毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻 第一章 天下晴れて

一 国境を越えて

「縄をかけろ」
と魔王は部下の者に命じた。
妖怪たちが三蔵法師とその二人の部下を
がんじがらめに縛りあげて、
さて、今夜は久しぷりにご馳走にありつけるぞと
唇をなめまわしていると、そこへ、
「熊山君と特処士がお見えになりました」
とそとから声がかかった。

三蔵法師があわてて顔をあげると、
なるほどこれまた二人の魔王が入口から入って来る。
一人は頭のてっべんから足の先まで墨を塗ったように
真黒で、もう一人は角のついた冠に青い服を着込んだ
肥っちょである。
「やあ、しばらく」
と魔王が迎えに出て言った。
「寅将軍はいつ見ても景気がよさそうですな」
と黒ん坊の熊山君が来訪の挨拶を述べた。
「どう致しまして。
 そういうあなた方も案外
 しこたまためこんでいるんじゃないですか?」
「いやいや」
と特処士が首をふった。
「この頃の不景気と言ったらまったくお話になりませんや。
 私の家ときたら毎日毎晩、味噌汁ばかりで、
 刺身を食わなくなってから、
 もうどれくらいたつかわからんですよ」
「ここは税務署じゃないんだから、
 そう予防線を張らなくたって大丈夫ですよ。
 アッハハハハ …… 」
と魔王は笑いながら二人を奥へ案内した。

三人の魔王の姿を見ると、
三蔵法師の二人の従者はただもう泣き暮れるばかりである。
「この三匹はどこからつかまえてきたのですか?」
と黒ん坊がきいた。
「自分たちで頭にのしを貼ってとび込んで来たのですよ」
「ビフテキ一丁、じやなかった、
 人間テキ一丁というわけにはいきませんかね?
と特処士が笑いながらご馳走の催促をした。
「まったく食い運のある奴にはかないませんな」

そう言いながら、魔王が部下に料理を命じようとすると、
「三匹いっぺんに食べてしまうのは勿体ないから、
 一匹のこしておきましょう」
と熊山君が口を出した。

そこで二人の従者が先に調理場にまわされ
三蔵法師ひとりがあとに残された。
あわれ、二人の従者は屠殺場に連れて行かれた豚のように、
ギャアッと一声、あえなくこの世とおさらばである。
やがてボン・ステーキとなり、肝焼となり、
熊掌ならぬ人掌料理となって、客人の前に運ばれて行く。
暗闇の中で骨をしゃぶっている魔王たちの
ガツガツとした物音をきいていると、
三蔵法師は生きた心地がしなかった。

そのうちに東の空が次第に白みかかって夜が明けはじめた。
「やれやれ、おかげで久しぷりに満腹した。
 今度、獲物があったら、お知らせしますから、
 うちへも来て下さい」

そう言って二人の魔王がひきあげて行ったところまでは
覚えている。
しかし、恐怖と飢えに疲れはてて、
いつとはなしに三蔵法師はうとうとしはじめた。

ふと気がつくと、一人の老翁が目の前に立っている。
老翁は三蔵のそばへ近づくと、
手にもっていた杖で一払いした。
すると縄はズタズタに切れて地におちた。
老翁は更に三蔵の顔に口をよせて、ふっと息を吹きかけた。
全身に力が蘇ってくるのを意識しながら、
正気をとり戻した三蔵は、急いで老翁の前に跪きながら、
「どこのどなたか存じませんが、
 何とお礼を申しあげてよろしいやら」

老翁は彼の手をとると、
「まあ、どうぞお立ちになって下さい。
 何かおなくなしになったものがございますか」
「二人の部下がかわいそうに
 生命をおとしてしまいました」
両手を合わせて、じっと苦痛に耐えながら三蔵は答えた。
「それに馬と馬に載せていた荷物を
 どこへ持って行かれたのかわかりません」
「あすこにいるあの馬ではありませんか?」

指ざされた方を見ると、そこに馬が一頭繋がれている。
馬の背に積まれた二包みの荷物も無事であった。
「一体ここは何というところですか?」
と三蔵はきいた。
「ここは雙叉嶺といって、野獣の巣窟だが、
 何だってまたこんなところへ
 迷い込んでしまったのです?」

三蔵は未明に河州衛を発って
一路西へ西へと進んで行くうちに道に迷って、
落し穴におちた経過を話した。
「人間世界では罠をつくって野獣を捕えるけれども、
 同じ野獣でも年を経て精と化した者は、
 逆に罠をつくって人間がおちてくるのを
 待っているのですよ。
 あなたがおちたのは寅将軍と呼ばれている
 虎の精の落し穴です」
と老翁は言った。
「なるほど、そう言えば、
 あの魔王の骨のしゃぷりかたは飢えた魔のようでした。
 ほかに二人、黒ん坊と肥っちょが来ていましたが、
 あれは誰です?」
「黒ん坊と肥っちょも来たのですか?」
と老翁は目を丸くしてききかえした。
「あなたはまったく運の強いお方だ。
 あの黒ん坊は熊の精で、肥っちょは野牛の精です。
 三匹とも肉食いコンクールで
 一等二等を争う大食漢だから、
 普通ならあなた一人だけ今日まで残しておくということは
 ないのですがね」

