毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻 第一章 天下晴れて

二 悟空の出獄

「きっと山の麓にある石牢の中の猿ですよ」
と下僕たちが顔を見合わせて言った。

「そうだ。そうだ。あいつに違いない」
と猟師が言った。

「石牢の中の猿って何のことですか?」

「この両界山はむかし
 五行山と呼ばれていたところなのです」
と猟師は答えた。
「太宗がここを国境と定めてからは
 両界山と名も改められましたが、
 年寄りたちの言い伝えによると、
 今からおよそ五百年前に突然天変地異が起って、
 一匹の猿が山の下にとじこめられたのだそうです。
 この五百年間、その猿は鉄丸と銅汁以外には何ひとつ
 食べていないのに、まだ飢え死もしないでいるのです」

「へえ−。ほんとですか?」

「石の牢の中に入れられていますから大丈夫ですがね。
 何なら一緒に下りて見ましょうか」

「ええ、ぜひそうして下さい」

二人が岩だらけの山道を駈けておりると、
なるほど山の麓に天然の石牢があって、
猿が一匹柱の間から手を出して、
しきりにおいでおいでをやっている。

「いいところへ来てくれた。いいところへ来てくれた。
 あなたはきっと観音菩薩が言っていたお方だ!」

見るといかにも兇悪そうな形相をした老猿である。
猿は狭い石牢の中で盛んに動きまわって、
こっちの隙間から覗いたり、
あっちの隙間から手を出したり、片時もじっとしていない。

「何の話をしているんだね?」

猟師が牢のそばに近づいてきくと、

「お前さんには用はないんだ。
 そっちの和尚さんを呼んでくれ」

三蔵法師が入れ代って、

「私に何の用かね?」

すると、猿は何とも答えないで
ただ穴があくほどじっと三蔵の顔を見つめている。
何しろ一度は天界に王座を占めようと
不逞な野心に燃えた地上の覇王である。
戦い時に利あらず、
五行山の石牢にとじこめられたとは言え、
五百年の牢獄生活にもへこたれなかった孫悟空なのだ。
相手の顔を見ているだけで、
どの程度の人物であるかは大体見当がついている。

「もしやあなたは観音菩薩とお知り合いの仲では?」
と、ややあって孫悟空はきいた。

はたして三蔵法師は両手を合わせた。

「あなたはどなたでいらっしやいますか?
 何といぅお名前ですか?」

「私の名前をきいてどうするのです?」
と三蔵はききかえした。

「少し前に観音菩薩がここを通りかかって、
 今に情深い方が現われて
 私をたすけてくださると言って行ったのです。
 きっとあなたがその方に違いないと
 私には思われるのです」

「私はこれから西方浄土へお経をとりに行く
 一介の托鉢僧ですよ」

三蔵がそういうと、孫悟空はその場に両膝をつきながら、

「和尚さま。あなたです。あなたに違いありません。
 あなただけが私を助けてくれることの出来る
 お方なのです」

「どうして私がお前を助けることが出来よう。
 私は非力な人間で、
 自分を助けることさえ出来ないのだから …… 。
 しかし、一体どうしたわけで、
 お前はこんなところに入れられたのだね?」

「それはこういうわけなのです」
と孫悟空はこれまでの経緯を手短かに話してきかせた。

「私は力というものを過信していたのです。
 でも力と力の争いに破れてここにとじこめられてからは、
 力というものの限界を悟るようになりました。
 力はやはり正しく使ってのみ力なのです。
 ですから、和尚さまのご慈悲によって
 ここから脱れることが出来たとしても、
 もはや二度と王者の生活へ戻ろうとは思っていません。
 もし和尚さんがお許し下さるなら、
 和尚さんの弟子にしていただいて、
 一緒に理想を求めて天竺へお供を致したいと
 思っているのです」

いかにも心から前非を悔いているような態度であった。
大体、三蔵は人を信じやすい性質だったし、
ことに前非を悔いている人間は或る意味で
罪を知らない人間よりも罪に強いと思っていたので、
孫悟空の話をきいているうちに
三蔵は次第に同情心を禁じ得なくなってきた。

「お前をたすけてはやりたいが、如何せん、
 私は斧も鑿も持ち合わせてはいないんだよ」

「斧や鑿の必要はありません。
 あなたが私を助けて下さるお気拝さえあれば、
 私はひとりで出て来ます」

「一人で出て来るって、どうやって?」

三蔵法師が驚いていると、
「この山の頂上に如来の封印が一枚貼ってあります。
 それをあなたがとり去って下さればそれでよいのです」

「この猿は少し気が変になっているらしいですよ、
 和尚さん」
とそばにいた劉伯欽が言った。

「気は至って確かだよ」
と猿は眉をしかめて、
「嘘と思うなら、山の煩上にあがって見るがいい」

「まあ、とにかく、上へあがって見ましょうや」

三蔵法師に催促されて、
猟師と三蔵は山の頂へ這いあがった。
見ると、山の頂上は金光燦然と輝いている。
その光はどうやら一つの大きな正方形の石から
放たれているのである。
近づいてみると、
石の上には一枚の皮紙が貼りつけられていて、
、吽」と書かれていた。

三蔵は石の前にひざまずくと、
何度も何度も頭を地にすりつけ、
それから更に西方へ向きなおって、
「お情深い如来さま。
 今日、私はこの猿を助けるめぐり合わせとなりました。
 私の見るところでは、
 猿は心から改心している様子ですから、
 もし私が助けてもよいものなら、
 どうかこの封印を私にとらせて下さい。
 しかし、もしこの猿が到底手のつけられない
 悪党であるのなら、
 どうぞ封印が私の力でとれないようにして下さい」

そう言って、更に頭を地にこすりつけ、
おそるおそる手をさしのべると、紙は何なく剥ぎとれた。
折しも一陣の風が吹いてきて三蔵の手に握られた封印を
空高く吹きあげて行ったのである。

「われこそは斉天大聖の看守であるぞ」
と舞いあがりながら、封印は叫んだ。
「今日限り悟空の刑期は満ちた。
 天下晴れて出獄するよう伝えるがいい」

一行が山をおりて、
牢獄にいる孫悟空にそのむね伝えると、
悟空は柱につかまって小躍りしながら、
「ではお師匠さま。
 今、出て参りますから、安全地帯まで避難して下さい」

言われた通り三蔵の一行が五、六里先まで歩いて行くと、
「もっと先だ。もっと先だ」
と猿は怒鳴った。
一行が山を下りると、突然、
火山が大爆発をおこした時のような
物凄い地鳴りがきこえてきた。
驚いてふりかえると、地は裂け山は崩れて、
猛烈な砂煙が空を覆っている。

「お師匠さま」

呼ばれて三蔵がふりむくと、
すぐ目の前に孫悟空が立っている。

悟空は三蔵の前に跪いて弟子の礼をとり、
更に猟師の方に向きなおると、
「ではこれから先は私がお師匠さまのお供をします。
 どうも長いことご足労でした」

「ほんとにどうも有難うございました」
と三蔵も丁寧にお礼を述べた。
「お帰りになりましたら、
 お母上や奥さまにくれぐれもよろしく」

両界山下で猟師に別れると、三蔵は再び馬上の人になり、
悟空が馬のたづなをひいた。
悟空にひかれると、
馬はまるで人語をききわけるかのようにおとなしい。
それというのも、むかし悟空は
天界で弼馬温の職にあって、彼がグッと睨みつけると、
どんな馬だってふるえあがってしまうからである。

2000-10-13-FRI

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