れそうにもない。 それでも、彼はくじけなかった。 思い切って、えいッと身体を跳らせると、 あら不思議、 我と我が身ははや山のいただきにあるではないか。 頂上からは四方が見わたせた。 限りなく涯しがなかった。 「ああ」 と思わず嘆声をあげたとたんに 目がさめてしまったのである。 起きあがってから玄奘は しばらく自分の夢の意味を考えてみた。 それは人間なにごともその気にさえなれば 出来ないことはないという寓話のように思われた。 法悦とは多分そうした不不屈の精神の中に 見出されるものなのであろう。 いよいよ、出発の日が近づいた。 唐王は所管大臣に命じて、玄奘の身分証明書をつくらせ、 諸国の君王に通行保護を要請する文章を書き入れさせた。 当日になると、玄奘は宮殿に出発の挨拶に出かけた。 太宗は自分の手で身分証明書をわたし、 更に鉢を一つとり出して、 「これは私の愛蔵している紫金鉢です。 途々托鉢をするときに使って下さい」 それから更に二人の従者と一匹の馬を用意してくれた。 玄奘がお礼を言って、別れを告げようとすると、 太宗はどうしても途中まで送ると言ってきかず、 ついに御車を出すこととなった。 域門のあたりまで来ると、 太宗は御車をとめさせ、車からおりた。 そして、家来に洒壺をもって来させると 自分で杯をとりながら、 「あなたには雅号がおありかね?」 ときいた。 「いいえ、そういうものはまだございません」 「それでは三蔵と名のられたらいかがです? この間、観音菩薩は 西方に経典が三蔵あると言っていたし、 あなたはそれをとりに行くのですから」 それから杯に酒をそそぐと、玄奘の前にさし出した。 「せっかくでございますが、 酒は僧家の禁戒でございますので」 「まあ、そんなかたいことは言うな。 今日はほかの日とは話が違うし、 それにこれはホルモン酒ではないんだから」 そう言われると、 玄奘はむげに辞退することも出来なかった。 彼が杯を受けとって口へもっていこうとすると、 太宗はかがみこんで、少しばかり土をつまみあげて 玄奘のもっている杯の中に入れた。 玄奘にはその意味がわからなかった。 「いつになったら、こちらへ帰って来られるだろうね?」 と太宗がきいた。 「三年もあれば帰って来られると思います」 「しかし、道は遠いし、時日のかかることだ。 あなたにこの洒をすすめたのは、 ほかでもないいつまでも故国の土を 忘れないでいてもらいたかったからですよ」 こうして別れを惜しみながら長安関を出た玄奘 ── いや、今や三蔵法師 ── は馬に乗り、 二人の従者を従えて西へ西へと向かった。 途中、法門寺によって僧侶たちの歓待を受け、 更に鞏洲城によった。 ここをすぎて三日たつと河州衛に着く。 ここは大唐長安国の国境に近い警備隊の町である。 町には福原寺という寺があって、 とにかく、ここまでは太宗皇帝の勢力範囲だったから、 皇弟三蔵法師は警備司令や住職たちから 熱烈な歓迎を受けた。 しかし、一歩ここをすぎれば、あとは異国の空である。 もう既に秋の季節になっていた。 三蔵法師は鶏の鳴くのを合図に起き出すと、 未明のうちに国境の町を出発した。 まだ月の残った早朝の道を 霜柱を踏みながら歩いて行くうちに、 やがて目の前に一つの山が聳えているのにぶっつかった。 草の間を分けて道を探そうとするが、 長い間、人が通ったことがないと見えて、 道の跡らしきものもわからない。 道を間違えたのかしらと 急に不安になって思いまどっていると、 突然、足がすべって、 三人は馬もろとも落し穴の中におちこんでしまった。 「えものがあったぞ。さあ、早くつかまえて来い」 そとで吼えるような声がきこえている。 やがて一陣の狂風とともに、 五、六十の小妖怪が殺到して来た。 彼らはてんでに三蔵法師と二人の従者の 手や足をつかまえると、上の方へ押しあげた。 三蔵法師はあわてて身体をバタバタさせた。 おそるおそる目をひらくと、 目の前に一人の兇悪そうな魔王が立っている。 久しく人肉にありついていないような 飢えたその形相を見ると、 「あッ」 といいざま三蔵法師の魂はどこかへふっとんでしまった。 (第一巻終了、つぎは「三蔵創業の巻」) |
2000-10-10-TUE
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