毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
三蔵創業の巻 第三章 観音院の夕暮 |
一 袈裟くらべ それから二カ月の月日がすぎた。 色褪せた蜂々には目もさめるような緑がよみがえり、 梅の花が散り尽した山路には早くも柳が 芽を吹きはじめている。 三蔵法師と孫悟空は春の景色をたのしみながら、 馬を西方へすすめる。 「悟空や、こうして無事に旅を続けることが出来るなんて 嘘みたいな話だね。 これも観音さまの御加護によるものだよ」 「そう思っておればまず間違いはないでしょうね」 と孫悟空はあまり素直でない相槌を打った。 見ると、悟空はあいた方の手で柳の枝をへし折って、 所在なげにふりまわしている。 「見てごらん、あの山の色の美しいこと」 しかし、悟空は知らぬ顔の半兵衛をきめ込んで、 今度は柳の枝をかじりにかかっている。 「お前は景色には興味がないようだね。 春には春を讃え、秋には秋を賞でるだけの 心の余裕が人間には必要なんだよ。 自然を愛する心は仏に通ずるものだ」 「ブーッ」 と悟空は口の中のものを地べたに吐き出した。 そして、叫んだ。 「俺は景色なんか大嫌いだ。平和主義も真ッ平だ」 それをきいても三蔵はもう驚かなかった。 二カ月も一緒に連れ立って旅をすれば、 相手がどんな奴かぐらいのことは 嫌でもよくわかるものである。 「俺は喧嘩の相手が欲しい。 腕がムズムズ鳴って仕方がない。 花よ月よ鳥よと言っている奴の気が知れんよ」 既に太陽が西へ落ちかかっていた。 三蔵は悟空が怪気焔をあげるに任せ、 馬上から山の遥か下の方を見おろした。 すると、森のかげに屋根らしきものが見えがくれしている。 「悟空や、あすこに見えるあれは何だろう」 言われて孫悟空は顔をあげた。 「かなり大きな建物ですね、王侯貴族の御殿でなければ、 きっと坊主たちの住んでいる寺でしょう。 日が暮れないうちに急ぐとしましょう」 二人が坂を下りると、はたしてそこは 松や檜の老樹に囲まれた荘厳な寺院である。 馬をおりた三蔵が山門をくぐろうとすると、 中から一人の坊主が出てきた。 「私は西方雷音寺へ参る旅の僧ですが、 日が暮れて参りましたので、 一夜の宿をお借りしたいと思っておより致しました」 三蔵が丁寧に挨拶をすると、 「それはそれは。どうぞお入り下さい」 三蔵が馬を牽いてうしろに立っている悟空に 手招きをすると、坊主は悟空の醜悪な形相に驚いて、 「ありゃ一体何です?」 「シーッ」 と三蔵はあわてて制した。 「あれはせっかちな男ですから、 そんなことをいうと目をむいて怒り出しますよ。 ──あれは私の弟子なんです」 「あんたも悪趣味なお方ですな。 あんな奇妙キテレツなお弟子さんを連れて歩くなんて」 「あんたたちにはわからないのですよ。 顔は奇妙でも案外使い途のある奴でしてね」 山門を入ると、正殿に「観音禅院」と 大きな字が四ツ書かれている。 「観音様をお祭りしてあるお寺へ来るとは よくよくのご縁だ。 拝ませていただいてもよろしゅうございますか」 三蔵がそういうと、坊主は番人に 拝殿の扉を開くように命じ、彼を中へ導き入れた。 悟空が馬をつないで、あとから入ると、 三蔵は早くも金色燦然たる仏像の前にひざまずき、 坊主は木魚を叩いている。 ひまをもてあました悟空は鐘楼に登って、 鐘をつきはじめた。 「ゴーン、ゴンゴン、ゴンゴンゴン……」 鐘は人間と違ってこちらの思う通りの音を立ててくれる。 それが面白くて、悟空は木魚の音がやんでも まだやたらに鐘を乱打していた。 「コラコラ」 番人がそばへ来て言った。 「もう礼拝は終ったのですよ」 「そんなこと知っているさ」 と悟空は笑いながら、 「世間が嫌になったら坊主になって鐘をつけ、 というじやないか。 鐘ってものはいいものだな」 鐘を乱打する音をきいて、 寺中の小僧も長老も何ごとかと思ってとび出してきた。 「誰だ! 鐘を目茶苦茶叩いているのは」 「この俺様だ。お前たちのご先祖さまだ」 悠々と出て来た悟空のキテレツな顔を見ると、 坊主たちはたまげて、 「やあ、雷様だ」 と逃げ腰になった。 「雷様は俺の孫のそのまた孫さ」 と胸を叩きながら、 「おいおい。そう怖がらなくたっていいじゃないか。 唐土から来た孫行者とは俺のことだ」 丁度そこへ人品卑しからぬ三蔵法師が出て来たので、 坊主たちはようやく安心して、 「ではどうぞこちらへ」 と二人を方丈の方へ案内した。 お茶が出て、そのあとで精進料理になった。 それを食べ終って三蔵がまだご馳走さまも言わないうちに、 一人の老僧が二人の小僧に支えられながら、 奥の方から出て来た。 「やあ、住職さまがおいでだ」 坊主たちの声に急いで立ちあがると、 満面雛だらけの見るからに年輪を重ねた老僧である。 目は窪み、歯は抜けおち、腰は曲がっている。 三蔵は急いでそばへ駐けよると、 「住職さまでいらっしやいますか。 ご厄介になっております」 「さきほど若い者が奥へ来て、 東土から坊さんがおいでだというものだから、 是非お目にかかりたいと思いましてね」 「それはそれは。ご老体をおわずらわせして、 まことに痛み入ります」 老僧は三蔵に椅子をすすめ、自分も座席についた。 