びっくりしている三蔵の肩を叩きながら、
老翁は自分のあとについてくるように合図をした。
馬のたづなをひき、老翁のあとに従うと、
やがて広々とした道へ出た。
「では元気を出して行っていらっしゃい」

三蔵がお礼を述べるいとまも与えず、
老翁の姿はかき消えていた。
見ると、一羽の大きな丹頂鶴が虚空を大きく旋回しながら、
視界の彼方へととんで行く。
鶴の背中に乗った老翁の姿が太白金星の中へと
入って行くのを見て、三蔵はようやく自分が
金星に助けられたことを悟ったのである。

暗くならないうちに人家のあるところまで
辿りつかなければと思いながら三蔵は道を急いだ。
しかし、行けども行けども人家の煙は見えない。
腹は空くし、道は嶮しいし、その上、
遠くから怪鳥野獣のけたたましい声が響いてくる。
しまいには馬がいうことをきかなくなって、
いくら鞭打っても尻込みをするばかり。
「ああ、もうこれまでだ」
と三蔵法師は道端に坐り込んで、
運を天に任せるよりほかなくなった。

すると、ちょうど、そこへ弓と槍を片手に握った
一人の男が山の上から駈けおりてくるのが見えた。
男は豹の皮で出来た帽子をかぶり、
羊の皮で出来た上衣を着ている。
あたりを射るようなその鋭い目付に出会うと、
三蔵はてっきり山賊だと思った。
「どうか生命だけはお助けを!」

三蔵が両手を合わせて拝みにかかると、
男は手に握っていた弓と槍を投げ捨てて、
「お見受けするところ旅の和尚さんのようですが …… 」
「ハイ、私は長安大唐国から西の方天竺へ
 お経をとりに参る者でございます」
「ああ、それじゃ私の国の人だ」

男はそう言って懐しそうに三蔵法師の顔を覗き込みながら、
「私はこのあたりで猟をして暮している劉伯欽という
 狩人です。よろしかったら、
 これから私のアバラ家へおいでになりませんか。
 きたないところですが、
 野宿をするよりはましだと思います」

さそわれるままに三蔵は男のあとに従った。

山をひとつ越えると、にわかに風の鳴る音がきこえてきた。
「和尚さん、
 ちょっとこのままここでお待ちになって下さい」
と猟師が言った。
「何ですか、あの音は?」
「大したことはありません。猫がやって来たのですよ」

猟師は手に持っていた三叉槍を握りなおすと、
背をこごめて身構えをした。
見ると、猫と言ったのは実は一匹の老虎なのである。

虎は猟師の姿を見ると、逃げるどころか、
「ウォッ」
と一声天に吼えて、
こちらへ向ってまっしぐらに疾走してくる。

何しろ母親の腹の中から生まれ落ちて以来、
三蔵法師はこんな物騒な場面にぶっつかったことがない。
へなへなと草の上にへたり込むと、
駝鳥のように頭を草の中に突っ込んでしまった。

頭上では草も木も、
怒り狂った猛獣の叫びにおののき揺れ動いている。
息のとまるような思いで、三蔵は恐怖にたえた。
ずいぷん長い間、人と虎の死闘は続けられている。
そのうちに、
「ギャッ」

世にも怖ろしい声がして、
やがて草の揺れが次第に静かになっていった。
おそるおそる顔をあげると、槍は虎の心臓を貫いていて、
血まみれになった大地に、
猟師は顔色ひとつ変えずに立っている。
「さあ、これで今夜のご馳走が出来たぞ」
「大した腕前ですね」

三蔵が感心していると、
「なあに。これも和尚さんに食い運があるからですよ。
 では、家へ帰るとしましょう」

死んだ虎を片手で軽々と肩に担ぎあげると、
猟師は何事もなかったかのように歩き出した。

また山を越えると、
白雲たなびくあたりに一軒の山荘が建っている。
「あれが私の家です」
そう言いながら坂をかけおりると、
「おい、帰ったぞ!」

門前に立って怒鳴ると、
中から三、四人の下僕がとび出して来た。
見ると、いずれも怪しげな顔立ちの小妖怪である。
「いつものように皮を剥いで、肉は台所へまわしておけ」
そう言いつけてから、猟師は三蔵を家の中へ案内した。

猟師の家には年老いた母親と若い妻がいた。
二人とももう何年も自分たち以外の人間に
会ったことがないとかで、三蔵法師の姿を見ると、
殊のほかの喜びようである。
「明日はちょうど、お前のお父さんの命日でね、
ほんとにいいところへ和尚さんが来て下さったよ」

