毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
三蔵創業の巻 第三章 観音院の夕暮 |
四 毛が三本 まだ歯も生えそろっていないようなチンピラに なめられたのかと思うと、悟空は次第に腹が立ってきた。 どうにも腹の虫がおさまりかねた彼は、 呪文をとなえてこの土地を支配している土地神と山神を 呼び出した。 「こらッ」 と悟空は自分の前にひざまずいている二人の神に向って 当り散らした。 「お前たちに往復ビンタでも食らわさなくちゃ、 俺のこのムシャクシャはおさまらんぞ」 「一体、どうなさったのでごぎいますか? と二人の神は目を白黒させながら、 「大聖がいつ出獄されたのか知らなかったものですから、 えらい失礼申しました。知っておれば、 もちろんお迎えに出ないなんてはずもございません」 「このへんを縄張りにしている親分は何という奴だ?」 と悟空はきいた。 「このへんには別に親分はおりません」 「じゃあの川の中にいる奴は誰だ?」 「ああ、あれですか?」 と二人の神は互いに顔を見合わせながら 「ご存じのようにこのへんはむかしは平和なところでした。 川の水は鏡のようにすきとおっていて、 川の上をかすめて通った小鳥が、 川の中に映った自分の姿を仲間と間違えて よく水の中につっこんでしまうので、 鷹愁澗とよばれているのです。 ところがそこへ近頃、前科者の竜が入りこんできてから、 うっかり川を渡れなくなったのです」 「お前たちはそれを黙って見逃がしているのか?」 「見逃がしているわけじゃありませんが、ごらん下さい。 この川の中は無数の抜け穴が出来ていて、 こっちの穴を塞いだかと思うと、 向うの穴から出てくるといった調子で、 我々もこれにはほとほと手を焼いているのでございすよ」 「なるほどね」 と悟空は頷きながら 「実はあのチンピラに馬を盗まれたのだが、 何かいい方法はないだろうか?」 「方法はただ一つだけあります」 と山の神が言った。 「それは観音菩薩にお願いすることです」 「観音菩薩に?」 「そうです。あの竜には 観音菩薩の息やかかかっているのです」 「ウーム」 と悟空は唸った。 「虫も食わぬような顔をしていて、 あの菩薩が愚連隊の元締めだとは知らなかったな」 「そんなことは我々の世界では常識なんですよ。 いくら我々の方で愚連隊の取締りを強化しても、 勢力のある方がやって来てすぐもらいさげをなさるので、 うっかりすると我々の方がひどい目にあわされるのです。 いきおい慎重にならざるを得ないじゃございませんか」 「ウーム」 ともう一度大きく唸って猿王は腕組みをしてしまった。 なるほどこれではいつまで経っても 世の中が住みよくならないはずだ。 口に慈悲を説き、三悪追放を提唱する観音菩薩が かげにまわって子分を養っているのだからな。 そう思って歯ぎしりをしていると、 悟空の前に一条の光りが射してきた。 ふと顔をあげると、いつやって来たか、 遙か上空に当の観音菩薩が立っている。 悟空ははねおきると、一跳びに空の上までとびあがった。 「やい、インチキ菩薩。慈悲の権化。 お前の正体を見破ったぞ」 「何をいうか。馬方さん」 と菩薩は応じた。 「お前は自分の尻の赤いのを見たことがないのかい!」 「お前は俺に恩を売っておいて、 俺を買収するつもりだったか知れないが、 そうは行かないぞ。 俺はスガモにいた連中みたいに、 昨日の敵は今日の友なんて 駄じゃれを言う奴じゃないんだ」 「私はお前に恩を売った覚えもなければ、 喧嘩を売った覚えもないよ」 「嘘出鱈目も休み休みに言え。 お前は私をさんざんからかった上に、 この間はあの糞坊主に緊箍児呪とやらいう 碌でもないまじないまで教えたじゃないか。 それでも俺に悪意をもっていないといいはるつもりか」 「アッハハハ……」 と菩薩は笑った。 「お前のような手のつけられない猿には、 残念ながら頭痛のタネが必要なのだ。 でないとお前は何をしでかすかわからんからな」 「俺の至らないところは俺も認めるがね」 と悟空は頭を抱えながら言った。 「しかし、何だってまた、 こんなところに愚連隊を放し飼いにして、 俺の師匠の馬を食わせたりするのだ?」 「そいつは私が悪かった」 と菩薩はあっさりと自分の非を認めた。 「あの竜は本当は西海竜王敖閏の三番目の息子でね、 若気の至りでちょっとした過ちを犯したが、 根はそう悪い奴ではないのだ。 それで私が特に玉帝にお願いしてもらいさげて、 ここでお前たちの来るのを待たせておいたのだ。 