毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻 第二章 馬上吟

一 三日坊主

再びひとりになった三蔵法師は
荷物を拾いあげて馬に載せると、
自分は馬に乗ろうともせず、
片手に錫杖を握り、もう一方の手にたづなを曳きながら、
とぽとぼと山道を歩きはじめた。

しばらく行くと、一本道を向うから
一人の老婆かやって来るのに出会った。
老婆は三蔵の姿をみとめると、そばへ近づいて来て、
「もしもし、和尚さん」

呼びとめられて三蔵は足をとめた。
「こんな淋しい山道をたった一人で
 どちらへおいでになるのです?」
「私は東土から西方極楽へお経をとりに行く者です」
と三蔵は答えた。
「西方極楽といえば天竺国の雷音寺のことですか。
 あすこはここから十万八千里も離れているのですよ。
 たった一人で道連れもお供もなくて、
 どうやって行くのです?」
「私には弟子が一人いたのですが」
と三蔵は悲しそうに言った。
「どうも我儘で人の言葉に耳を傾けず、
 私が二言三言文句を言ったら、
 腹を立ててどこかへ行ってしまいました」
「お弟子さんがおいでになるのでしたら、
 ここに袈裟と帽子がございますから、
 これをさしあげましょう」
と見知らぬ老婆は言った。
見ると、その手には木綿の袈裟が一枚と、
金の輪の飾りのついた帽子が一つ捧げられている。
「もともとこれは倅か使っていたものですが、
寺へ入って坊主を三日やったら突然死んでしまったのです」
「おお、可哀そうに!」
こと三蔵は両手を合わせながら、
「それではこれはご令息さんの
 大事な遺品ではございませんか?」
「大事は大事なものですが、
 私の手元にのこしておいたところで仕方がありません。
 それよりも倅の遺志をついでくれるような人に
 使っていただければ、
 それに越したことはないと思います」
「お志はまことにかたじけないのですが、
 私の弟子の方も三日坊主で、
 どこへ行ってしまったのやら。
 折角いただいてももう無駄でごぎいましょう」
「そのお弟子さんとやらはどの道を行きましたか?」
「さあ、それがわかればよろしいのですが、
 あばよと言ったかと思うと、もうそばにはいないのです。
 どうも東の方へ行ったような気配がするのですが……」
「その方角なら、私の家の方ですから、
 ひょっとしたら、私の家へ寄っているかも知れません。
 これから私が行って帰ってくるように
 すすめて見ましょう」

老婆は自分の手に持っていた袈裟と帽子をむりやり、
三蔵法師におしつけると、法師の耳にロをよせて、
「お弟子さんが戻って来たら、
 この服と帽子を着させるのです。
 私が呪文をお教えしますから、
 もし言うことをきかなかったら、
 口の中で呪文をとなえてごらんなさい。
 借りて来た猫のようにおとなしくなりますよ」

そう言って老婆は、
緊箍児呪という呪文を三蔵法師に伝授した。
「この呪文は自分の心にだけ銘記しておいて、
 決して他人にもらしてはいけません。万一、
 ほかの連中にこの秘密がもれるようなことがあったら、
 その日限りあなたは一挙に百万の味方を
 失ってしまったも同じことになるのです。
 おわかりになりましたか?」

三蔵が頷くと、老婆は忽ち一すじの閃光と化して
東の万へ消えて行った。
それを見て三蔵ははじめて老婆が
観音菩薩の化身であることに気づき、
あわててその場にひれ伏した。

さて、三蔵法師に別れた孫悟空は斗雲に乗ると、
須臾にして東洋大海へ出た。
五百年ぶりに見る大海原は、相変らず青々として、
むかしと少しも変らない。

悟空は雲をおりると、
「この道はいつか来た道」
と、鼻唄まじりで水の中を分けて入って行った。

水晶宮の前門に到着すると、早くも儀杖隊が整列をして、
東海竜王が一族郎党をひきつれて迎えに出ている。
「大聖の刑期が満了になって、
 ほんとうにおめでとうございます」