「東土からここまでだとずいぶん長い旅でございましょう」 「ええ、長安を出てから五千里余りで両界山につき、 そこから西番哈国をすぎて、更に五、六千里歩いて、 やっとこちらへ参りました」 「私のように山門から一歩も出たことのない者には 想像も及ばない距離でございますね。 いくら年をとっても井戸の蛙は井戸の蛙でございますよ」 「住職さまはいくつにおなりでございますか?」 と三蔵はきいた。 「今年で二百七十歳になります」 そばできいていた孫悟空はニヤリと笑って、 「ナーンダ。俺から見たら万代の子孫じゃねえか」 「これ何を言うか」 三蔵がたしなめたので、悟空はあわてて口をおおった。 老僧も猿がバカを言っているのだと思って気にもかけず、 小僧にお茶を持って来るように命じた。 しばらくすると、小僧が美しい玉の盆に金の小さな茶碗を、 更にもう一人の小僧が手に白銅の茶壷を捧げて現われた。 出されたお茶をひとくち含むと、 何とも言えないさわやかな味である。 「本当に素晴らしい物でございますね。 お茶のかおりと言い、この器の色と言い形と言い……」 三蔵がロをきわめて賞めたたえると、 「おほめにあずかるほどの代物ではございません。 あなたこそ文明開化のお国の方ですから、 さだめし珍しい宝物をお持ちでございましょう」 「いいえ、私の国には別段これといった珍しいものは ございません。 仮にあったとしても旅をする身ですから 持って参ることも出来ません」 そばできいていた孫悟空は三蔵の袖をひっばって、 「お師匠さま。あるではありませんか。 お師匠さまのあの袈裟が」 袈裟ときいて、傍の坊主たちがフフフ……と 含み笑いをした。 「何がおかしい」 と悟空はひらきなおった。 「そりや当り前ですよ、 袈裟なんてものは和尚と名のつく者なら 誰でも持っているものですからね」 と坊主の中の一人が言った。 「私だって二、三十枚は持っていますから、 二百五、六十年も和尚をして来た 私どものお師匠さまなら、 まず七、八百枚は下らんでしょう」 「じや、そいつを出して見せてもらおうじやないか」 悟空も悟空なら老僧も老僧。 早速、寺番に命じて 倉庫の中からつづらを十二個も運んで来させた。 それをあけて一枚一枚衣紋竿にかけると、 さすが自慢するだけのことはあって、 立ちどころに坊主衣裳の展覧会場が出来上ってしまった。 一枚また一枚と悟空は仔細に眺めて行ったが、 どれもこれも刺繍を施したものではあるが、 天衣無縫からは程遠い。 「よしよし、では、今度はこちとらのをご覧に入れよう」 悟空がとりに行こうとすると、 三蔵はびっくりしてひきとめた。 「出家ともあろうものが人と持物の自慢をしてどうする。 それにお前も私も旅先だってことを忘れちゃ駄目だよ」 「袈裟を見せるぐらいのこと何でもないじゃありませんか」 「そうじやないよ。むかしから “珍しいものを慾張りに見せるな” といわれているだろう。 慾張りの目にふれたが最後、 慾が出るにきまっている。 慾が出れば策略が生ずる。 策略が生ずれば、禍が起る。 禍が起れば身の破滅にならないとも限らないよ」 「なあに、ご心配には及びません。 一切の責任はこの私が負います」 ききわけのない猿の奴め、 師匠のとめるのもきかないで行李のなかから 風呂敷包みをとり出してくると、 皆の見ている前でほどきほじめた。 中を開くと油紙があって、油紙をひらくと、また油紙。 それを更にひらいた時、周囲で、 「わあ−ッ」とざわめきが起った。 見よ見よ。 錦襴袈裟のこの輝きを見よ。 天下に二枚とない素略しいこの袈裟を見ると、 はたして老住職はムラムラと湧きおこってくる好心を おさえることが出来なくなった。 彼は三蔵法師の前にひざまずくと、 「ああ、ああ、 緑なきものとはこの私のことでございましょう」 見ると目に涙さえ浮べている。 三蔵は急いで扶けおこしながら、 「どうなさいました?」 「あなたのこの袈裟を見ようと思っても、この暗さでは、 私のような年寄りの目ではよく見えないのです」 「明りをもって来て、どうぞ手にとってごらん下さい」 「いやいや、 光りのあるもののそばへ明りをもって来たところで 何の役に立ちましょう」 「一体、どうしたいとおっしゃるのですか?」 と悟空がきいた。 「もしあなたが私を疑っておいでにならなかったら、 今晩一晩、私に貸していただきたいのです。 自分の部屋へ戻ってゆっくり鑑賞して、 明朝、お発ちになる時には必ずお返し致します」 それをきくと、三蔵はうらめしそうな顔をして 悟空の方を睨んだ。 「大丈夫ですよ。一晩ぐらい貸してやりましょう。 万一のことがあったら、この私に任せて下さい」 三蔵は断る口実が見つからないので、やむを得ず、 「では一晩だけお貸し致しますが、 くれぐれも大事に取り扱って下さい」 老僧は皺の多い顔を一そう皺だらけにして喜び、 禅堂に二人分の寝床の用意をするように 坊主たちに言いつけると、 袈裟を抱くようにして自分の部屋へひきあげて行った。 |
2000-10-18-WED
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