これから幾山河越えて行くのには、 竜馬と名のつく馬でなくちゃ到底目的地まで 辿りつくことが出来ないだろうと思ってね」 「そんなことなら、早くそう言えばよいものを」 と悟空はプツブツ言いながら、 「俺に大分痛めつけられたから、 おそろしがって出て来ないかも知れないよ」 観音は弟子の恵岸に命じて、 「三大子に私が来たからと言ってきなさい」 恵岸がその通り、川っぷちに行って大声で叫ぶと、 川はむくむくとふくれあがって、 やがて一匹の竜が顔をもたげた。 竜はあたりを見まわして、 中空に観音菩薩の姿をみとめると、 すぐ一人の青年に化けて、 自分も中空へあがって来て菩薩の前にひれ伏した。 「ご苦労でも、これからお前に 一働きしてもらおうと思っているのだがね」 菩薩がいうと、 「ハイ、どういうことでございましょうか?」 「これから西方浄土へお経をとりに行く和尚さんの お供をしてもらいたいのだ」 竜の青年はそばに悟空がいるのを見ると、ゾッとして、 「まさか和尚さんって、この猿じやないでしょうね」 「何が猿だ!」 と悟空が目を怒らせた。 「これはその和尚さんの一番弟子の孫悟空だよ」 と菩薩はおだてるように、 「お前と大分わたりあったらしいが、腕前はどうだった?」 「早くそうだと教えて下さればよかったのに、 名前は何だときいても答えないものだから、 世の中には手ごわい奴もあるものだと 舌をまいてしまいましたよ」 「お前がいつ俺の名前をきいた? どこのチンピラだと怒鳴っただけじやないか?」 と悟空が脇から口を出した。 「だってあんたは馬を返せの一点張りで、 どこから何の目的でここへ来たかも おっしやらなかったじやありませんか?」 「この猿のボスは自分の力以外のものをたのまない 自惚れ男だから、師匠のことなど口に出すものか」 と菩薩が言った。 「しかしだね、これから先々のこともあるからね、 見知らぬ土地へ行った時は、 目的を明らかにしておいた方がいいぞ。 土地土地の親分たちから 疑いの目で見られないだけでも気が楽だからな」 菩薩は竜のうなじの下にあるキラキラ光る玉の上に、 手に持っていた花瓶の中の柳で甘露をたらすと、 口の中で「変れ」と一喝した。 すると見よ。 悟空の前には白毛の馬が一頭立っているではないか。 「さあ、この馬をお師匠さんのところへ連れて行きなさい」 手綱をとって、悟空に渡そうとすると、悟空は手をふって、 「俺は行かないよ。俺は行かないよ。 自分ひとりで行くのなら、まだ話がわかるが、 涙腺しか持っていないような 泣きみそのお供をして行くのは嫌だ」 「お前はお前のお師匠さんに不足があるのか?」 と菩薩がきいた。 「不足があるというほどでもないが……」 「じゃわかったよ」 と菩薩は微笑しながら、悟空の肩を叩いた。 「お前は不安なんだろう。 善へのすすめは山を登るように険しく、 悪への誘いは坂をおりるようにたやすいものだ。 お前も一度は天下に覇王と謳われた英雄ではないか。 一生に一度ぐらい人のやらないことをやって見ろよ」 菩薩は柳の葉を三枚摘みとると、 それを悟空の頭のうしろにさした。 そして、ポイと悟空の頭を叩くと、 それは三本の金色の毛になって そのままそこに根をおろした。 「どんな危険におちいっても、 この三本の毛がお前の身を守ってくれるだろう」 三本足りなかった毛を足してもらった悟空が、 お礼を述べようとしてふりかえった時、 そこにはもはや菩薩の姿が見えず、 甘い匂うような風がそよそよと吹いている。 悟空は馬のたづなをひくと、 走るようにして三蔵のもとへ戻ってきた。 「お師匠さま。馬がいましたよ」 三蔵はやっと生色をとりもどして、 しきりに馬の横っ腹をなぜまわしていたが、 「悟空や。 この馬はちょっと見ないうちに肥ったような気がするが、 どこをぅろついていたのかね」 「馬は馬でもあの馬とは同じ馬ではありませんよ。 よおく見て下さい。 これが正真正銘の竜馬です。 観音菩薩がこの川の底に住んでいた竜を 馬に化してあなたにくださったのです」 「観音さまはどこにおいでです? 行ってお礼を申して来ましょう」 早くも手を合わせて南無阿弥陀仏を唱えている 三蔵法師を見ると、 「観音さまは今頃はもう南海の自分の家へ戻って ねていますよ。 さあ、いつまでもそんなに有難がってばかりいないで、 早く出かけるとしましょう。 仏の顔も日に三度というじゃありませんか?」 と孫悟空は矢の催促である。 |
2000-10-17-TUE
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