ずいぶん手まわしのよい奴だなと驚きながら悟空が、
「どうして今日、私がここへ来るのがわかったのですか?」
ときくと、東海竜王は笑いながら、
「大聖が五行山で苦行をされている間に
 世の中が大分変りましてね、
 近頃はレーダーというものを使っているので、
 領海内で起ることが一切手にとるように
 わかるようになったのですよ」
「レーダーって何のことです?」
「いやあ、実は私にもよくわからないのですがね」
と東海竜王はあやしげな科学知識をふりまわして、
五百年の間に世の中がいかに変ったかを説明しはじめた。
全部まできいてしまわないうちに、
「なあんだ。
 レーダーというのは要するに千里眼、順風耳の亜流で、
 ロケットは斗雲の真似にすぎんじやないか。
 人間なんて自分が自惚れているほど
 利口なものじやないらしいね」
と大きな口をあけてカラカラと笑った。
「ところで、
 大聖はもう一度政界へ返り咲こうというわけでしょう?」
と東海竜王がきいた。
「そういう気持がないでもないんだが、
 生憎と坊主になってしまったんでね」
「へえ、坊主ですって?」
と竜王は目をパチクリさせながら、
「そりやまた一体どうしたのです?」
「それがね、今になって考えてみると、
 敵さんの気持を読み違えていたんだね。
 何しろ死一等を免ぜられはしたものの
 終身徒刑のA級戦犯でしょう?
 てっきり一生陽の目を見ることはないと
 思い込んでしまったんだよ。
 それでたまたま唐土から西方へ
 お経をとりに行く坊主が通りかかったので、
 その袖にすがりついて、
 頭をまるめると約束してしまったが、
 どうも五百年も牢屋の中で暮すと、頭の働きが鈍って、
 とんだ読み違いをするものらしいね」
「坊主になるのも悪くはないじやないですか。
 乞食と坊主と小説家はどれも丸儲けだから、
 三日やるとやめられないという説がありますよ」
「ハハハハ……」
と孫悟空は白い歯を出して笑いながら、
「確かにそういうところもあるんだが、
 俺の師匠になった奴が世間知らずでね、道で追剥が出て、
 身ぐるみぬいでゆけとおどかすものだから、
 虱つぶしにつぶしてやったんだ。
 そしたら、
 俺のことを無慈悲だとか何とか抜かしやがってよ。
 まあ、考えてもくれ給え、
 この俺があんな青臭い糞坊主の目の色を窺って
 ペコペコしておられるかというんだ。
 サラリーをもらっているわけじゃあるまいし」
「ごもっともです」
と竜王は相槌を打ちながら、
「では、ひとつ気晴しにグイと一杯やりますか」
と御殿へ悟空を案内した。
宴会の用意がととのえられている間に、
悟空が通された大広間で部屋の中を見まわしていると、
壁に一幅の画が掛かっている。
橋の上で一人の子供がその主人らしい男に
履をささげているところがかかれている。
「これは一体何ですか?」
と孫悟空がきいた。
「そう言えば、
 これも大聖の獄中時代に起った出来事ですから、
 ご存じないわけですね」
と東海竜王が言った。
「これは゛橋に三たび履を進む″という話で、
 このお爺さんの仙人が黄石公で、
 この靴をもっている子供が漢の張良です。
 ある時、橋の上を歩いていた黄石公が
 あやまって穿いていた履を橋の下におとしたので、
 張良に履をとってくるようにと言いつけたのです。
 三度も同じことをわざと繰りかえしたけれども、
 子供はいささかも嫌な顔をせずに
 その度に恭しく履を師匠の前にさし出したのだそうです。
 それで夜になってから黄石公は張良に天書を授けて、
 後世、漢を扶けて国の柱となるような重要な役割を
 はたす立派な人物にし立ててくれたというわけです。
 人間、大人物になるか、それとも一介のヤクザ者で
 終るかは全く紙一重の差じゃありませんか。
 さし出がましいことをいうようですが、
 大聖が一介の妖仙に終るか、
 それとも看板通りの大聖として大成されるかは、
 これまたちょっとした心掛けの違いでは
 ございませんか?」

それをきくと、
「ウーム」
と大きく唸ったまま、孫悟空は、考え込んでしまった。
「まあ、私などがいらないことを言わないでも、
 大聖がご自分でお決めになればよいことですが」
「わかったよ」
と悟空はあっさり頷いた。
「五行山にいた時分、俺は回想録こそ書かなかったが、
 やはりそんなことを考えたことがあった。
 自由になった途端に、
 またも総理大臣病にかかるようじゃ、
 五百年も苦労をした甲斐がないからね」
「さすがはわかりの早いお方だ」
「いや。
 やっばり坊主は三日やったらやめられんものらしいよ。
 お騒がせしてすまなかったが、
 酒をのんでいる気がしなくなっちゃった」

思い立ったとなると、じつとしていられない性の孫悟空は、
竜王に別れを告げると、すぐに海底から這い出して、
ふたたび斗雲に乗った。

2000-10-14-SAT

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