母親がそう言うと、猟師は、
「それじゃご迷惑でも明日もう一日
 家へ泊っていただくことにしよう。
 その代り明後日は、仕事を休んでお送りするよ」
と勝手にきめこんでいる。

どうせ一日を争う旅でもなかったので、
三蔵は喜んで承知した。

やがて日が暮れて晩飯の時間になると、
小人どもがさっきの虎を煮込んだ料理を運び込んで来た。
「こういう草深い山の中で何もございませんが …… 」

くつくつと煮立っている虎鍋を見ると三蔵は驚いて、
「私ども出家の者は精進料理しか
 食べてはいけないことになっているのです」
「そんなことを言っても、これから先は山また山で、
 食うか食われるかの世界ですよ。
 あなたが食わなければ、食われるだけのことですからね」
「たとえ食われても、
 食ってはいけないというのが仏の教えなのです」
と、いくらすすめても三蔵は箸をとろうとしない。
「ずいぶんおかしな教えがあるものだな」
と猟師は笑った。
「そんなことでは到底世の中では生きていけませんよ。
 あなたにはこれから衆生をたすけようという
 大目的があるのでしょう?
 その大目的を果すためには清濁合わせのむぐらいの
 度量がなけれは駄目です。いくら清く生きても、
 ヤミ米を買わなかった大学教授のように飢え死しては、
 花も実もないじゃありませんか?」
「それでよろしいのです」
と三蔵は答えた。
「私は小さい時から
 ハンガー・ストライキの習練を積んでいますから、
 三日や五日何も食べないでも大丈夫なのです」
「何て頑固な人だろう」
と猟師は困ったような表情になって、
「家には筍や木耳のようなものがあるにはあるんだが、
 鍋という鍋は油だらけで、
 精進料理なんてものは作ったこともないんですよ」

そばで二人のやりとりをきいていた母親が、
「私にいい考えがあります」
と言った。
「いい考えって何だい!」
と息子がきいた。
「ぉ前は心配をしなくても、
 私がちゃんとつくってさしあげますからね」

母親は嫁に鍋をもって来させると、
何度も湯をわかしては油をすっかり洗いおとし、
それで栗飯と干野菜を炊いて三蔵法師の前に並べた。
三蔵はやっと安心してお膳に向った。

ところがいよいよ、ご飯を食べる段になると、
三蔵はまたも手を合わせてお経を読みはじめた。
箸をとりあげて飯をかき込んだ猟師は
ひっこみがつかなくて、
飯を口に含んだまま口を動かしかねている。
幸いにしてお経は短かったからよかったものの、
猟師は憎らしそうに、
「いまのは何というお経です?」
ときいた。
「いいえ、今のはお経ではなくて、
 ご飯を食べる前のお祈りの言葉です」
「やれやれ」
と猟師は溜息をついた。
「ご飯を食べるなら、いただきますでいいものを、
いろいろと厄介な約束事があるものだな。
本当に坊主にならなくてよかったわい」

それでも翌日になると、猟師は三蔵法師を鄭重に扱った。
なぜならは三蔵は起きぬけから、早速、香を焚き、
木魚を打ち鳴らし、猟師の父親のために一日中、
お経をあげてくれたからである。
そして、確かに坊主がこうしてお経をあげてくれていると、
死んだ本人よりも、あとに残った人々が
何とはなしに救われたような気持になってくるのである。 
その晩、もう一晩、猟師の家で夜を明かした三蔵法師は、
翌朝別れを惜しむ家族たちに送られて雙叉嶺を出発した。
劉伯欽は自ら先頭に立ち、
三蔵法師のうしろには猟師の下僕が
弓矢を持って守っている。

こうして半日も歩き続けると、
とある大きな山の見えるところへ出た。
劉は嶮しい山道をまるで平地を歩くように
とっとっと登って行く。
三蔵法師は馬の背に乗ってそのあとを追ったが、
山の途中まで来ると、猟師は立ちどまって言った。
「ではここでお別れ致します」

見渡す限り荒涼たる深山である。
三蔵は急に心細くなって、
「ご迷惑でしょうが、
 山の向うまでお送りを願えますまいか」
「ここは両界山といって、
 これから向うはもう韃靼の国なのです」
と劉伯欽は答えた。
「お送りしたいのは山々ですが、
 これから先は私も行ったことがございませんので」

三蔵法師が途方に暮れてたづなをもちあぐんでいると、
突然雷のような大きな声がきこえてきた。
あんまりガンガンと響くので、かえってききとれないが、
耳を塞ぐと、
「その人の名は誰だ! お−い。
 その人の名は誰だ! 教えてくれ」
と叫んでいるようである。
「あれは何ですか?」

三蔵法師は山を下りないうちから、
早くも戦々兢々としていた。

2000-10-11-WED

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